第二十六話『金腕のニナ その⑱』
軍医レイモンド・ノルトンは驚きを隠せないでいた。完璧な治療を施したと自負しているとは言え、ニナ・ゲッペルの回復力には目を見張るものがあったからだ。報告例のない話ではない。何十年にも渡って医学書を読み漁り、暇さえあれば最新のレポートにもひと通り目を通している。そして何より、意志の力という変数の偉大さは、軍医だからこそよく知っている。
そんな老人の目から見ても、ニナの回復はあまりにも早すぎた。
「今朝の調子はどうかな?」
机に荷物一式を置き、問診票のシートをボードに噛ませながら尋ねるレイモンド。
「問題ないです。」
答えは、頑ななまでにいつも通り。
しかし強がりとは言い切れない。レイモンドが部屋にやって来た時、少女はベッドに座って、コップの水をちびちびと飲みながら朝の診察を待っていたのだ。この部屋には簡易的なシンクと蛇口、そしてコップや小皿などの簡単な食器が用意されている。だから患者がコップで水を飲んでいる事自体は、何もおかしくない。
———おかしいのは、『ニナが』という事。
少女は一ヶ月以上もの間、寝たきりだった。その前は、仮死状態にも等しいほどの満身創痍。
レイモンドが保護した当初は、本当に危険な状態だったのだ。自力で呼吸すらままならないほどに衰弱した身体。傷口には感染症を患った形跡もあり。何度も殴打を受けた為か、筋肉も、骨も、内臓も酷く損傷していた。生きているのが不思議なほどの状態だったが、レイモンドの知識と手元の機材薬剤で治療できない症状ではない。
そういう時、———医者の行動は決まっている。
手遅れになる前に、尽くすべき『手』は全て尽くす。それが職務。それが、医者の存在意義なのだから。
問診票の準備を終えると、胸ポケットからペンを取り出しながら、レイモンドはいつものように丸椅子に腰掛けた。
「しかし、相変わらず無理をする。この距離を歩いたのか?」
ベッドから蛇口までの距離は、およそ四・五メートル。六畳ほどの広さの部屋自体はそこまで広い部類ではないが、問題はベッドから蛇口まで、独力で歩かなければならなかった事にある。
僅か三日前に長い昏睡状態から目を覚ました少女。当初は腕も足も動かなかった少女が、こんな短期間で歩行能力まで取り戻した例は、例外中の例外と言う他無いだろう。
「まあ。喉が渇いたので。」
何でも無い事のように言うニナ。
眼鏡の位置を直しながらじっと少女を見つめると、レイモンドは暫くしてから溜息をついた。
「・・・夜中・・・いや、朝方のスポーツか。治りが早いんで余計もどかしいだろうが、程々にせんと痛い目を見るぞ。」
目覚めた以上は必要ないので、ニナの身体からは生体ログの計測装置を外してある。にも関わらず、老軍医はニナの行動を難なく言い当てていた。データなど見なくても、経過の様子と患者の人となりが分かれば、レイモンドは概ね分かってしまう。人目がない時にこそ、ニナは必死に努力をするタイプなのだろうと。
それを見透かされて、少女はバツが悪そうに目を逸らす。コップ裏に隠れるように顔を鎮める姿は、正に歳相応の少女そのものだ。
「注射、しないんですか?」
レイモンドの小言は、もう聞き飽きた。話題を変えようと、質問してみる。
当然、無いなら無いに越した事はない。レイモンドのステロイド注射の効果自体はニナも認めるところではあるが、あの感覚は何度経験しても慣れるものではない。全身の発汗と発熱。頭痛に、倦怠感に、臓器の内と外がひっくり返るような不快感。
『山を越えるまでの辛抱』とは、レイモンドの言葉だ———。
その言葉に嘘はないが、山の標高が矢鱈と高いのはどうにかならないものだろうか。
そんな事を考えながら問い掛けるニナに、しかし軍医は静かに首を振った。
「もう薬は無しだ。」
問診票にペンを走らせながら、レイモンドは話の先を続ける。
