第二十二話『金腕のニナ その⑭』
左手にはカットフルーツで埋まっていく皿を、右手にはトングを。ウルススは特段果物が好きという訳ではないが、このパーティーに用意されたラインナップの中で選ぶなら果物が良いと思っていた。他の料理は、ウルススには少々飾りすぎというか、奇を衒い過ぎているようで受け付けなかったのだ。直感的には、食べ物にさえ思えない料理の数々。美味そうにむしゃむしゃと食す連中の気がしれない。
ニナは、そんな青年の背後まで回り込んで接近していた。物思いにふけっているウルススは気付いている素振りさえ見せていない。
呼吸を一つ、———手を伸ばす。
「ねえ!」
トングを持つウルススの手首に、細い指が巻き付いた。それだけで男の思考は唐突に打ち切られ、意識はかたわらの少女に奪い去られてしまった。
「あれ取ってよ。届かないからさ。」
———こんな感じだったか。
アガルタの助言を回想しながら、紆余曲折経てやっと見つけ出した青年に話しかけてみる。どれが欲しい、なんて厳密な希望は無かった。何か適当に、テーブルの奥の方の皿を人差し指の先で指し示してみる。
初めて話した夕方の焼き直し。立場だけが逆転していた。
一秒か。二、三秒か。
暫くの、しかし短い沈黙を経て、青年はようやく言葉を絞り出す。
「じゃあ、持ってろ。皿取ってくる。」
自分の皿をやや強引に、押し付けるように差し出すウルスス。ニナは勢いで受け取ってしまった。
「やっぱこれで良い。」
「は?」
「一緒につまめば良いじゃん。」
釈然としない表情を隠せないウルスス。しかし、異論はない。ニナがそれで良いなら、ウルススもそれで良い。
「わかった。それじゃあ、座ろうか。」
その申し出に、ニナは黙って頷いた。
料理が並ぶ長テーブルのエリアを離れ、ダンスホールを抜けて座席のある方を目指す二人。ポツリポツリと、ホールに出て一足先にフォークダンスを始めた、何組かのカップルとすれ違う。一足先にダンスを始めていたカップルは、その殆どが若いパイロット候補生と多目的支援課の女で構成されていた。抱き合い、ステップを踏み、ゆっくりしたリズムに合わせて回転する。離れる時も手だけは離さず、近付く時は口づけでもするほどに。
自分とウルススも同類に見られているのではないか。そう思うと、ニナは途端に気恥ずかしくなってしまった。ついぞ腰掛けるまで二人の間に会話はなく、静かに置かれたウルススの皿だけが二人の鼓膜を震わせていた。
ベリーをつまんでみる。先に手を伸ばしたのはウルススだった。それを真似て、ニナも同じベリーを口にする。ぷちっと潰れた小玉から甘い汁が溢れ、ついで果肉の弾力を奥歯が受け止める。何度か咀嚼して薄皮をすり潰すと、ほんのり酸味が掛かった風味が鼻を抜けていった。
言葉の代わりに、もう一つ。
今度は木苺でも。
なるほど、美味い。
人生で食べてきた果物の中で、一番美味いと胸を張って言えるほどには、あの長テーブルから取ってきた果物はどれも美味かった。甘味と酸味のバランスが絶妙で、いくら食しても飽きが来ない。しっかりとした弾力の果肉が皮を引き千切らんばかりに詰まっていながら、果汁もまた水風船のように詰まっている。
未加工の果物でありながら、これだけで料理かデザートとして成立しているように錯覚してしまいそうだ。
「・・・・・・・・美味いな。」
皿の内容物が元の半分ほどまで減った頃、何か会話しなければと、ウルススはようやく口を開いた。
「うん、うま・・・美味しいね。」
アガルタの教えを思い出し、ギリギリで踏み留まるニナ。
会話はそこで途絶えてしまった。皿に乗った果物は、どれも一様に美味かった。甘く、爽やかで。瑞々しく。しかし、それだけだ。それ以上の感想も感慨もない。房から葡萄をちぎってみても、口内で器用に果肉を削ぎ落としたさくらんぼの種を吐き出す時も、やはり「美味かった。」以外の感想が浮かばないのだ。
食す度に、同じ感想を確認し合うのか———?
