第二十五話『金腕のニナ その⑰』
目を開くと、暗黒が広がっていた。閉じても暗黒、開いても暗黒。しかし次第に、暗黒の質が変わって行くのが見て取れた。暗黒は徐々に輪郭を帯び、濃淡が染み込み、少しずつ景色へと変わって行った。
辛うじて動く首を回す。閉め切ったカーテンに、窓が完全に遮られているのだ。僅かに差し込む明かりは月明かりなのだろう。お陰でようやく、ニナ・ゲッペルには部屋の全貌が見えてきた。
ここは決して広くない一人部屋。今横たわっているのはベッドで、頭はあまり柔らかくない枕に乗っている。片側はのっぺりした壁で、もう片方には木が生えている。
———いや、違うか。
木ではない。木にしては細すぎて、光すぎ。金属の柱・・・スタンドだ。ツタのように巻き付いているのはもっと細い管。そして管を視線で辿ってみると、大きな袋が吊り下げられていた。
「点、滴・・・?」
点滴とはまた穏やかじゃない。誰か病気なのだろうか。
それにしても困った事に、どうも手足が言う事を聞いてくれない。どうやって動かすのだったか思い出せないが、これではいざと言う時に困ってしまう。
「んっと、どこだっけ。えっと・・・」
手足を探す。
これがなかなか難しい。身体には掛け布団がのしかかっていて、顎の辺りまで迫り上がっている。これでは、目視の確認は出来そうにない。しかし、どこかにあるはずなのだ。どこか、遠くないところに。
何か起点になる物が欲しい。
「頭、で良いか。」
目を閉じて、イメージしてみる。
頭のイメージ。頭蓋骨。
顎骨のちょうど反対側辺りから、長い長い脊髄が走っているはずだ。そうと意識しながらイメージすると、首から背中、そして腰骨辺りにじわりと、熱が籠るのを感じた。
大丈夫、———ちゃんとある。
しかし、これだけでは魚みたいだ。これでは、色々と足りない。
耳の下辺りから走る筋肉は首筋を通って、鎖骨についている。その鎖骨は肩甲骨と、そして腕ともくっついているはずだ。
じわりとした熱が、存在を知らせてくれる。
良かった。ちゃんとある。肩から肘へ、肘から先へ。指も多分、全部。
同じ要領で脚の方も確かめる。骨盤辺りから、お尻と太もも。そして膝から、足先まで。じわりとした熱が、ひと繋ぎの塊に感じる。五体満足だ。それだけで、少しだけ安心感を感じる事が出来た。
しかしそうなると、やはり不可解なのは動かない事だ。
「うっ、ん・・・んん・・・っ!」
息を止めて、背を反らす。
現実ではほとんど微動だにしていないが、ニナには随分と無理な体勢まで背を反り、胸を張ったような感覚があった。
それでも、指一本動かない———。
「はぁ、はぁ・・・ふぐっ・・・!」
息を切らしながら、もう一度。
今度は強く目を瞑り、口をつぐみ、やはり背を反らして息を止めて。そして身体は痙攣しながら緊張し、やがて顔中に大粒の汗が吹き出した頃、ようやく五指の第一関節がピクリと反応した。
「はぁ・・・はぁ、はぁ・・・はぁ・・・」
全力疾走でもしたかのような、極限の疲労感。己の内から、破裂しそうなほど早い鼓動が聞こえる。指先を一瞬折っただけだというのに、酸素が足りなくて死んでしまいそうだ。
「ん、ふぅ・・・ふんっ・・・んんっ!」
足も同じだった。
踝から先、踵から足先まで。伸び切った状態から、直角に。足指を真上に向けるだけの簡単な動作が、今夜は死ぬほど難しい。僅か三秒も保たないうちに、足先は糸が切れたように、元の角度に戻ってしまった。
「熱い。水・・・喉、乾いた・・・」
言い終えるより先に、少女の身体からは力が完全に抜けてしまった。息を吸い、そして止めていた肺から、パンクしたタイヤのように空気が抜けていく。そして空気とともに、力も意識も抜けていく。