「通常であれば、ステロイド注射の効果は今日か明日ごろに出始めるものだ。ここから段階的に、腕や足を動かす訓練を始める。そして都合、覚醒の日から二週間ほど掛けて今の君の状態に至るわけだ。」
いつも通りの無表情、そして落ち着いた低い声。老人はペン先でニナの腕や足を指し示しながら言った。
押し寄せる高熱と倦怠感、そしてその他多数の症状に抗いながら、必死に身体を動かす真似事を続けていた・・・と考えれば、あり得ない話ではない。注射に伴う様々な症状は全て、閉じていた身体機能を叩き起こす為のショックなのだから。最大限の血流、最大限の神経過敏、最大限の覚醒効果は、つまるところ『副作用の山』を迎えるまでの間に発生する。その時に敢えて運動するのは、こと最速の回復を狙うという意味なら理に適っているのだ。
なんという、———忍耐か。
愚問だと、老人は静かに頭を振る。
「出来るからやっただけです。無理な事は、しませんよ。」
言いながら、手のひらを閉じたり開いたりしてみるニナ。指の動きは震えてぎこちないが、それでも五指の全てが運動していた。それを見ては、レイモンドはもはや苦笑する他ない。
問診は触診に移り、アザの様子を確認する。真っ赤に腫れ上がっていたアザも、ようやく色が引き始めて、徐々に本来の肌色の面積が増え始めていた。
「アザはいずれ消えるだろうが、切り傷は別だ。整形手術でもせねば、痕は一生残り続ける。」
傷の診察を終えて、患者衣の上着を着せながら言うレイモンド。上手く袖の穴に腕を差し込めず、苦戦しながら少女は返答する。
「問題ないです。どうせ服で隠れるとこばっかだし。」
なんとか患者衣に両肩を通し終えると、震える手でボタンを止めながら付け足した。
「あ、そうだ。今日からお手伝いの子、来なくて良いですよ。」
「そうはいかんだろ。」
「身の回りの世話ぐらい、無理じゃないです。」
睨みつけるようなニナの目が、真っ直ぐにレイモンドの相貌を射抜く。
それは、困難と知っていながら、それでも立ち向かう者特有の目だ。戦時中、何度か、ちょうどこんな目の兵士を手当した事がある。こういう手合いは、何を言っても通じない。懐かしい無力感に耐えきれず、軍医は溜息をつきながら目線を下ろした。
「・・・まあ、リハビリにはなるか。もしもの時は素直にコールすると、そう約束出来るなら許可しよう。」
言いながら、レイモンドはニナのベッド脇に設置されたナースコールのボタンを指し示す。口約束の効力をよく知っている彼ではあるが、ただで許すわけにも行かない。
ニナはボタンを横目で見ると、暫く黙り込んでしまった。それからボタンと老人の指先とを交互に見比べ、観念したように天井を仰ぎ見る。
「分かったよ・・・呼びますよ。もしもの時は。」
そしてベッドに座った姿勢で身体の力を抜くと、そのまま背後へ倒れ込むようにして寝転んだ。
それだけ確認すると、レイモンドは身支度を済ませて出口の方へ向かう。ファイルや手持ちの器具を確認しながら小さなバッグに詰めて、老人はトボトボとドアを目指していた。それは、ドアストッパーで半開きにされた扉だ。
治療が許されたとは言え、ニナ自身の罪が許されたわけでは無い。
———しかし。
如何に辺境とは言え。
如何に精度が腐敗しているとは言え。
軍の訓練施設から、死人が出ては困る。
それが、———ニナを贖罪の柱から外して良い理由だった。
ニナの部屋は内側からは鍵を開けないようになっている。レイモンドが所持しているデバイスを使えば開く事が出来るが、それは面倒くさい。どうせ逃げられるような容態でも、逃げるような患者でもないので、ドアストッパーで半開きにしておけば良いだろうという判断だ。
「では、お大事に。」