———無駄が過ぎる。
その一点において、青年と少女は全くの同意見だったのである。
しかし、皿の内容物も残りわずか。アガルタには「話をしろ。」と言い含められていたのに、このままでは話をする以前の問題である。ニナとウルススを同じテーブルに繋ぎ止めるものは、目の前の果物の皿を置いて他にない。何か話をするどころか、これがなければ、一緒にいる意味すら露と消えてしまうだろう。
———それはまずい。
ここまで来たのに、元の木阿弥。
それは『内容のない会話』以上の、———無駄である。
「ねぇ。」
皿底のきわに溜まった不格好なベリーたち。二人があえて避けてたものだ。それをじっと眺めながら、ニナは黙したウルススに切り出した。
ウルススは皿から顔を上げ、ニナの方に視線を投げる。
「ウルススはさ、フルーツ好きなの?」
なんという、意味のない質問か。
嫌いなら取らない。嫌いなら食わない。
そうでないから、こうしているというのに。
「そうでもない。」
ウルススの返答は、ニナの予想外のものだった。思わず青年の方に顔を向けると、二人の視線がピタリと一致する。
「・・・どうもここの飯は受け付けなくてな。」
目を反らしながら言うウルスス。青年は、自分がおかしな事を言っている自覚があった。
選りすぐりの料理人が腕に縒りをかけ、魂を込めて作った料理が不味いはずは無いのだ。見た目に美しく、香り高く。舞踏会の雰囲気にもよく馴染む、金銀財宝のような豪華絢爛。それを黄金虫の類いと見紛う変わり者は、恐らく自分だけなのだろうと。
目線を反らしながら言うウルスス。そんな言葉を聞いて、少女はやはり目を丸くしていた。
「同じだよ・・・!」
己のみと信じていたのは、少女も同じ。
「は?」
「だから、私も同じ事思ってたの!変なのばっかりでさぁ・・・綺麗だけど、美味しそうではないんだよね。」
呆気に取られるウルスス。変わり者とは薄々感づいていたが、まさかこれほど感性が被るとは。
ニナも同じような事を考えながら、頬杖をついて天井を見上げる。
「一本ぐらいさ、合成タンパクバーとか用意してくれても良かったのにね。ピリ辛のやつ。」
食の好みが近いと思ったのも束の間、どうやら思い違いだったと、ウルススは呆れて溜め息をついた。
「・・・いや、あれは薄塩に限るだろ。」
「何言ってんの?薄塩なんかプレーンと変わらないじゃん!」
「本気か?・・・子供舌め。」
頬杖をついたままウルススを見上げ、僅かに睨むニナ。ウルススは信じられないとばかりに腕を組み、ニナを見下ろす。
会話の内容とか意義とか、そんなものはいつしか、二人の脳裏から綺麗さっぱり霧散していた。それを意識しない程度には、口下手な二人の間に会話のラリーが続いていた。愛を囁き合う恋人同士の甘さはなく、打算と駆け引きに火花を散らす冷徹さもない。この時、この場にあって、不自然なまでに普通の会話。しかし二人は、確かな好感を共有していた。
暫く会話を続けていると、ニナの視界の端に手を振る影が伺えた。嬉しそうな表情でこっちに来いと手を振っていたのはアガルタだった。
「ごめん、ちょっと。」
言いながら、椅子を引いて立ち上がるニナ。
「どうかしたのか?」
ウルススは座ったまま。立ち上がったニナをわずかに首を傾けて見上げる。ニナは静かに首を振って返答した。
「別に。あの、あれ・・・お色直しってやつ。」
「そうか。」
スカートの乱れた裾を直しながら言うニナ。その様子を目に移さないように、ウルススはニナから目を反らしながら相槌を打った。
「すぐ戻るよ。」
ニナの挨拶を背にして、小さく手を振って返す。