やがて少女は目を閉じると、夜闇の景色が真の暗黒に塗り潰されてしまった。現と微睡みとが複雑に溶け合い、疲労感に任せて闇に沈む。こうして少女はもう暫く眠り、もう暫く無限の闇に身を任せるのだった。
———
—————
———————
朝、とは言っても昼近くの頃———。
ナタリア・ノースランドは、少なからず憂鬱な気持ちで病棟の廊下を歩いていた。台車にはタオル類と掃除用具一式。目的地に近付くほどに、歩幅は半歩ずつ狭まっていく。こういう時ばかりは、多目的支援課という自分の職務の性質を恨まずにはいられない。
「こんな事、衛生士のやつらがやれば良いのに。」
聞かれては困る事を、敢えてボソリと口に出す。
この辺りには、自分以外誰もいないと知っているからだ。あの『ニナ・ゲッペル』の病室付近を意味無くうろつく人間なんて、誰一人いないのだ。命令されなきゃこんなところには来ないし、アレと関わる事もない。だから敢えて、嫌味として、ナタリアは愚痴を声に出してから病室のドアを開いた。
仕事内容はさほど複雑じゃない。既に一ヶ月以上寝たきりの患者の部屋を軽く掃除し、観葉植物に水をやり、部屋に備えられた薬品や点滴の残りを見て、必要なら補充する。あとは、点滴や機材が患者の身体から取れてしまわないように気をつけながら、身体の汗を拭いてやる。そして拭きながら、軽く手足を揉み解す。
実のところ、掃除よりも後者の作業の方が気が進まない。ナタリアとて、ひと月ほど前までの、贖罪の柱に縛り付けられたニナを見ているからだ。ナタリアはニナをよく知らないが、罰を受けているという事は悪人という事だ。それは人相にも現れていた。
———眉間を二分する一筋のシワ。
———瞬きさえも忘れてしまったのか、渇き切って充血した真っ赤な相貌。
———頬は赤く擦り切れて腫れ上がっている。それはあたかも、口そのものが耳まで裂けているように。
思い出しただけでゾッとする。あれは人間がするような表情じゃない。
嫌な映像を思い出して、掻き消そうと頭を振ってみる。しかし意識すればするほど忘れたい事はついて回るので、仕事に没頭してしまおうとモップを手に取った。一見すると全く汚れていない床に湿ったモップを走らせ、整列した床板に沿って一列、また一列と水拭きされて光を照り返す帯を描いていく。ナタリアは、こういう作業は嫌いじゃない。シンプルな繰り返しの作業に没頭していると、それ以外の事を忘れられる気がするからだ。
床の水拭きを終えて、今度は観葉植物の水やり。植木鉢を満たす乾いた土が、湿って黒黒と色を変えるまで水を注いでいく。鉢から溢れないように、慎重に。そうして、都合部屋の三箇所に点在した観葉植物に水をやり終えると、ナタリアは台車にじょうろを戻した。
溜息を一つ。腹をくくって、ここまで努めて見ないようにしていたニナの方に目を向ける。あとは汗を拭いて、軽く手足を揉むだけ。何の事はない。人形の手入れをするようなものだ。寝たきりの患者が飛びついたり、噛みついてくるわけでもなし。ナタリアは適温の湯を溜めたたらいと、手頃な大きさのハンドタオルを持ってニナのベッドに歩を進める。
気が進まないながらも、ニナを見る。
———違和感。
首の角度が、おかしいような。
目が、合ってしまったような。
「ひっ・・・!」
恐怖に硬直し、跳ねた身体がたらいとタオルを手放した。
『ような』ではない。目が合っているのだ、寝たきり———のはず———の患者と。首の角度がおかしいのではなく、寝たきり———のはず———の患者がこちらを向いているのだ。