扉を閉めながら、レイモンドは決まった挨拶を残して行く。最後にもう一度ニナの様子を伺うと、少女は既に運動を始めていた。ベッドに倒れたまま両腕を上げて、手のひらを閉じたり開いたり。腕は震え、指の動きもぎこちない。拳を握る度に荒い息を漏らし、食いしばった歯が見え隠れする。
「・・・うん。」
扉が完全に閉じる間際、レイモンドは今一度ニナと目が合った。最後に聞こえたものは、彼女なりの返事だったのかも知れない。
———————
—————
———
それから、一日は実に穏やかに過ぎ去っていった。退屈なほど穏やかだったせいか、ニナは昼の時間を矢鱈と長く感じていた。退屈しのぎに腕を動かし、足を動かし。壁伝いに部屋を歩いてみては、身に余る疲労感に耐えかねて倒れ伏す。ベッドまでたどり着かなければ、床でも構わない。
そうやって己を追い込む事でのみ、手足の『勘』は取り戻せるのだ。
「はあ、はあ。あと一周したら、さすがに寝ようかな。」
壁伝いに部屋を周回しながら、己を鼓舞する。口に出しただけでも、三回目だったか。五回目だったか。こういう事は数える事自体が馬鹿らしいので、正確な数は覚えていない。
部屋は実に殺風景だ。ドアが二つ。閉ざされた出入り口と、トイレの扉。ユニットバスになってはいるが、今のニナでは自力でシャワーを浴びるのは難しい。皮脂や汚れを落とし、殺菌消毒効果がある、使い捨ての衛生タオルで身体を拭くのが精一杯だ。簡易的なシンクと戸棚もこの辺り。
部屋は真四角。出入り口から見て右側の壁にはニナのベッドが、左側の壁には簡易的な机と丸椅子が用意されている。照明とデジタル時計。時計には今日の日付も表示されている。その他に救急箱もあるが、箱にはしっかりとロックが掛かっていた。そして出入り口の対角線上には、大きな窓が一つ。落下防止の格子から、部屋を満たす陽光が差し込んでいる。
そんな部屋の中をとぼとぼ歩く。
ベッドからトイレに。
トイレから机の方に。
そして、机からベッドまで。
その都度目標を決めて、壁伝いに歩くリハビリ。少女はこれを、再び歩けなくなるまで繰り返す。そして歩けなくなったらその場で寝転び、回復を待ってから再び立ち上がる。
そうやって時間を潰していると、いつの間にか夕日が空を真っ赤に染めていた。
診察の時間は朝と夕方。ちょうどその時に食事も取る。まだ内臓機能が本調子ではないので、今のニナには小さな椀の雑穀粥がせいぜいだ。それでもレイモンドが言うには、順当に食事量も増えてきているらしい。
軍医に疲れている姿を見られるのは嫌なので、ベッドに座って息を整える。汗をタオルで拭いて、飽くまでも涼しげに。たとえ問診や触診で見透かされるのだとしても、弱ったままの姿でいるわけにはいかないのだ。
そして、予想通り午後の診察の時間が訪れた。内容は午前のものとほとんど同じ。似たような挨拶から問診が始まり、あれこれと小言を言われ、診察の流れは触診の段階へ。そこでも多少の小言を言われ、それを聞きながら鎮痛剤の服用や包帯の交換を行う。
そうやっていれば時間はあっという間に過ぎて、窓の外はもう真っ暗になっていた。
「充分な休息を取るのも回復には必要だ。」
診察を終えて、レイモンドは器具の片付けをしながら釘を刺す。
「分かってるつもりです。」
レイモンドの方を敢えて見ず、代わりに窓の向こうを眺めながら言うニナ。
それが何を意味するか分からない軍医ではない。しかし同時に、軍医は肉体の限界も良く知っている。執念と忍耐の———、
否———
———飢えと痩せ我慢の限界か。
およそ六割の水と、タンパク質と脂質。それから少量のミネラルと、その他細々とした栄養素。
赤子でも少女でも、鍛え抜かれた鉄人でも。ニンゲンというビックリ箱の中身はそんなものだ。限界は、一つ一つの構成物質によってあらかじめ決められている。そこが、意思と信念の限界でもある。
少女はそれを理解していないのだろう———、
