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機甲大戦記VOLT  作者: 無銘
金腕のニナ編
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第十三話『金腕のニナ その⑤』









 窓一つない鋼の立方体、輸送コンテナ。しかしその作りは粗雑で、頭上四隅の角や扉の隙間からはわずかながらの光が差し込んで来ている。

 お陰で、暗黒のコンテナ内でもおよその景色が見て取れた。このコンテナには左右の壁面からいくつかのベルトが伸びており、そのベルトに固定されて大小様々な木箱や段ボール箱が積み上げられている。特に木箱は隙間を設けながら複数の板で組み上げたものだったので、比較的容易に中身を伺い知る事が出来た。林檎や洋梨のような果物の類、また種類様々な野菜類が主な内容物だったが、中には何らかの缶詰の缶も含まれている。

 周囲が暗黒で視覚に頼る事が難しい分、嗅覚は未だかつてないほど鋭敏になっていた。何やら焚き火の残り香のような、原始的で、芳醇な香りがする。ニナは知らないが、それは燻製肉と呼ばれる食べ物だ。上流階級の人間でさえ、これを食すときは紙のように薄く切って食べる。


———そんな木箱と物資の双璧を抜けた最奥の一角に、ニナ・ゲッペルは鎖で繋がれている。


 細い両手首に手枷をかけられ、両の足首にも足枷をはめられていた。胴体に乱雑に巻きつけられた太い鉄鎖は、彼女をその位置に固定する為。他の物資と同じく、輸送中にコンテナ内を動き回られては困るし、輸送中の物資を勝手に食べられては溜まったものではない。絶食状態の彼女に食料の匂いを嗅がせて、精神的に追い詰めようという意図もある。

 だが、この少女がこれだけ厳重に鎖に繋がれている真の理由は、以上に語り尽くしたうちのどれでもない。


———恐怖。


つまるところ、全ての理由はその一点に収束する。

 逃げもせず。怯える事も、泣き喚く事もしない。怒りに任せて怒鳴る事も、暴れる素振りもない。ともすれば従順にさえ思える態度の少女だが、その眼光はあまりにも鋭かった。錐で板に彫り込んだような深い、眉間を二分する一筋のシワ。瞬きさえも忘れてしまったのか、渇き切って充血した真っ赤な相貌。猿ぐつわのように口に嵌められていたベルトを外した後も、彼女の頬は赤く擦り切れて腫れ上がっている。それはあたかも、口そのものが耳まで裂けているように。

 兵士たちは、努めてニナのコンテナに近づこうとしない。当番で決められている朝夕の一回ずつの確認作業も、遠目に覗いて『異常なし』の項目にチェックを入れるのみ。通常なら最低限の食事を与えたり、用を足す為に定期的にコンテナから連れ出す必要があるのだが、ニナにはそれさえない。彼女はこのコンテナで目覚めて既に三日経つというのに、最初に支給されたパン切れにさえ触れようともしないのだから。


 不意に、暗黒の世界に光が差し込んだ。早朝でも夕暮れでもないので、必要以上の光がコンテナの奥の方にまで差し込んでくる。ニナはわずかに顔を反らし、目を細めた。


「ちょっと、押さないでってば!」


女の声。ニナよりもだいぶ年上だが、それでも声から若さが伝わってくる。カサカサと木箱に艶やかで扇情的な服や絹のような髪をこすりつけながら、鋭角なハイヒールの音を鳴らして、ゆっくりした足取りで女は奥へと向かっていた。


「支給された食事以外は口にするなよ!」


次いで、男の声。十中八九兵士だろう。男の声はコンテナの外から響いている。


「分かってるわよ!軍の物資に手をつけようなんて、恐ろしくて出来ないわ!」


外の兵士にも聞こえるように女が精一杯声を張ると、重い鋼の扉が金切り声を上げてけたたましく閉じた。一気に暗転した世界で、女は足元が不安なのか、周囲の箱に手を触れて這わせながら奥へ奥へと進んでいく。


「ひっ!」

 

 最奥の直前には、ポッカリと木箱をもうひとセット置けそうなほど開いた空間と、怪物でも封印しているかのような神経質さで壁際に繋がれた少女が目に入る。その少女の風貌もさる事ながら、少女を彩る環境にこそ、女は生唾を飲み下した。