「ひっ、人・・・!誰か・・・先生っ!」
たらいもタオルもそのままにして、広がり続ける水たまりの上を駆け抜けて。乱暴に台車を突き飛ばしながら、ナタリアは大急ぎで病室を駆け出した。
呆っとした頭で眺めていただけなのだが、まさかあそこまで驚かしてしまうとは。よく理解しないまま漠然と「悪い事をしたな。」と天井を眺めてみる。昨晩か、それとももう少し前か。とにかく、真っ暗な時に見た景色とこの部屋は、概ね重なっている事が見て取れた。
のっぺりとした白い壁の四角い部屋で、半開きの窓が一つ。窓際には小さな観葉植物の植木鉢が二つあり、向こう側の壁際には、大きな植木鉢に頼りない木のような植物が刺さっている。あまり植物に明るくないニナには種類までは分からなかったが、よく見かけるタイプの草木という事は見て取れた。
ベッドの傍らに吊るされた点滴は、どうやらニナの腕に刺さっている様子。注意深く見てみると、何やらタンスのような機械から伸びたケーブルのようなものが、ニナの胸やこめかみに吸盤で張り付いている事も分かった。
そうして少しずつ自身を取り巻く状況を理解し始めると、開ききったまま放置されたドアをノックする音が部屋に響いた。
「お目覚めのようだね。」
太く、落ち着き払った声。ニナにとっては、少し苦手な相手の声。
老齢の軍医、レイモンド・ノルトン大佐は短く言うと、彼の背に隠れたナタリアに先行して、ゆっくりした足取りで部屋に踏み入ってきた。そして部屋に広がっていた水溜りを迂回しながら、ナタリアも入ってくるようにと手を振る。
「君。散らかした分は片付けなさい。それが終わったら、日報の更新も忘れないように。」
落ち着いた声で、テキパキと指示を出す。その落ち着きように感化されて、ナタリアも少しずつ恐怖に高ぶっていた鼓動がもとに戻っていくのを実感していた。
ナタリアがモップと雑巾を持って掃除の用意に取り掛かった事を確認すると、レイモンドはそれ以上何も言わず、ニナの方へと向き直った。キャスターがついた丸椅子を転がしながら、ゆっくりと少女のベッドの方に向かう。
「久しぶりの起床だ。混乱しているのでは?」
質問しながら、軍医はカチカチと機械を操作していた。そんな彼を目線で見上げて、ニナは短く返答する。
「・・・問題ないです。」
機械音を立てて印刷される長い紙の帯を受け取りながら、レイモンドは小さく微笑んだ。
「そのようだな。実に君らしい。」
そして紙に印刷された複雑な模様を眺めながら、軍医は丸椅子に座ってニナと紙を見比べる。ロール状に纏めた紙を注意深く指でなぞり、時折鼻先に乗った眼鏡の位置を整えながら、老人は暫く興味深そうに頷いていた。
自分の身体と繋がった機械が吐き出した情報だ。ニナの身体についての情報である事は間違いない。自分の、いったい何を観察されているというのか。言い知れない不快感を感じながら、ニナは静かに生唾を飲み下した。
「・・・君の生体ログだ。今朝零時から先ほどの、十一時十八分までを切り取ったものだな。」
ニナの苛立ちを察して、レイモンドは相変わらずの淡々とした声で解説する。
「興味深いのは、午前三時頃の波形だ。」
言いながら老人は胸ポケットからペンを取り出し、膝の上に紙を広げ、おもむろにペンで印を書き込み始めた。
「脳波、心拍数、ともに異常値。寝たきりの君が夜中に、スポーツをした事になっている。」
「・・・壊れてるんじゃないですか、それ。」
レイモンドから目を逸らすようにして、のっぺりした壁の方に顔を向けるニナ。そうではないと分かっていながら、ぶっきらぼうな事を言わずにはいられない。