軍医は、———それを良く知っている。
言って無駄なら、行くところまで行かせてしまおう。そこで手を引いてやれば良い。それがきっと、患者にとっても学びになるはずだと。
本当に久しぶりに、本当に手の掛かる患者に手を出してしまったと自嘲しながら、レイモンドは小さく微笑んでいた。
コンコン、———と。
半開きのドアをノックする音。自室への帰路につく間際だったレイモンドは足を止め、ニナの視線も開き始めたドアに固定される。
「本当に目覚めていたとはな。ちょっとした驚きだ。」
挨拶のつもりだろうか。ドアストッパーを足で退けながら、大柄の男がやって来た。
オスカル・ウィンストン施設長。顔や腹回りは歳相応に体型が崩れてしまっているが、過剰なまでに搭載した筋肉は未だ健在。グリズリーのような風貌と、神の如き権力を併せ持つ、このキャンプで最も恐れられる人物だ。
そんな施設長は複数の教官によって取り囲まれ、護衛されていた。いずれも軍曹以上の階級を持つ、経験豊富な教官連中だ。
「意識はあるかな?記憶は?」
護衛の教官たちを押しのけながら、施設長は部屋の中央まで歩いてくる。
「私にした事を忘れたわけではあるまい。ニナ・ゲッペルよ。」
大袈裟な身振り手振りをしながら言うと、施設長は真っ直ぐに少女を指さした。
「今日の私は気分が良い。謝罪の機会をくれてやろうと言うのだ。ほら、ん?」
施設長が言い終えるのが僅かに先か。ニナは表情一つ変えずに、ベッドに座ったまま突き放す。
「やだね。」
短く。しかし、鋭く。
上機嫌だった施設長は、またたく間に眉間にシワを寄せた。
「・・・柱に戻りたいのか?」
施設長の言葉を合図と理解し、教官たちも部屋にぞろぞろと踏み入ってくる。
何やらチンピラのように声を荒げているが、ニナは気に留める様子もない。見据えるのはただ一点、施設長の眉間だけ。優位と劣位は過剰なまでに明白だと言うのに、施設長の首筋には一筋の冷や汗が垂れていた。
施設長と教官たちの前に、レイモンドが立ち塞がるように割って入る。
「患者に用があるなら、主治医を通して貰いたいところですな。」
そんなレイモンドの姿を見て、困ったように互いに目を合わせる教官たち。
ついに一人が、説得しようと試みる。
「大佐殿、通して頂きたい。これは規律の問題なんです。」
「そうですよ。ここは一つ・・・」
次いでもう一人も、レイモンドを迂回しようとしながら言った。
しかし、返答は一瞥。レイモンドを通り過ぎようとして横目で睨まれた教官が、銃を眉間に突きつけられたような緊張感を経験する。そして足は、誰に命じられるともなく氷結していた。
レイモンドは誰にともなく、あるいは眼前の者全員に対して言い放つ。
「私は軍医だ。患者の傷にしか興味はない。傷の出どころも、治った後の事も、知った事ではないし知りたくもない。治療が済めば、言われなくとも叩き出す。それではいかんか。」
レイモンドの気迫に当てられて、教官たちは石像のように固まっていた。何百人という訓練生を恐怖のドン底に叩き落とし、安いプライドを叩き折っていた強面の鉄人たちが、この部屋では訓練キャンプ初日の訓練生のようにすくみ上がっている。
唯一施設長だけが、一歩前に出る。そしてレイモンドを諭すように言った。
「レイモンド・ノルトン大佐、あなたは先の大戦の英雄だ。誰もが同じ軍人として尊敬している。他でもないあなたの申し出だったから、我々も特例で治療を認めたのではないか。」
———嘘だ。
施設長が恐れているのはスキャンダル。自分の責任で運営している軍事施設から、死亡事故を出すわけにはいかない。
レイモンドは、ニナと施設長の間に起きた事件の詳細を知らない。ニナが施設長に襲い掛かったというのがもっぱらの噂だが、それが歪められて伝聞した事実であろう事ぐらいはレイモンドにも分かる。
