スノー・ノイズ
キーボードを打つ指先が、わずかな躊躇が滲んでいた。
画面で点滅するカーソルは、僕たちの運命の「残り時間」そのもののように見えた。
「おい、何を打つつもりだ!」
秋山が僕の肩を掴んだ。彼の目は血走っているが、その奥には「諦め」に近い冷徹な光が宿っていた。
「彼女の言う通りに『消去』のコードを入れろ! いい加減に現実を見ろ。葬儀は終わったんだ。骨は焼かれ、灰になった。あの中に彼女はいない。……いいか、今俺たちがやっているのは、死霊術じゃない。磁気嵐という名の宇宙のバグを、彼女の残した数式でデバッグしようとしているだけなんだぞ」
秋山は、彼女を取り戻せるなんて一ミリも信じていない。
彼はただ、彼女の汚名をそそぎ、科学者として「正解」を選ぼうとしているだけだった。
サチも、胸元に両手を添えたまま、深い沈黙に沈んでいた。
「……わかってる。あの子が戻ってくるなんて、ありえない。でも、せめて最後の一行を、あの子の望んだ形で閉じてあげたいだけなの」
みんな、最初から不可能だと知っていた。
僕だけだった。
あの日、葬儀場でマシュマロのように膨れ上がった彼女の額に触れた時の、あの「生きていたい」と叫んでいるような量子的震えを信じているのは、僕だけなのだ。
僕は、周囲の沈黙を無視して、キーボードに二つの記号を打ち込んだ。
それは、戸籍上の名前ではない。僕たちが、あの居酒屋の芳名帳に刻んだ、二人だけのバイナリ。
確定を押した瞬間、居酒屋の空気が爆発したかのような衝撃が走った。
だが、画面に現れたのは「成功」の文字ではなかった。
『Error:Mass Reconstruction Failed(質量再構成に失敗)。……構成物質が不足しています』
「……ほら見ろ!」
秋山が絶望的に吐き捨てた。
「記号が合っていたところで、材料がないんだ。骨も肉も、全部煙になって空へ消えたんだよ! 僕たちがやろうとしているのは、設計図はあるのにレンガがないまま家を建てようとするような、ただの狂気だ!」
「……材料がないって、どういうことだ、秋山!」
僕の問いに、秋山は狂ったように画面上の数値を指し示した。
「いいか、人間一人を再構成するには、天文学的な量の素粒子と、それを繋ぎ止めるための莫大なエネルギーが必要なんだ。でも、ここにあるのは彼女の『情報の影』だけだ。彼女を肉体としてこの世界に定着させるための『質量』のバックアップが、どこにも存在しないんだよ。……火葬場の煙に巻かれて消えた炭素を、どうやってこの空気中から集めろって言うんだ!」
秋山の叫びは正論だった。
彼女が用意したのは、あくまで自分という存在を証明するための「コード」であり、それを物理的な肉体に変換するための「3Dプリンターのフィラメント」に相当する物質が、この居酒屋には欠けていたのだ。
「システムは、器のデータだけを生成しようとしている。このまま強行すれば、彼女は形を成さないまま、ただの光のノイズとして霧散するぞ!」
秋山の絶望が店内に伝染していく。
設計図は完璧だ。
鍵も合っている。
けれど、彼女を形作るための「命の欠片」が、もうこの世界には一欠片も残っていない。
その時だった。カウンターの上で、おぞましい異変が起きた。
「……ニャ、……」
灰色のデジットが、短く、くぐもった悲鳴を上げた。
僕が手を伸ばそうとした瞬間、デジットの柔らかな毛並みが、まるでテレビのスノーノイズのようにザラリと崩れ、輪郭がブレ始めた。
「デジット……!? おい、どうしたんだ!」
僕が叫んだのと、ビットの体が漆黒の霧となって霧散し始めたのは同時だった。
二匹の肉体が、物理法則を無視して、粒子レベルで解体されていく。
内臓も、骨も、温かな血も、すべてが「0」と「1」のノイズへと変換され、空中に吸い込まれていく。
「キャアアアアア!!」
サチが耳を塞いで悲鳴を上げた。
目の前で愛らしい生き物が「砂」のように分解されていく光景に、彼女の顔は紙のように白くなっている。
「やめて! 何が起きてるの!? 嫌、見たくない! 助けて、誰か助けて!!」
「デジット! デジットおぉぉ!!」
僕は理性を失い、指の間をこぼれ落ちていく灰色のノイズを必死に掴もうとした。
だが、手に触れるのは生命の温もりではなく、パチパチと皮膚を焼く不気味な静電気の痛みだけだった。
「やめろ、触るな!」
秋山が僕を突き飛ばした。彼の声もまた、恐怖で上ずっている。