それを確認すると、ニナは小走りでアガルタの方へ向かって行った。幾人かのパーティーメンバー、いくつかのテーブルを抜けて、少女はアガルタが座ったテーブルに辿り着く。女はちょうどテーブルの縁に座るように寄りかかり、片手には飲みかけの赤ワインを溜めたグラスを傾けていた。
少女が辿り着くや否や、アガルタは先行して声を掛ける。
「やるじゃない。パイロット候補生捕まえたの?」
「捕まえたって言うか・・・元々知り合いなんだよ。」
屈託のない笑みで言うニナ。アガルタの眉が僅かに吊り上がる。
「そう、知り合い・・・」
「ウルススって言うんだけどね。一〇四期のパイロットなんだよ。」
どこかで見たような後ろ姿だったが、合点が行くアガルタ。
軍事にも、兵器にも、機械にも明るくないアガルタではあるが、先日の公開模擬戦は彼女とて観戦していた。観覧席にこそ出席していなかったが、コナー連隊長とともに、官舎区画のソファーに優雅に腰掛けて大型モニターで観ていたのだ。人型兵器同士の殴り合いなどという野蛮な行事には心底興味ないアガルタではあったが、大会参加メンバーは全て把握している。
一〇四期の部の優勝者がウルスス・ヤスタルという事も。
そのウルススが、飛び入り参加のアルベルトに敗れた事も。
「やるじゃない!ウルススといえば、相当有望な訓練生でしょ?その縁、大事にするのよ。」
大げさなほどに喜んで見せると、アガルタはワイングラスを置いてテーブルから離れる。
そしてニナの返答も聞かず、少女を両腕で抱き寄せた。
「ちょっ・・・アガルタッ!?」
ニナの困惑を気にも留めず、アガルタは小さな声で耳打ちする。
「一〇四期の有能・・・って狙い目は良いわ。あとは、絶対離さないように。パーティーの間も、その後も。」
「その後?」
耳打ちし返すニナ。間髪を入れず、アガルタは返答する。
「一〇四期は中期生でしょ?卒業までは油断禁物よ。」
それだけ言い含めると、アガルタはニナの体を離して肩に手を置いた。
当のニナは、わずかに俯いていた。それはウルススを目的の為に利用しているようで、どこか釈然としないからだ。同盟軍かどうか。訓練生とか、多目的支援課とか。将来の安定やら、その為の打算やら。そういうものとは無関係の領域で繋がれた気がしたのだ。
「・・・わかったよ、アガルタ。もう戻るね。」
しかし心とは別に、ニナの口は役割を語る。笑顔を一つ残して、踵を返す少女。
その姿を見送るアガルタは、一抹の不安を拭いきれない。歳に似合わず、ニナは聡明な少女だ。情で目的を見失わない事は分かりきっているし、これが全て少女の為だと、彼女自身も理解しているはずだ。だから滅多な事は起きない。
———正規軍パイロットの女になって、この訓練キャンプから脱獄する。
その先の事は、それこそニナが自分で決めれば良い。将校の女として約束される贅沢と安定を享受するもよし。軍という特殊な世界を離れて、どこかで静かに生きるのも良い。
ニナはきっとどこでもやっていける———
将校の女でなくとも、『女』を使う事さえなくとも。だから望めばいつだって『自分だけの人生』に踏み出せるのに、そのチャンスが来る都度に、きっと彼女は自分以外の誰かを理由にして一歩引くのだろう。
———垣間見えた杞憂を、今はそっと胸にしまう。
もしもの時は、自分が手を引けば良いと。そう己を納得させて。
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同じ頃、ウルススのテーブルにて———
「少しずつ見識を広げているようだね!」