「び、びっくりした。先客がいたんだね。」


 女は木箱の山に凭れかかり、そのまま腰を降ろした。ちょうどその位置には木箱を固定するベルトがあったので、女はベルトに腕を絡めながら手のひらで握り込む。沈黙がなんとも心地悪いのでニナに話しかけてみるが、少女が何か返答する様子はない。

 女はガサガサと持たされた紙袋をしなやかな指で弄びながら開くと、暗くてよく見えない中の物をまさぐりながら不満を口にした。


「いち、に・・・三枚。信じられない、このケチ軍隊。パン切れ三枚で三食分のつもりなのかな。乾燥パンじゃないだけマシ、なんて思ってそうなところが腹立たしいわ!」


 つらつらと不満の言葉を口にする女だが、ニナはそれに食いつかないどころか、気に留める様子もない。そんな少女の様子を見て、女は気味が悪いと思うと同時に、その怪しい魔力に惹かれつつあった。

 やがてコンテナは揺れ始め、エンジン音が移動の再開を知らせる。相変わらずガタガタの山道は容赦なく二人の身体を突き上げ、鋼の床は座っているだけでも尻を殴りつけられているかのよう。女はせわしなく座り方を変えたり、何か足元に敷くものはないかと周囲を見回していた。


「もう!痛いし暗いし!なんかないの?あなたなんで平気なの?」


「・・・平気。」


苛立ちが顔にも声にも現れて、隠す素振りさえない女。そんな新たな同居人が鬱陶しくて、ニナはついに口を開く。


「何よ、喋れるじゃないの!もっと早く答えてくれれば良かったのに。」


「・・・」


女は嬉しそうな声色で言うと、揺れるコンテナ内でふらふらとおぼつかない足取りで移動し、やがてニナの隣に腰を降ろした。ほとんど揺れに任せて、ストンと倒れ込むように座ったので、女は尾骶骨を強く打って顔をしかめる。

 ニナは既に、この女に返事した事を後悔していた。


「私ね、アガルタ・ファムっていうの。・・・偽名だよ!」


名乗りながら肩を寄せる女。しかしニナは迷惑そうに顔を背ける。この時初めて、少女は身体に巻き付いた鎖を煩わしく感じていた。強い香水の匂いが鼻を突く。

 そんなニナを物珍しそうに観察するアガルタ。彼女の目もそろそろコンテナの暗黒に慣れて来たので、興味が尽きないニナを全身舐め回すように見ていた。すると、ニナの足元に転がった何か、正方形のものを見つける。それは、乾燥パンのように固くなったパン切れ。最低限の食料として支給されたにもかかわらず、ニナが頑なに触れようとしなかったものだ。表面には既に砂埃が付着しており、黒ずんでいるのが闇の中でも見て取れる。


「ね。それ、食べないの?」


「食べるもんか。」


アガルタの質問に、ニナの返答は自然と口をついて出た。『しまった』と思った頃には、少女は既に発音してしまっていたのだ。『してやられた』とでも言わんばかりに、八つ当たりでもするようにニナは横目でアガルタを睨んだ。


「食べなきゃ死んじゃうよ?」


ニナの表情を見て、恐ろしくないといえば嘘になる。しかし、アガルタは形相が自分に向けられたものでない事を見抜いていた。たとえ鎖がなくとも、彼女は同じ質問をしただろう。

 そんなアガルタの言葉に、ニナは乱暴に払いのけるように言い返す。


「じゃあ死んでやる。」


「ムキになってる。」


「構わないでよ!あいつらの情けで生かされるぐらいなら・・・喜んで死んでやる!」


それまで無言を貫いていた反動か、ニナは畳み掛けるようにアガルタに思いをぶつける。その言葉は拒絶そのものなのに、アガルタの目には甘え方を知らない哀れな子供が映っていた。

 詳しい事情など知る由もないが、同盟軍への並々ならない憎悪と、その理由になるような恐ろしい事件があったという程度の事は初対面のアガルタにも理解出来た。しかし、だからこそ惹かれるのが、少女の異質さだった。


