第二十三話『金腕のニナ その⑮』
眉間を二分する一筋のシワ。
瞬きさえも忘れてしまったのか、渇き切って充血した真っ赤な相貌。
頬は赤く擦り切れて腫れ上がっている。それはあたかも、口そのものが耳まで裂けているように。
———幾人かは、既にその姿を知っている。
背中にも、肩にも、腹にも。少女の身体には、大小様々な蚯蚓腫れが縦横無尽に走っていた。切り傷もある。しかし、鋭利な刃物によるものではない。蚯蚓腫れと同じく、鞭による制裁が柔らかな皮膚を引き裂いたのだ。皮の裂け目は食いちぎられたように乱雑で、誰も手当をしないので、ところどころ化膿して蝿が集ってしまっている。
肌の色は、赤と紫の斑模様。少女は上裸のまま項垂れているので、脇腹にも、肩にも、背中にも、酷い殴打の痕が見て取れた。両腕を後ろ手に拘束され、全身には太い鉄鎖が巻き付いている。それは少女を、太く高く屹立した丸太の柱に縛り付ける為のものだ。
———『贖罪の柱』だ。
およそ十メートルほどの大樹を丸ごと使った柱。遠くからでも目立つように台座に立てられたそれは、ともすれば処刑装置を思わせるだろう。乳白色の石台に突き刺さった柱の根本には罪人を縛り付ける為の鎖の他に、誰でも自由に制裁を加えられるように皮の鞭が備え付けられている。
罪人の足元や柱の表面は、ドス黒い深緋色が幾重にも重なり、何層も奥へ奥へと染み入っていた。何年も、何十年もの間に、歴代の罪人が流した流血が、この時代錯誤な制裁装置に化粧を施していたのだ。そして今、邪神は新たな贄の血を啜っている。
———反抗すれば、どうなるか。
———重大な違反を犯せば、どうなるか。
———時には過失さえ、如何なる末路を辿るのか。
贖罪の柱に縛り付けられた罪人は、言葉もなくそれを雄弁に語るのだ。
将来有望な上等訓練生も、
民間人である多目的支援課の女でも、
公然と息をする事さえ烏滸がましい劣等訓練生でさえも、
例外無く誰でも、『柱の罪人』になら脈絡無く裁きを決行して良し。
目の前の負け犬に、狼藉者に、反逆者に、正義の怒りを叩きつける権利が等しく与えられる・・・
にも、関わらず、———ニナ・ゲッペルに近付く者はいなかった。
枯れ木にボロ切れが巻き付いたような風貌でありながら、少女を見た者は、誰一人として『その先』に踏み出せない。
『その目』と目が合った時、誰もが合わせたままではいられなかった。身体は衰弱しきって、眼球は焦点も合わせられないというのに。指一本も動かさず———動かせず———に、項垂れた少女の肋骨だけが、ゆっくりと膨らんでは萎む運動を機械的に繰り返すだけなのに。
訓練生たちも、教官たちも、多目的支援課の作業員たちも、誰もが弧を描いて素通りする。
———目を合わせてはならない、呪い人形。
滅多な事をすれば、たちまち飛びかかって食らいついて来るような。そんな説得力を、消え入りそうな虫の息を続ける少女は身に纏っていた。
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監査団慰問の秘密のパーティーから、早三日。あれから少女は一切の飲まず食わず。目に見えて衰弱しているというのに、誰も近づこうとさえしない鬼子がそこにいた。
それでも、山岳地特有の厳しい天候だけはお構いなしだ。夜通しの暴風雨に、日中の焼き付くような熱射。小さな身体を、容赦なく喰い犯していた。
昨夜もそうだ———。
明け方までバケツをひっくり返したように降りしきっていた大粒の雨が、暗黒の只中で少女を殴りつけている。分厚い漆黒の雲は、暴風と稲妻を伴って荒れ狂っていた。
そんな悪天候に、敢えて身を晒すもの好きはそういない。横殴りの雨は傘の守りをいとも簡単にすり抜け、荒れ狂う風は傘の形状さえも歪ませる。これでは傘をさす意味がないので、アガルタ・ファムは上着の上に雨合羽を着て、贖罪の柱の前に立っていた。連隊長の愛人ともなると、こんな悪天候の深夜でもなければ、常に誰かの目がついて回るのだ。だから今夜のシチュエーションは、アガルタにとってはむしろ好都合だった。
改めて目にすると、やはり酷いものだ。しかし同時に、少しだけ懐かしい。初めて出会った時の、暗黒のコンテナを思い出しながら、アガルタは項垂れたニナをしばらく見つめていた。