背後からの声。振り向いた先に人の姿は無く、代わりにショットグラスが二つテーブルに置かれていた。反射的にその反対側を見やると、僅かに頬が赤らんだアルベルトがジンのボトルを傾けている。
「先輩・・・!?」
唐突に注がれて、驚くウルスス。先輩に注がせるわけにはいかないとボトルを取ろうとするが、アルベルトは片手で小さく制止する。
「なんとか目を盗んで抜けて来たんだ。だからあまり猶予はない。」
アルベルトが指さした先には、彼の帰還を今か今かと待つ女たちの人集りが見えた。事情を大方察したウルススは、黙ってショットグラスに手を添える。表面張力でこぼれるかどうかギリギリまで二つのグラスを満たすと、アルベルトはそっとボトルを置いた。
「堅物の後輩の成長を祝して!ほらっ・・・!」
「成長・・・?」
一足先にグラスを持ち上げると、乾杯を要求するようにウルススの方に突き出すアルベルト。ピンとこない表情のまま、ウルススもそれに応じる。
「ニナ、という名だったか。随分と仲睦まじくしていたのが見えたぞ。」
「あれは・・・まだそういう関係では・・・」
一息にジンを飲み干すと、アルベルトはそっとグラスを置く。
「重要なのはとっさに出た言葉だ。」
釈然としない様子の後輩を尻目に、アルベルトは持論を展開する。
「曰く。人の心には欲求の他に、自我と超自我の階層があるという。前者はより純粋な自己を反映するもので、後者は社会のルールや道徳・倫理、親の躾やらが内面化したものだ。要は、『こうである自己』と、『こうあるべき自己』の対比だな。君はどうも超自我にやや偏重する嫌いがあるようだが・・・口先は心以上に素直なものだ。」
アルベルトの話を聞きながら、ウルススもジンのグラスを傾けた。無色透明、そして常温の液体が流れた軌跡が、熱を帯びるのを感じる。
「時折、自分は先輩が何を言いたいのか理解に苦しみます。」
アルベルトの持論を打ち切るように言うウルスス。それさえも面白がるように笑うと、アルベルトは服装の乱れを整えながら返答した。
「少しずつ読解していけば良いさ。こいつはここに置いていくよ、シラフでパーティーなんて不健全だからね。」
「・・・はあ。」
煮えきらない答えのウルススを置いて、アルベルトは崩した敬礼に似せた挨拶を返す。
「それじゃあ、健闘を祈るよ。」
小さく敬礼してアルベルトを見送るウルスス。そして再び椅子に腰掛けると、遠目に帰ってくるニナが伺えた。
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———————
夜は更け、パーティーも最終段階へ。秩序とか作法とか、そんなものは死に絶えた。美食に解れ、アルコールに流され、音楽に酔って霧散した。
———最後に残るのは、むき出しの人間性だ。
むき出しの性、
むき出しの欲、
むき出しの打算、
むき出しの本能。
恥も外聞も無ければ、もはや構う事もない。
若い男と、歳の近い女。パイロット候補生と、多目的支援課の女である。前後不覚のまま抱き合い、互いを壁に押し付けては、熱い抱擁と口づけを交わす。厳しい訓練キャンプの日常の最中で、抑圧されていたものが臨界を迎えたのだ。異性の味と、鼻腔を抜けるアルコール、そして相手の体温に酔いしれる。そんなカップルは、決して少なくなかった。見回してみれば、あちらにも。こちらにも。パーティーホールの壁際に、そこへ向かうまでの通路に。あるいはテーブル席の一角に。実に広く、あちらこちらに新生カップルが点在していた。
