並行線の交点
空が完全に剥がれ落ち、居酒屋の残骸越しに降り注ぐ雪は、もはや白い結晶ではなく、世界が「未定義」に書き換えられていくデジタルなスノーノイズへと変わっていた。
僕は、目の前の光の中に右手を差し出していた。
指先が、何かに触れる。
それは、葬儀場で触れたあの冷たい感触ではない。
確かな皮膚の柔らかさと、その下に流れる、微かだが熱い脈動。
指と指が重なり、絡み合う。
その瞬間、僕の体の中を、膨大な電圧の「拒絶」が駆け抜けた。
僕の脳は、すでに空っぽだった。
秋山が叫んだ通り、彼女を形作るための「設計図」として、僕の中の彼女の記憶はすべて消費し尽くされていた。
彼女と触れたデジットとビットの柔らかな温もりも、居酒屋で交わした数式の話も、別れ際の彼女の寂しそうな背中も。
宇宙という巨大な計算機は、僕の中から「彼女の死(0)」を消し去るために、僕の「記憶」を上書き(オーバーライト)し続けている。
「……あ……」
声が出ない。
僕は、目の前の女性を「誰か」と定義するための言葉を失っていた。
静止した時間の中で、彼女の琥珀色の瞳だけが深い光を湛えている。
ただ一点、その唇の微かな震えだけが、彼女の心臓の鼓動を僕に伝えていた。
彼女は僕を覚えている。
けれど、僕には彼女を証明するためのデータが一つも残っていない。
「秋山……サチ……教えてくれ! 彼女は……」
背後で秋山が、火を噴いたパソコンを抱えたまま、絶望的に首を振った。
「ダメだ……。僕たちの記憶の中の彼女の名前も、今、モノリスに吸い取られている。
世界が彼女を『未定義(Null)』として処理しようとしているんだ! 名前がなきゃ、彼女はただの情報の塊として霧散しちまう!」
再構成は失敗しかけていた。
器(肉体)はあっても、それを世界に繋ぎ止めるラベル(名前)がない。
その時。
瓦礫の山から一匹の猫が、悠然と歩み寄ってきた。
灰と黒の毛が複雑に混ざり合い、左右で瞳の色が異なる、奇妙な一匹。
それは、二匹が重なり合った(スーパーポジション)姿。
デジットでもビットでもなく、その両方の性質を持った、この世界のバグそのもののような存在。
猫は冷めた瞳でこちらを見上げ、一冊の古い「居酒屋の芳名帳」part42を前足で踏みつけた。
あの日。
まだ何者でもなかった僕たちが、互いの正体を知らぬまま、そのノートの1ページ目に記した「定義」。
宇宙のシステムがどれほど記憶を奪おうとも、紙に刻まれた筆圧の凹凸までは消し去れなかった。
僕は、微かな共鳴を刻む手でそのノートを手に取り、真っ黒なインクの滲みを指先でなぞった。
脳が拒絶しても、魂の鼓動が、その「音」を奏でようとしていた。
彼女が夢の中で、僕の頬を拭いながら「いまはその時じゃない」と言った理由。
それは、僕が自分への想いをすべて燃料として差し出し、真っ白なキャンバスに戻ったこの瞬間に、この「本当の名前」を宇宙に再入力するためだったのだ。
準備は、整った。
宇宙が僕という存在を消し去る前に、僕はたった一行の「真実」をこの世界に打ち込む。
「…………」
僕は、自分の魂を削り出すように、その文字を口にした。
第11話 【平行線の交差点】を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
物語はついに、世界の理を懸けた最後の局面を迎えました。
崩落する場所で、男が最後に入力した「正解」。
それがもたらす結末は、奇跡か、それとも――。
【最終話・リリース予告】
本作『シュレーディンガーの居酒屋』は、本日、日付が変わった午前0時(深夜24時)に最終話【バイナリの体温 ―0と1の特異点―】を投稿いたします。
プロローグ+12話で紡いだ旅の果て、その最後の瞬間を、ぜひリアルタイムで見届けていただければ幸いです。
今夜、深夜0時。 この場所で、皆様をお待ちしております。