「夜中に一度目覚めた証拠だ。そしてその時、無理して動こうとした。違うかね?」
———全てその通りだ。
だからこそ、———医者は苦手だ。
「覚えてません。」
「そういう事にしておこう。」
レイモンドはそれ以上何も言わず、小脇に抱えていたファイルに印刷した紙を挟み込みながら椅子を立った。
やはり、軍医は苦手だ。あしらわれている感覚、見透かされてしまう実感。この居心地の悪さだけは、どうにも慣れない感覚だ。何が気に食わなくてここまで嫌っているかさえ理解しないまま、ニナはただ、診察が終わる瞬間だけを待ち侘びていた。
当のレイモンドは部屋に備えられた薬剤をいくつか机に並べ、救急箱から細々とした機材を取り出していた。そして作業をする傍ら、ニナに背を向けながら独り言のように話す。この頃には既に、ナタリアは片付けを終えて部屋を出た後だった。
「夜中に目覚めた時、手足が自由に動かなかったはずだ。ひと月以上も使っていなかったのだから、身体が感覚を忘れてるわけだな。大丈夫、それは正常な反応だ。」
調合した薬剤を親指ほどの大きさのガラス瓶に注ぐと、レイモンドは瓶の蓋を強く締めながらニナのベッド際まで戻ってくる。小瓶の中身は無色透明の液体で、老人は実に慣れた手つきで小瓶を振って混ぜていた。
そして充分に混ざったと判断すると、蓋をキリキリと音を鳴らしながら回転させる。親指と人差し指で挟んで、二、三捻りほど。片目を閉じて慎重に見据えたレイモンドの視線の先には、およそ一センチメートルほどの長さで、髪の毛ほどの太さの針が小瓶から伸びていた。
「・・・」
あからさまに警戒した表情で注射針を見るニナを前にして、困ったような笑みを隠せないレイモンド。しかし表情とは裏腹に、手元はテキパキと、注射の準備をこなしていた。
「一種のステロイドだ。とは言え、危険なものではない。もともと君の身体には少量の鎮静剤を投与していたのでな。極低燃費の状態にする事で肉体を余計な身体機能を凍結し、回復にだけ専念させる治療方法だ。」
レイモンドは説明しながらニナの腕の袖をめくり、適当な場所を指で探りながらガーゼで消毒する。そして最適なポイントを見つけると、注射針も同じ要領で消毒してから皮膚に宛てがった。
「意識の混濁。身体の感覚が曖昧だったはずだ。そんな状態では動かせても指先程度だろうが、まあ、君は意固地になって動かしたんだろうね。お望み通り、動くようにしてやろう。魔法ではないので『たちどころに』とはいかないが、ここ数日、長くとも今週中にはリハビリを始められるだろうな。」
言い終えると、レイモンドは空瓶から針の突き出たキャップを外し、壁際に置かれたゴミ箱に器用に放り込んでしまった。ニナが軍医の話に集中している間に、痛みも違和感もなく処置は終わってしまったのだ。あまりの手際の良さに逆に恐怖を感じながら、ニナは視線だけで部屋の中をトボトボ歩く老人を追っていた。
今聞かねば、機会はない。何となくそんな気がして、少女はレイモンドに問いかける。
「どうして治療するの?」
この第一〇〇八番新兵訓練キャンプに来てから、最初の頃から抱いていた疑問だ。
ニナ・ゲッペルはもともと、異物としてこの場所にやって来た。レジスタンスに加担した疑惑で強制連行されて来た捕虜で、ここで朽ち果てるべき終身刑囚だ。少女にだってその自覚は少なからずあったのだ。
贖罪の柱に縛り付けられた時も、理不尽より納得感を感じていた。犯した罪を反省したからではなく、ようやく『らしい』扱いを受け始めたと思ったからだ。
———同盟軍らしい扱いだ。
そんな同盟軍の軍医が、———何故?