一方で、そうでない者もいる。選ばれなかった者、敗者たちだ。異性に群がり、意中の相手の、ナルシズムの肥やしとなる。多くの男に囲まれたい女、その逆も然り。一人を選ぶ気など毛頭ない捕食者が、後が無くなった有象無象の打算を弄ぶ。
私を、褒めろ。
私の酒を、注げ。
お前の滑稽さで、私を満足させろ。
良識も、恥も、外聞も、それは全て過去の事。内なるサディズムさえも覆い隠す事は無く、要求は青天井にエスカレートする。
仕える弱者もまた、アルコールにやられた頭が正常な働きを忘れていた。求められる事そのものを喜びとし、要求される事を報酬に置き換える。どこでボタンを掛け違えたのかさえ、もはやどうでも良い。
———気持ちよければ、それで良い。
色に狂ったメリーゴーランド。あるいは、アミューズメントパークそのものが『色』に染まっているのか。
これこそがパーティーの狙い目だった。
食の、すべて。
酒の、すべて。
旋律の、すべて。
装飾の、すべて。
場を支配する、———空気のすべて。
すべては、地位ある者を射止める為。
すべては、地位ある者がハメを外す為。
すべては、その有様を蒐集し、貯蔵する為。
会場の隅々を見渡すカメラ、全ての声を拾うマイク、酔ったフリをして証拠を記録する密偵。あらゆる『目』が光っている。黄昏に舞い降りる禿鷹のように。いつの間にか辺り一帯を包囲した、野犬の群れのように。
世に出てはならない事実を、パーティー会場の外に持ち出せない出来事を、何一つ取り逃がさない為に。
会場を貫く大理石の柱。樹齢百年を超える大樹かと見紛うほどの石柱は、しかし自然物とは呼べないほど美しく滑らかな純白の輝きを放っている。そんな柱は合計六柱。会場を大まかに分ける三つのエリアを、それぞれ二柱で支えていた。その中でも、テーブル席エリアに至る南口付近にそそり立つ一対の石柱には、豪奢な螺旋階段が巻き付いている。柱と同じ大理石が純金の枠で縁取られ、階段の中央には一筋のレッドカーペットが走っていた。
そんな階段を登った先には、会場全域を見渡す事の出来る、広々としたバルコニーが設けられている。簡易的なガラステーブルと、質素ながら最上級の素材で作られた椅子が何セットか。また、バルコニーの手摺り付近には背の高いハイチェアも何組か用意されていた。バルコニーの壁際に用意された多種多様な酒類のアルコールを優雅に傾け、眼下のきらびやかな景色を楽しもうという趣きである。
「良い機会だからね。ここからの景色も、よく目に焼き付けておくと良い。」
ハイチェアにゆったりと腰掛け、手摺りにグラスを置いて眼下を指さすアルベルト。傍らのウルススは、グラスを手に持ったままアルベルトが示す方に視線を向けた。
この第一〇〇八番新兵訓練キャンプが位置する、旧アイラと旧スコラの堺の山岳地帯。そこから少し離れて高度を降ろすと、平坦な台地の高原地帯が広がっている。この避暑地としても有名なアイスコラ高原は、同盟国全域でも有数の大麦麦芽の産地である。アルベルトとウルススが傾けるグラスのウイスキーもまた、この土地の名産品の一つ。アイスコールのシングルモルトと聞けば、内地ではひと樽で家が立つほどの値がつくものだ。
口に含んだウイスキーをそのまま飲み下すと、ウルススは静かに、しかし切り捨てるような語気で評する。
「眩しいですね。シャンデリアが近すぎて、展望台なのに下が見えづらい。」
ニヤリと、笑みを吊り上げて目を閉じるアルベルト。
「・・・高みとは、そういうものだ。」
静かにコメントし、後輩の毒舌に満足するアルベルト。
ウルススの相貌には、沢山の若い美女に囲まれたオスカル・ウィンストン施設長と、数名の幹部達の姿が映っていた。