呆っと滲んだ、磨り硝子のような視界。少女は冷静に、酸素が足りないせいだと分析する。それでも、変化が見えない訳では無い。身体に力がまるで入らないというのに、天候が眠る事だけは許さないのだ。
だからニナには、目の前に立ってじっと動かない人影もよく見えていた。
「アガルタ・・・?」
顔を上げても、薄靄が掛かって相手の顔は判別出来ない。
しかし、人影はやけに長くこちらを見つめている。誰もが目を合わせないように、そそくさと早足で通り過ぎて行く中で、その人影だけがこちらを見続けていた。時が止まったように。
それだけの根拠があれば、ニナにはなんとなく、相手が誰だか分かる気がしたのだ。
「・・・ッ」
名を呼ばれて、ピクッと眉が動くアガルタ。
歯ぎしりをして奥歯を鳴らす。そして咬合力に抗いながら口を開くと、女の喉はようやく言葉らしい言葉を絞り出した。
「あなた・・・バカよ・・・」
それが、精一杯。
今のアガルタには、それ以外に掛けてやれる言葉が見当たらなかった。
「・・・うん、久しぶり・・・みたいな気がするね。」
恐ろしい形相に固まった表情のまま、ニナはそれっぽい事を言ってみる。アガルタが何か声を掛けて来たのは理解したが、どうにも頭の中で反響して聞き取れないのだ。
耳か、精神か。おかしくなってしまったのだと、アガルタは冷静に理解した。これでは、問い質す事に意味はないかも知れない。それでも、喉にせり上がってくるものは止められない。
「どうしてよッ!なんであんなバカな事をしたの?・・・あなた賢いんだから、こうなる事ぐらい分かってたでしょうに!」
身振り手振りを交えて、取り乱しながら叫ぶアガルタ。
そんなアガルタの言葉さえ、ニナにはよく聞き取れない。しかし、先ほどよりも声を張っている事と、取り乱している事は見れば分かる。世間話をしに来た雰囲気でもない。アガルタが紡いだ言葉のイントネーションから大まかな内容を想像してみる。
「・・・ああ、ごめん。雨でよく聞こえなくてさ。」
鎖を煩わしそうにしながら身を捻り、ニナは先を続ける。
「・・・昨日の話?悪かったって・・・あんたにも何か、目的があったのにさ。」
上手く働かない頭で、なんとか文章を組み立てるニナ。それが穴だらけだと直感していながら、言葉はひとりでに、ボロボロと口から溢れてしまう。少女は謝罪の言葉を口にする。アガルタが、いったい何に対して憤っているかも理解しないままに。
———ニナという生命は、酷く歪だ。
その歪さに惹かれたというのに、アガルタはついぞ、核心までは理解出来なかった。
アガルタは数歩前に出て、少女の前に片膝をついた。目線を合わせて、今一度ニナの顔を覗いてみる。焦点も合わない目で、どこかを睨んでいる相貌。眉間のシワは眉を大きく歪ませ、空気は食いしばった歯の隙間から取り込んでいる。
こんなに、恐ろしい顔をしているというのに———
「———やっぱり、可憐だわ。」
アガルタは少女の顔の輪郭をなぞりながら、自然と言葉を紡いでいた。
這わせる指は、頬から顎へ。そして、首筋を通って肩へ。腫れ上がった打撲や裂けた切り傷さえも、震える指先でなぞっていく。そして降りて行く指先は鎖の上を通過して、やがてニナに巻き付いたボロ布に触れていた。これがパーティードレスの成れの果てと理解できるのは、恐らく着付けを手伝ったアガルタ一人きりだろう。
「ね、アガルタ。」
ニナの呼びかけで、アガルタの手が止まる。
「あいつの顔、覚えてるよね。みんな見てたもんね。」
他でもない。ニナが施設長の頭からシャンパンをぶちまけた時の場面だろう。アガルタはたまたま、その場面には居合わせていなかった。僅か数分、会場を離れて連隊長と外の空気を吸っていたのだ。
しかし伝聞さえなくとも、アガルタは鮮明にその場面を想像出来る。己を神の類いと信じて疑わない権力者が、文字通りに冷水を浴びせられたのだ。痛快でないはずがない。
「石みたいに固まっちゃってさ・・・ザマァみろ。」
言いながらニナは僅かに口元を吊り上げる。そして、言いたい事だけ言い終えて満足すると、糸が切れたように再び項垂れた。