ニナが施設長に対して、何か決定的な事をしたのは間違いないのだろうが、その詳細は本当にどうでも良い事なのだ。
「では、お認めになった治療を完遂させていただきたい。」
食い下がるレイモンド。
しかし、施設長も引かない。
「大佐、我々の配慮を無碍にしないで頂きたい。軍隊とは規律だ。規律なくして健全な組織運営は・・・」
「私に軍隊の何たるかを説くのはやめて頂きたいッ!」
施設長の言葉を、軍医の一喝が打ち消した。
第二次三国大戦、第三次三国大戦。レイモンドは、施設長や教官たちが経験した事のない、同盟国成立以前の大戦を経験している。人類最後の戦争とされている戦を生き延びた男の声は、肩書きだけの軍人たちを黙らせるには充分だった。
しかし、———ガシャンと。
甲高い金属音が、部屋の時間を強制停止する。
レイモンドの、
教官たちの、
施設長の。
全ての目が集中した先には、乱雑に倒された点滴のスタンドが転がっていた。
ブチンと、———腕から点滴の針を引っこ抜く。
「謝らないよ。間違った事、何もしてないから。」
言いながら、強引に引いて腕から引っこ抜いた点滴の管を、事もなげに背後へ放り投げた。
「だから行ってやる。贖罪の柱でも、どこへでも。今すぐにでも。」
点滴の針が抜けた肘辺りから、一筋の流血を垂らしたまま。痛みを感じず。目付きも、睨む先も全く変えず。少女は力強く言い放った。
教官たちは、ただただ状況を受け止められない。施設長も、見開いた目と口が塞がらなかった。
軍医だけが、振り返りざまに声を挙げる。
「ガキか君は!自分の体調も知らずに・・・!!」
———ガキだ。
振り向いて、
姿を良く見て、
ようやく、———軍医は思い出した。
なぜ、忘れていたのだろうか。
そこにいるのは、齢十三のガキだ。見渡せばどこにでもいるような、後二年でやっと成人になるような、マセたガキ。
違うのは———
あまりにも、純粋に。
あまりにも、鮮烈に。
死に向かうように、我武者羅に。
———鉄砲玉のように真っ直ぐに、砕け散るまで突き進む性という事。
忍耐ではない。
飢えでも、痩せ我慢でもない。
純粋に、———『そういう』生命。
いったい誰が、———受け止められるというのか。
いったい誰が、———立ち向かえるというのか。
「謝らないと言う事は・・・このキャンプのルールに従わないわけだ。」
ニナに向かって、施設長は言う。
しかし言葉はもはや、ニナに向けたものではない。真っ直ぐ睨みつけるニナの視線を、施設長は肯定と受け取った。
「・・・温情だ、縛りはしない。」
レイモンドを一瞥し、施設長は先を続ける。
「しかし、施設を使わせるわけにもいかない。」
言われずとも、とでも言いたげに。しかし言うまでも無いと、少女は黙って歩き出した。
少女の歩みを止める者は、誰もいない。自然と身体が脇に避け、自然と道を開いていた。教官たちも、施設長も。レイモンドさえも。
裸足のまま、病棟を出て真っ直ぐ向かう。行くべき先はもう決めていた。ペタペタと石畳を踏みしめながら。今夜も荒れそうな、分厚い黒雲を見上げながら。
中央広場。十メートルにも及ぶ、巨大な柱。夜を明かすなら、やはりここが良い。
———当てつけだ。
ニナの口元は、もう不敵に吊り上がっていた。
巨大な柱に背を預ける。もう時期吹き荒れるだろう嵐を、今か今かと待ち侘びる。
そんなにこの柱が恐ろしいと思うなら、
そんなにこの罰が耐え難いと思うなら、
———むしろそれは、望むところだと。
いくつもの嵐。いくつもの夜を共に越えて来た贖罪の柱。少女はいつしか、この柱に奇妙な愛着さえ感じていた。
「来るなら来い。」
柱に凭れ、足を崩して座り込む。
腕を組んで目を閉じる。最初の風が少女の髪を乱し、最初の雨が、患者衣をポツポツと濡らし始めていた。
つづく