記憶を手繰る限り、いつだってウルススは兵士に憧れていた。機神戦争の終戦記念日に両親と見に行った軍事パレードは、齢十七になった今でも忘れられない。一糸乱れぬ屈強な男たちの行進。胸に抱いた、漆黒に輝く自動小銃。自信と決意に満ちた表情には、自分もいつかそうなりたいと思わせるだけの説得力があった。
そんな兵士たちに先導されて徐行する装甲車。後を追って行進する人型兵器。極小から極大までもが一体となって、一つの生命のように街を練り歩く。
その日、———ウルスス少年は『感動』を知った。
未就学の子供に『感動』という感情は解せなかったが、受け止めきれないほど大きなものに殴られて泣いてしまったのを覚えている。その日の景色が、青年にとってのふるさとなのだ。
そして少年は青年になった。訓練キャンプの門を潜ったあの日、教官に虫ケラ以下だと罵られた青年は、今ではキャンプの誰もが一目置いているエースパイロット。『最強のアルベルト』の、最も近くまで肉薄した男だ。
そして今日、———青年は高みから見下ろしている。
酷い景色だ。
ユメに見た『兵士』はユメのまま。夢と現は相容れないと、アルベルトは静かに、そして冷徹に指し示している。
眩しすぎるシャンデリアに照らされた大理石の天井。壁。柱。その真下の、真紅と黄金の絨毯に横たわる子羊の皮のソファーに、施設長はどっかりと座っていた。右手にシャンパングラス、左手には愛人メアリーの乳房を。右脇に陣取るもう一人の愛人アニーはシャンパンの酒瓶を胸に抱え、寝転ぶように浅く座って足を組む施設長に甘えるように抱きついていた。
「オスカル様~、や~だ~。」
猫なで声を挙げて、施設長の胸板に頬ずりするメアリー。
言葉とは裏腹に、その表情は勝ち誇った者のものだった。勝者の充実と、余裕。同じソファーに座れなかった女たちに向ける眼差しは、実にサディスティックで冷ややかなものだ。
「オスカル様?グラスの方が軽くなっておりますよ~?」
メアリーに負けじと、アニーも歌うような声で施設長を楽しませる。施設長のグラスにシャンパンを注ごうと男から身体を離し、瓶を傾ける。
「こんなもの、ちまちま飲めるか!」
「キャッ!」
施設長はシャンパングラスを放り投げ、アニーが傾けた瓶から酒が僅かに溢れてしまう。愛人の驚きなど意にも介さず、男はアニーを太い腕で抱き寄せた。
「そいつを寄越せ・・・!」
乱雑な動きだ。しかし、アニーの目にはそれが施設長の男らしさに映っていた。
皮膚もシャツも突き破らんばかりに膨らんだ、三角筋と上腕二頭筋のコブに挟まれる。まくった袖から露出した前腕には、木の根のように張り巡らされた血管が脈打っている。そんな腕でアニーからボトルを受け取り、施設長は豪快に喉を鳴らしてシャンパンを飲み下していた。
周囲には、他のソファーには幹部らとその愛人たち。ソファーの周りにも、何人ものパーティー参加者が立っていた。拍手で場を盛り上げ、施設長をおだてて見せる。たとえ要人のソファーに座れなくとも、その場にいるだけで他よりは良いポジションを勝ち取った気になれるのだ。
一等賞でなくとも、参加賞ぐらいは。
そんな甘さとも、意地汚さとも知れない執念が、シャンデリア直下のソファーの辺りに渦巻いていた。
アニーから渡されたボトルの規格はマグナムボトル。その一気飲みは流石に無理だったようで、施設長がボトルを口から離すと、中の酒があと四分の一ほど残っていたのがシャンデリアの光に照らし出される。
「アニー、お前も飲め!」