「ねえ、神様っていると思う?」


脈絡なく言うアガルタの言葉に、静かに奥歯をすり合わせて答えるニナ。

 脳裏に去来するのは、ニナの家族の最期の瞬間だ。殴打と銃声を伴って、血の池に沈む日常。実に淡々と、流れ作業じみた無機質さで繰り出された惨劇を脳内で再生する。


———教義の概要を知る限り、神などいない。


「私はね~、これでも信じてるんだ。」


「・・・そう。」


無骨で暗い鋼の天井を見上げながら、アガルタは星空でも見上げているかのような輝きを目に宿して言った。対するニナは、一拍置いた気のない返事。

 目をつぶったアガルタのまぶたの裏には、小柄で老齢の神父が輪郭を歪ませながら映っていた。


「こういう話があるの。」


アガルタは、迷惑そうに顔を背けるニナを横目で見ながら切り出した。


「神様はね、この世界に人間を二人だけ作ったんだって。その時は何もかも満ち足りていたの。食べ物も、寝床も、なんでもよ。」


「学校で聞いたよ。昔の人が考えそうな、荒唐無稽な神話だね。」


女の話を断ち切るニナ。少し笑うと、アガルタは先を続ける。


「・・・それから、人間は増えすぎた。神様の忠告も無視して際限なく増えたので、満ち足りていたはずの食べ物も、寝床も、何もかもが足りなくなった。」


 それはニナもよく知っている、グロリア聖教の創世神話だ。三日のうちに神は空と海と大地を作り、二日で森と動物を作り、六日目に自分の似姿として一組の男女を作った。そして、その次の七日目を安息の日と決めた。何一つ不足のない完璧な世界を作った神は己の被造物に満足して『定めに従え』とだけ命じて、七日目の休息を満喫したという。

 しかし、神の似姿をした人間は傲慢で、定めに反して欲を求めた。その先の八日目以降は、増えすぎた人間と神の確執だの、人間を倒す為に作られた天使たちとの戦いだの、罰する為に作った悪魔たちの暴走だの、人間と神の和解だの・・・神話らしい話が続いていく。空想のエンターテイメントとして楽しむ分には悪くないが、本気にするのはどうかと、ニナはかねがね思っていた話だ。


「争うのも、お腹が空くのも、お金がないもの、幸福の席が埋まってるのも・・・私たちが多すぎるから、なんだってね。」


まぶたの裏に映る、不定形な神父の影。その口の動きをなぞるように、アガルタは彼の教えをリピートしている。そんな神父が、一泊置いて溜め息混じりに話を続ける。


『何もかも足りないから、だからこそ私たちは———手元にあるものを分け合うのです。』


想像上の神父は言い終えると、優しく微笑んでいた。その手には何やら白い包みが抱えられていたが、それをどうこうする前にアガルタは閉じていた目を開いた。


「何もかも足りないから、だからこそ私たちは———奪うんだよ、生き延びる為に。」


最後の言葉を聞いて、ニナは初めてアガルタと名乗る女の方に首を向けた。そんなニナの変化に満足そうな笑みを浮かべると、アガルタは話の先を続ける。


「なーんて、全部ファリア神父の受け売りだけどね・・・」


少しだけ、ほんの息継ぎ程度の時間だけ、アガルタは口ごもっていた。


「けどね、奪う手段は暴力だけじゃないわ。愛だって優しさだってそうだもの。ほら、私があなたの『関心』を奪って見せたようにね。」


言いながら、アガルタは埃を被って薄汚れ、時間が経って干からびたニナのパン切れを拾い上げる。


「これはあなたが、やつらから奪ったパンよ。」


ニナの瞳孔がわずかに開く。アガルタは眉の動きでそれを察すると、にやりと口元を釣り上げた。


「だってそうでしょ?限りある食料を、やつらはあなたに差し出さなくてはならなかったんだもの。義理でも情けでも、その事実は変わらない。やつらはパンを手放して、あなたはそれを手に入れた。」


そう言いながら見せつけるようにパン切れをニナの眼前で滑らせるアガルタ。ニナは、次第に息が荒くなっていくのを止められない。汚らしいパンのひと切れを大きく見開いた目で追っていると、飲み下さずにはいられないほどの唾液が口内に分泌されるのを感じた。


———アガルタは大きく口を開くと、たったひと噛みで半分ほどまで口に含んでしまった。


鎖に繋がれたニナはそれを見ている事しか出来ず、獣のような息遣いでアガルタの口元を見ていた。もしゃもしゃとパンを咀嚼する口が、開いては閉じて、またパンに噛みついていく。正方形だった板は不定形に変わり、半分が四分の一に、そして四分の一も程なくして無に消えた。


