第1話:泥まみれの戦場と、美しくない数式
冷たい雨が、容赦なく戦場を叩きつけていた。
鉄の錆びた匂いと、肉が焦げる悪臭が鼻を突く。ぬかるんだ泥の上には、味方だったはずの兵士たちの残骸が転がっていた。
「また、無駄遣いか」
私は、黒こげになった死体の山を見下ろして、短く息を吐いた。
数十メートル先で、再び鼓膜を破るような爆発音が響く。後方に陣取る上位貴族の魔術師が放った『炎の壁』が、敵の前衛部隊を焼き尽くした音だ。
確かに敵は死んだ。だが、同時に突撃していた味方の歩兵部隊も、その炎に飲み込まれて全滅している。
貴族たちは、前線で戦う平民の兵士を「必要な犠牲」と呼ぶ。魔法を持たない人間など、いくら死んでも石ころと同じ。代わりはいくらでもいるという考えだ。
だが、私の目にはまったく違う景色が見えている。
空中にうっすらと残る、炎を生み出した魔力の残滓。それは、あまりにも無駄が多く、ひどい計算ミスを含んだエネルギーの塊だった。
(……熱効率が悪すぎる。魔力を炎に変換する過程で、三割以上のエネルギーが周囲への無差別な熱放射として逃げている。あの術式の組み方なら、半分の魔力で敵の急所だけを正確に貫けるのに)
私は魔法が使えない。体内に魔力を生み出す器官が一切ないのだ。
しかしその代わり、他人が使う魔法の「形」や「計算式」が、なぜか頭の中にくっきりと浮かぶ。どこに無駄な負荷がかかっていて、どこを突けばその魔法が構造的に崩壊するのかが、精緻な設計図を見るようにはっきりと分かるのだ。
今の私の仕事は、この最前線で捨てられた武器や、死体から金目のものを回収すること。いわば、戦場の掃除屋だ。
誰も私を気に留めない。魔法が使えない者は、この世界ではただの「動くゴミ」と同じ扱いだからだ。
「おい、そこのゴミ! 突っ立ってないでさっさと魔力石を運べ!」
豚のように太った部隊指揮官が、私に向かって怒鳴りつけた。
彼の右手には、宝石が埋め込まれた高価な杖が握られている。その先端には、次の魔法を撃つための赤い光が、ギリギリと音を立てて集まっていた。
(ああ、また間違えている)
私は心の中で深くため息をついた。
彼の杖に集まっている魔力は、杖の素材が耐えられる許容量を完全に超えている。
「一、二……」
私が小さく秒数を数え始めた。
指揮官は、自分の杖の異変にまったく気づいていない。より強力な魔法を放って手柄を立てることしか頭にないのだろう。
だが、物理的な限界は精神論では覆らない。杖の内部を通る魔力の回路が、過剰な熱に耐えきれずに焼き切れるのが見えた。
「三」
バキィッ!!
乾いた破裂音と共に、指揮官の杖が真っ二つに裂けた。
行き場を失った圧縮魔力が、光の波となって周囲に弾け飛ぶ。
「ぎゃあぁぁっ!」
指揮官は悲鳴を上げる間もなく吹き飛ばされ、泥水の中に無様に叩きつけられた。自業自得だ。自分の道具の限界値すら計算できない者が、戦場で生き残れるはずがない。
周囲の兵士たちがパニックに陥る中、私はゆっくりと倒れた指揮官の元へ歩み寄った。全身を強く打って呻いているが、命に別状はないだろう。ただ、自慢の杖は使い物にならなくなり、魔力を通していた彼の右腕もひどく焼け焦げている。
「き、貴様……何を見ている! 早く私を助けろ!」
痛みに顔を歪めながら、指揮官がわめき散らす。
私は彼に手を貸すことはせず、泥に沈んだ杖の破片を拾い上げた。
「杖の伝導率を計算していませんね。あなたが使おうとした『爆炎』の術式に対して、この杖の回路は細すぎます。例えるなら、細い管に大量の水を無理やり流し込んだ状態です。破裂するのは当然の結果ですよ」
「な、何をでたらめを……! これは王都で特別に作らせた高価な杖だぞ!」
「高価かどうかは関係ありません。構造的な欠陥の問題です。それに、術式の組み方も雑すぎる。第三節の結び目を少し変えれば、変換ロスを抑えつつ、安全に発動できたはずです」
魔法が使えない底辺の人間に正論をぶつけられ、指揮官の顔が屈辱と怒りで真っ赤に染まる。
「黙れ! 魔力を持たないクズが、偉そうに魔法を語るな!」
彼が怒りに任せて立ち上がろうとした、その瞬間だった。
私たちの頭上に、巨大な暗い影が落ちた。
「……敵の、反撃だ!」
誰かが絶望の叫びを上げた。
先ほどの指揮官の自爆の光が、こちらの位置を敵に教えてしまったのだ。
空を見上げると、巨大な火球がいくつも連なり、私たちの陣地めがけてゆっくりと降臨してくるのが見えた。味方の防護魔法は、先ほどの混乱ですでに消え去っている。直撃すれば、ここにいる全員が灰になる。
「終わった……」
兵士たちが武器を投げ出し、座り込む。指揮官も恐怖で腰を抜かし、泡を吹いている。
だが、私は冷静だった。空から迫る火球の軌道と、それを構成する複雑な術式を、頭の中で瞬時に分解していく。
(……見た目は派手だが、無駄が多い粗末な術式だ。力のバランスが偏っている。弱点は、中央の結節点だ)
私は足元に落ちていた、指揮官の砕けた杖の破片を握り直した。
破片の中には、まだわずかな魔力が残っている。ほんの少しの力でいい。計算通りに急所を突けば、どんな巨大な魔法も自重で崩壊する。
私は泥だらけの腕を上げ、迫り来る巨大な死の塊に向かって、静かに破片を構えた。