愛人を抱き寄せたまま、施設長は彼女の口にあてがった。するとアニーは意図を理解し、両手でボトルを持って傾けた。ゴクゴクと飲み下す彼女の姿に迷いは無く、横目で周りの女たちを見る目は、やはり勝ち誇った人間のそれだった。
「いいぞ!アニー!」
「イッキ!イッキ!」
おだてる周囲の声と拍手に応え、喉を鳴らしながら立ち上がるアニー。大きく身体を反らしてシャンパンボトルを垂直近くまで傾ける。それを見て楽しくなったのか、施設長も周りに合わせて拍手で盛り上げていた。
「ぷはっ・・・空っぽ!褒めて、オスカル様~!」
シャンパンボトルをひっくり返しながら言うアニー。
そのまま背後にボトルを放り投げると、施設長の返答も聞かずに、その胸板目掛けて飛び込んだ。それがまた、施設長の男心を刺激する。飛び込んできた若くて華奢な女の身体を抱き寄せながら、施設長は満面の笑みでアニーの背中を撫でていた。
「わっはっは!良かったぞ、アニー。」
頬ずりしながら、施設長を抱きしめるアニー。アルコールで朦朧とした頭で、視点も定まらないまま、施設長はあちこち舐め回すように見やる。
両手に花。周囲は何をしても褒め称える有象無象。誰もが媚び、ひれ伏し、称賛する景色。神にのみ許された、頂点から全てを見下ろす景色だ。左手にはメアリーが、膝にはアニーが乗っている。どちらも愛らしい、お気に入りの愛人たちだ。洗練された所作や美貌こそ持ち合わせないが、施設長を楽しませようという気概は人一倍。そんな彼女らの不完全さこそ、施設長は底無しに愛いと思っている。
———しかし、ソファーにはもう一人座れそうだ。
アニーとメアリーを愛でる事と、もう一輪花を迎える事。そこに何の矛盾があると言うのか。
クラクラする頭を、右へ、左へ。ちょうど力が抜けた方に傾けながら、誰か適当な女はいないものかと視線を流す。
編んで肩から垂らした、長い金髪。
溢れそうなほど大きな胸。
身体に張り付くような、薄手のドレス。
口角を吊り上げた施設長が、女を真っ直ぐ指差した。
「お前だ。前に出ろ。」
「は、はいっ!」
不意に指名された女は、おどおどしながらも、喜んで施設長の方に歩み出た。
信じられない事だ。もはやチャンスは無いと思っていたが、最後の最後だ。パーティーの佳境という、深夜を回ったこの時間。要人にもパイロット候補生にも振り向かれず、ついぞ残ってしまった自分にも、ようやくチャンスが舞い込んだのだ。
女は満面の笑みで人集りを押しのけ、シャンデリアの光の下に身を晒す。
「ご指名いただき、ありがとうございます!」
アニーとメアリーが露骨なまでに敵意に満ちた視線を向ける中、女は施設長の前でふわりとターンをしてドレスをたわませ、深くお辞儀をした。
「イリナと申します。何でもお申し付け下さいませ。」
回って見せたのは、大きく開いた背中に施設長の興味を引く為。深くお辞儀をするのは、その方が自慢の胸を見て貰えるから。学が無ければ、人生経験もない。若さしか取り柄の無いイリナは、他の気に入られる手段を知らない。だからこそ、既に成功したアニーやメアリーを真似て、手探りで道を拓くしかないのだ。
当のアニーやメアリーは、全く歓迎していない様子を隠す素振りさえしない。平時なら多少の配慮も駆け引きも出来たのだろうが、このパーティーで何瓶も飲み下してきたアルコールが正常な判断を許さない。主人の飼い猫たちと、新たに連れてきた猫。飛びかからないだけ温情と言わんばかりの鋭い視線が、イリナを貫いていた。
「ふへへ、何でもか・・・」