「これは……再構成の材料だ! 店の備品じゃ足りないから、より高密度な生命の情報を食い始めたんだ! 逃げろ、この店そのものが『あの子』を造るための生贄になろうとしてる!」
秋山は必死に端末を操作しようとしたが、その指はガタガタと震えて定まらない。
昨日まで信じていた「科学」が、目の前で化け物のように変貌していく現実を、彼の明晰な頭脳が拒絶し、悲鳴を上げていた。
「そんな……あああ……っ!」
僕は床に膝をつき、二匹がいたはずの空っぽの場所を見つめて絶望した。
猫たちの消滅と引き換えに、店内の壁に張り巡らされた銅のメッシュ装飾が、見たこともない赤銅色に加熱され始めた。
木製のカウンターが、グラスのケイ素が、棚の酒が、音を立てて粒子に変わっていく。
「構わないよ」
マスターの声だけが、地獄のような惨状の中で冷徹に響いた。
「あの子は、こうなることを分かっていた。自分の帰還がどれほど非道な対価を求めるか……。だから、あの子は二匹の猫をこの店に残したんだ。……準備はできているかい? まだ、足りないものがあるんだ」
秋山の端末に、真っ赤な警告が再び躍る。
『Insufficient Memory:Overflow(メモリ不足)』
「クソッ、ダメだ!ダメだ! 彼女をこの世界に定着させるための『固定値』が足りない! 彼女を形作るための肉体の材料は揃った。でも、彼女の魂をこの現実に繋ぎ止めておくための、圧倒的な『記憶の容量』が足りないんだ!」
その瞬間、僕の脳裏を、これまでにない激しい耳鳴りが襲った。
「……っあ!」
視界が白く爆ぜる。
それと同時に、僕の心の中から、何かが猛烈な勢いで吸い出されていくのを感じた。
初めて二人で歩いた多摩川の河川敷。
明け方まで語り明かした、あの狭いアパートの匂い。
彼女が僕の名前を呼ぶ時の、あの独特な声の響き。
それらの輝かしい記憶が、一つ、また一つと、モニターを流れる冷徹なコードへと変換されていく。
秋山の指が鍵盤の上で凍りつく。
その時、モニターの端に、見たこともない異質なデータストリームが走り始めた。
「……なんだ、このパケットは? システムが外部の生体メモリを勝手にマウントしてる……!? 待て、お前の時計を見ろ!」
秋山が指差した僕の左手首、BCD時計が血のような赤色で激しく明滅し、皮膚に食い込むほど熱を帯びている。
同時に、モニターには僕の脳波(EEG)がデジタル信号に変換され、彼女の「過去の行動ログ」を補完するために凄まじい勢いで上書き(オーバーライト)されていく様子が映し出された。
「よせ! お前の脳が、システムにメインメモリとしてマウントされている! このままじゃ、彼女を消し去るための照合データとして、お前の記憶はすべて奪い尽くされるぞ!」
秋山が叫び、僕をシステムから引き剥がそうとする。
だが、僕の左手首にあるBCD時計は、火傷しそうな熱を帯びて腕に食い込み、目に見えない磁力の鎖で僕をカウンターに縛り付けていた。
視界が白く爆ぜるたびに、心の中から大切な思い出が剥がれ落ち、冷徹なコードへと変換されていく。
大切な記憶を奪われるたびに、僕の右手は、まるで投影されたホログラムのようにノイズを孕んで透け始めた。
肉体が消えるわけではない。
けれど、自分を自分たらしめる「記憶」という根拠を失うことで、世界における僕の存在そのものが、不確かなものへと揺らいでいた。
「……いいんだ、秋山。これでいい」
僕は、自分の存在が削り取られていく激痛の中で、静かに微笑んだ。
「宇宙のシステムが僕の脳をハッキングして、彼女を消し去るためのデータを奪おうとしているのなら……今、僕の脳は、この時計を通じて宇宙の回路と直結しているはずだ」
「……まさか、お前……逆流させるつもりか!」
秋山が目を見開き、狂ったようにキーボードを叩いて僕の脳波をサポートする。
「システムが僕を消そうとする吸引力を、そのまま逆利用してやる。奪われるんじゃない。僕が、僕の意思で彼女へ『自分』を流し込むんだ。僕が空っぽになればなるほど、あちら側にいる彼女の輪郭は、僕の想いを受け取って、より鮮明に再構成される」
それは、システムによる一方的な略奪を、命懸けの「手渡し」へと反転させる捨て身の反撃だった。
「行ってこい、僕の全部……! 君という無を、ただ一つの有として観測し続けるために!」
僕の意識が完全にホワイトアウトする直前、スピーカーから流れる彼女の鼻歌が、これまでで最も強く、そして暖かく、僕の名前を呼んだ気がした。