「ついこの間まで、私はあの贖罪の柱にいたんだよ?・・・とびきり悪いヤツなんじゃないの?」
問い詰めるように声を張るニナ。顔には挑発的な笑みを浮かべているが、声色は全く愉快ではない。もし身体の方が本調子だったなら、今すぐにでも胸ぐらに掴みかかってくるような剣幕だ。
薬剤や救急箱を元の場所に片付け、帰り支度を済ませていたレイモンド。しかしその質問を受けると、ファイルを小脇に抱えたままピタリと立ち止まった。そして思い直したように後頭部をボリボリ掻くと、ベッド際に残して行った丸椅子に再び腰掛ける。
「君、生まれ年は?」
「八十一年・・・です。」
脈絡無く思える質問。
落ち着き払ったレイモンドの声に流され、ニナは自然と答えてしまった。
「同盟成立の翌年か。若いな。」
敢えて歳など聞かなくても、ニナが若い事ぐらいは誰の目にも明らかだ。何故そんな事を聞くのかと訝しむニナだったが、レイモンドは構わず先を続けた。
「私は第二次の頃にはもう前線で衛生兵をしていてな。その頃から、言うなれば軍医だったのだ。」
第二次とは、第二次三国大戦と呼ばれる戦争だ。
女王暦五十六年に勃発し、六十年まで続いた戦争。
統一国家同盟国は存在せず、この世に複数の国家が存在したという、ニナにとっては摩訶不思議な時代の話。GSも同盟国もレジスタンスも存在しない、実に三十八年も過去の出来事である。
「若いとは言え、君ほど若くはなかったがね。当時から私は軍医として、味方も敵も治療する立場だった。味方は当然として、敵を手当する時こそ、私は本気だった。」
老人は強く拳を握り、リウマチ気味の震える手で拳を撫でる。
「何故か。許せなかったからだ。仲間を殺した敵兵が、罰も受けずにのうのうと死ぬのに納得出来なくてな。必ず軍事法廷の場に突き出してやる、と息巻いたものだ。」
老人は昔日の日々を思い出そうと目を閉じて、若き日のレイモンド青年に思いを馳せる。医師免許もなく、知識だけを理由に徴兵された、未熟で青臭い一介の衛生兵の事である。
「衛生兵とは特殊な兵科だ。原則として戦闘には参加せず、敵にも狙われない。この緑色の十字の腕章が、原則として戦いから遠ざけるのだ。」
くどい程に繰り返される、———『原則』という前置き。
「・・・原則。」
思わずニナも復唱していた。
「第一次三国大戦終戦の時に出来た、国際人道憲章の事・・・ですか。」
知識として、ニナも法を一通りは知っている。それが、当時のイグラ国女王の発案で整備された国際法である事も。同盟国成立以後は、統合人道憲章と名を変えて現存している事も。
かつては、その法が家業を守ってくれると信じていたから。学校に通っていた頃のニナは、講義そっちのけで法学の勉強をしていた時期があった。法学史、法解釈、最新の判例と傾向に至るまで。それが、強い武器になると確信していたから。
ニナは寂しそうな顔で、ぎりりと歯ぎしりしながら目を逸らす。そんな少女を見て、軍医は静かに頷いた。
「知っての通り、原則は原則。それを記した憲章も、単なるサイン付きの紙切れだ。」
言ってはならない事を、老齢の軍医は何の躊躇もなく言ってのける。それはニナをして、そこまで言うかと目を丸くするほどに。
そんなニナの様子を半開きの目で伺いながら、若き日の戦場の一幕を思い返していた。
「ある時、我が隊は捕虜の護送を任されていた。護送車の中で、私は敵国の兵士の包帯を替え、ガーゼを替え、死なないように薬を飲ませていた。」
「法廷に、突き出す為に・・・?」
ニナの質問に頷くレイモンド。そして眼鏡の位置を直しながら、話の先を続ける。