膝に乗せたアニーと傍らのメアリーを撫でながら、施設長はイリナを爪先から目鼻立ちまで、品定めするようにじっくり見る。しかしその傍ら、愛人たち二人の不満にもしっかり気づいていた。お気に入りの二人に臍を曲げられるのは施設長とて望む所ではないし、タダで愛人に加えてやるのはシンプル過ぎてつまらない。
だから特に感慨もなく、施設長はイリナを指さして言い放つ。
「じゃあ、脱げ。上だけで良いぞ。」
アニーとメアリーの目つきがガラリと変わる。
全身の血液が氷結したように動きを停止し、青ざめるイリナ。そんな女を見て、二人は満足気に口角を吊り上げた。
そうだ、———タダで仲間に入れるなんて、ありえない。
「お、お戯れを・・・」
引き攣った笑みをなんとか作り、ギリギリ一言だけ絞り出すイリナ。
茶汲みも、酒注ぎも、スキンシップも・・・色々な事を覚悟はしていた。要人の愛人となれば、いずれ親密な関係になる事も。しかし、これほどとは思わなかった。公衆の面前で、いくつもの目に玩弄される只中で、娼婦のような扱いを受けるとは。
町娘はようやく理解する———
———己が、どれほど中途半端な覚悟でここへ来たのか。
———この世界が、どれほど容赦ないのか。
目だ。
無数の目がこちらを見ている。
期待の目。
若さに飢えた、亡者の目。
欲に飢えた、獣の目。
嫉妬に狂った、背後の目。
サディスティックな、二人の目。
結び目一つ解けば、それは叶うというのに。
イリナの感性、イリナの羞恥心。この場にあって、あまりにも普通すぎた人間性が最後まで抵抗していた。
視線は、上階からも。アルベルトとウルススもまた、眼下の一幕を目に映していた。グラスの半分ほど残ったウイスキーを、そのまま一気に飲み干すアルベルト。天井を仰ぎながらグラスを垂直まで傾けても、彼の糸目は下階の有様から焦点を離さない。
ウルススは対照的だった。飲みかけのグラスを手摺りに置き去り、舌打ちしながらハイチェアを飛び降りる。
「愛しの彼女の元へ帰るというなら、僕は君を止めはしない。」
アルベルトの言葉が、ウルススの足を止めた。
先輩を睨みつけながら振り返るウルスス。当のアルベルトは、尚も眼下の映像から目を離さない。
「・・・そうでないなら、最後まで見ておくべきだ。兵士として、ね。」
アルベルトが言い終えるより先に、ウルススは傍らのガラステーブルを蹴飛ばしていた。
透き通った天板が宙を舞い、床への激突とともに砕け散る。鼓膜を引き裂くような金切り声は、あたかも誰かの悲鳴のよう。しかしそれさえ、誰の耳にも届きはしない。振り返る者も、首を傾げる者も、訝しむ者さえ存在しない。
静寂の中で、ウルススは再びバルコニーの手摺りに向かう。眼下の顛末を、見届ける為に。
そして、イリナは理解した。
———助ける者など、誰もいない。
考えてみれば、当たり前の事だ。イリナだって助けない。
ここに来た者、誰にだって立場がある。
野心がある。
ユメがある。
打算がある。
明日がある。
小娘一匹の余興の為に、身を差し出す者など・・・
ポンッと、———シャンパンの栓が抜ける音。
「お酒注ぎますよ~。」
———スズメバチのような、恐ろしい目つきの少女だ。
シュワシュワと明滅する炭酸の音を掻き消して、少女の声が会場に響いた。
吹きこぼれ、あふれながら本流をなすシャンパン。その注ぎ口を施設長の頭上に掲げていたのは、ニナ・ゲッペルだった。少女はなんとなく、その場の気分で、成すべきと思った事を成したのだ。
イリナの、
施設長の、
愛人たちの、
幹部たちの、
取り巻きたちの、
ウルススとアルベルトの、
———パーティー会場全ての、時間が停止した。
それでも流れ落ちる、シャンパンの本流のみを除いて。
つづく