聞き届けたアガルタは、不謹慎にも笑ってしまった。目頭はこんなにも熱い涙を溜めているというのに、口元は場違いな表情を抑えられない。これではまるで『気に食わないからぶっかけた』とでも言っているようではないか。
項垂れたニナの頭を静かに抱き寄せるアガルタ。今度こそ聞こえるように、耳元に唇を寄せる。
「あなた・・・バカよ・・・」
それだけ言うと、アガルタはニナをひときわ強く抱いてから立ち上がった。
いくら人目の穴を突いた時間帯とは言え、ここに長居している余裕はない。名残惜しいと思いながらも、ゆっくり離れるアガルタ。そして女は、夜の闇に消えてしまった。
それからも、雨は延々と降り続けた。朝日が山並みを食い破って、雲を吹き消すまで。何時間も、何時間も。
しかし、日は救いではない。手枷も鎖も、石畳にさえも高温を宿すほどの熱波が、ジリジリと少女の身体を焼いていた。夜の嵐の名残は嘘のように蒸発し、あれほど濡れていた身体は、むしろ渇きに喘いでいる。
———しかし、それは『身体』だけの話。
少女の心は、それを知覚さえしていない。
痛々しい打撲が、痛くない。
裂けた皮膚から、血は流れない。
痛み、
苦しみ、
恨み、
怒り。
全て、夜の闇に置いてきた。
———少女の脳は、もう正常に機能していないのだ。
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ネジが見えた。
回転しながら、穴にぴったり嵌まるネジ。
基板の四隅がネジで止まった。
いくつかのコンデンサ、インダクタ、変圧器、トランジスタが整列した緑色の板。センサーや集積回路を中心に配置されたそれらが互い違いに、迷路のような回路で結ばれている。
そんな基盤もまた、より大掛かりな制御コンピュータの一部に過ぎない。
———ソレは『頭脳』を胸に抱く、人型の異形。
あらゆる衝撃から中身を守るように設計された球形コクピットブロックの、パイロットシートの直下に、その頭脳は安置されている。
広々としたコクピットブロックには、シートの正面にモニターとメインハンドル。左右から姿勢制御レバーと火器管制インターフェースが挟み込み、細々とした計器やらサブモニターやらがところ狭しと埋め尽くす。
気が付けば、広々としていたコクピットは、パイロットがシートをギリギリ前後移動出来る程度にまで狭苦しくなっていた。
コクピットブロックの両脇には二百ミリ徹甲弾連射砲。
腰部はヒトの可動域を上回る三百六十度の回転を可能とし、背部には姿勢制御用バックスプリング。背負ったバッテリー水素ハイブリッドエンジンは、一万八千キロワット超のエネルギーを生み出す心臓部だ。
ソレに骨格はなく、代わりに堅牢な装甲が全てのパーツを包み込んで一つに纏めている。
その直上に伸びるのは、カメラユニットと各種センサー、そして通信機を兼ねた頭部ユニット。被弾面積を極力減らした円筒形のソレは、ヒトのものからはやはりかけ離れていた。
腕部ユニットは肩から肘へ、肘から手首へ。
五指のマニピュレーターは医療技術の流用品。モーター関節と電磁パルス式人工筋肉の二重駆動方式を採用する事で、人型に求められる柔軟な稼働と、兵器に求められる破壊的な出力を両立させている。脚部も同様。大腿部から膝関節へ、モーター関節と電磁パルス式人工筋肉が機体総重量五十トンを超える巨体を直立させるだけのパワーを生み出していた。
ヒトと違うのは、その先。獣のように折れ曲がった逆関節と強力な脚部スプリングが、巨人にヒトならざる者のシルエットを与えている。
———ヤツの名は、型式番号:G-JG-00、ジャゴ先行試作型。
およそ三十年前に突如としてこの世に誕生し、戦争のルールを書き換えた時代の反逆者である。
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朦朧とする頭でニナが再生していた映像は、己の不幸でも、愛する家族でも、これまでの生を追う走馬灯でもなかった。
———設計図だ。
ニナの脳は、機械の設計図を描いていた。
ネジから、基盤から。ケーブルから、材質から。全てをゼロから想定し、耐荷重を計算し、合理的な形状に整形し、順序立てて組み立てる。その結果———当然の帰結———として、ニナの世界には一機の巨人が屹立していた。
つづく