「その道中で、護送車は敵軍に襲われた。捕虜を奪還したかったんだな。爆薬でふっとばされて、護送コンテナは横転。運転していた奴は運転席ごと、一瞬でミンチだ。人も、武器も、機材も、何もかもがベコベコのコンテナから投げ出されて、あとはどっちかが死に絶えるまで鉛玉の撃ち合いっこってわけだ。」
ゴクリと、ニナは生唾を飲み下していた。
如何に同盟国の軍人とは言え。如何にそれが、ニナ生誕の何十年も過去の話とは言え。それでも少女は、その惨状に思いをはせずにはいられなかった。若い感性が、研ぎ澄まされた想像力が、その情景を映画のワンシーンのように眼球の内側で再生する。
「そうなりゃ衛生兵もクソもない。撃って、撃って、撃ちまくるんだ。そうしなきゃ死んでしまうからな。『死なないように』と額に巻いてやった包帯を、今度はこの手で撃ち抜いてやるんだ、———絶対に『死ぬように』。」
飽くまでも、淡々と。
飽くまでも、穏やかに。
壮絶な昔話だ。
しかしレイモンドの口調は、不気味なまでにいつも通り。
「そんな事を何度も続けているとな、だんだん分からなくなってくるんだ。軍医レイモンドは人を治しているのか、殺しているのか。殺すために治しているのか。」
話しを聞きながら、天井を真っ直ぐ見ていたニナ。
ひと段落ついたと見ると、レイモンドの言葉が途切れると同時に口を開いた。
「それじゃ、法廷に突き出す事も出来ない・・・ですね。」
それを聞いて、小さく笑うレイモンド。
「その通りだ。だからね、私は物事を個別に考える事にした。無責任な話だが、そうでもしなければ割り切れん事もある。戦いになれば銃を取る。患者を前にしたなら、全力で治す。前者と後者は、矛盾しないと考える事にしたのだ。」
言い終えて、レイモンドはニナの方を見やる。
少女は話の途中から汗ばみ始め、徐々に呼吸も荒くなっていた。
「合理的・・・だけど、詭弁ですね。」
そんな言葉を、息を切らしながら絞り出す。
火にかけた鍋の中身が、たちどころに沸騰しないように。レイモンドの薬もまた、たちどころに効果を及ぼすものではない。
しかし、少しずつ。
しかし、確実に。
少女の身体に変化を及ぼしていた。
その初動には、ニナ本人でさえ気付いていなかった。心地良いはずの温もりが、次第に耐え難い高熱に変わっていく。ほとんど身じろぎさえもしていないというのに、四肢に重りを括り付けられたかのような重圧が襲いかかる。自覚すればするほど、意識すればするほど、高熱と重圧と疲労感の三重苦は膨れ上がるばかりだ。
「意外に早かったな。代謝が良い証拠だ。」
丸椅子から立ち上がりながら、今度こそ部屋を出ようと身支度をするレイモンド。
「ひと月ほども閉じていた機能が、これから一斉に再開されるのだ。呼吸、血流、筋肉運動、内臓機能・・・全てが『通常運行』に戻ろうとする。多少きついだろうが、山を越えるまでの辛抱だ。」
———何が『多少』だ。
・・・そんな悪態さえ喉を通らず、ニナは天井だけを見上げて酸素を求めた。
目線だけでレイモンドを追いかける。老人は持ってきたファイルを小脇に抱え、律儀にも丸椅子を机の方に寄せてから、ゆっくりと出入り口の扉に向かっていた。
「では、お大事に。」
そんなような事を言った気がしたが、熱に続いて頭痛まで始まった頭ではよく聞き取れない。
少しだけ心を開きかけたのも束の間。やはりレイモンドは苦手だと、ニナは加速する心拍を聞きながら再認識する。そして過剰に活性化していく肉体とは裏腹に、意識は徐々に曖昧に溶けていき、再び景色が暗転してしまった。
つづく