「おえ、不味かった。砂っぽくてしゃりしゃりするわ。」


舌を出して顔をしかめるアガルタ。ニナは瞬きさえ忘れて、あれほど無視していた女に目が釘付けになっていた。


「何よ、悔しいの?だったら次はもっと大事にしなさいな、———せっかく奪ったものなんだから。」


それだけ言って、アガルタは静かに目を閉じた。

 ニナは、整理のつかない感情をなんとかしようと強く目を瞑った。同盟軍のパンなんか惜しくないのに、死んだほうがマシと本気で思っていたのに、今は自分の気持ちが分からない。揺れるコンテナの中は木箱やら何やらがぶつかり合ってこんなにうるさいというのに、少女の脳内で反響するのは、先程までのアガルタの話ばかりであった。


 それからしばらく、二人はコンテナに揺られていた。相変わらず下から突き上げる振動に耐えながら、長い沈黙と思い出したような小会話が定期的に繰り返される。そのほとんどがアガルタの文句とニナの気のない相槌であったが、二人の距離は着実に近づきつつあった。

 そして、再び車両が停まる頃、既に日が暮れて夜になっていた。日中であればまだ僅かな光が差し込んでくるコンテナの中も、夜間となるとインクで塗りつぶしたように黒一色の景色になる。


「ようやく止まったわね。このまま朝まであの調子じゃどうしようかと思ったわ。」


「だったらどうすんの?」


座ったまま振動の度に身体に力を込めていたせいか、今になってドッと押し寄せる疲労感に任せて、だらりと鋼の床に寝転ぶアガルタ。鉄と布が擦れる音に紛れて新たな文句が口をつく。そんなアガルタの姿を音だけ拾いながら想像し、ニナはこれまでのように相槌を打った。


「・・・泣いてしまうでしょうね。辛すぎるもの。」


少し間を置いてから、アガルタは静かな口調で答えた。ふわふわとした掴みどころのない彼女は、話を聞いていても何処まで本気で言っているのか分かりにくい女性だ。それでも今の言葉は本心だと伝わってくるほど、何か迫真めいた説得力が込められていた。

 とても迷惑な話だと呆れながら、ニナは返事の代わりに溜め息をつく。すると、二人の頭上から足音や金属音が響いてきた。ちょうど二人が見上げている鋼の板の真上で、何者かがあちこち惑うようにトボトボと歩いたり、何か太いワイヤーでも引きずっているような音を立てている。

 それを聞いて、アガルタは喜びの声を上げた。


「あら、今夜は泣かずに済みそうね。」


状況を掴めず、釈然としない様子のニナ。一拍置いてからアガルタに真意を問う。


「・・・どういう事?」


「え?」


その質問は想定外だったようで、むしろアガルタのほうが聞き返していた。


「あなたもしかして、目的地を知らされていないの?」


ムクリと起き上がりながら言うアガルタだが、それならこの厳重な拘束も腑に落ちると一人で納得する。未だにニナと同盟軍の間に起きた事件の真相は分からないが、その結果の強制連行なら、確かに自由を封じられるのは理に適っているのかも知れない。


「あんたは知ってるんだ。」


「まあね。むしろあなたみたいに連行されてくる人がいるなんて・・・都市伝説か何かだと思っていたわ。」


言いながら座り直すと、アガルタは先を続ける。


「私ね、あんまり根掘り葉掘り聞かれても困るのだけど、人を喜ばせる仕事をしてたの。主に男の人をね。でもね~、そういうの税務署で報告出来ないのよね。そっからバレて脱税でしょっぴかれて・・・」


「変だね。脱税なんて追徴課税されるだけでしょ?軍に目つけられるような事じゃない。」


訝しむニナ。アガルタは感心して小さく笑う。


「ふふ、そうね。それはそうなんだけど、ほら・・・払おうにも払えるような額じゃないのよ。」


「・・・」


「そうなると、下手したら懲罰作業所送りじゃない?」


 懲罰作業所とは、その名が示す通り、罪を犯した人間を罰する為の作業施設である。その起源は戦時中の人手不足の時代まで遡る。

 『獄中の囚人を自由にする事無く、戦争に有効活用出来ないか?』という命題から始まったプロジェクトによって、囚人の刑罰は自らの時間を償いとして消費するものから、文字通りの命を消費するものへ変貌した。一日二十時間を超える重工業施設での重労働に、食事と休憩は最小限。囚人の体力や健康状態を気にかける者など誰もおらず、ゆえに囚人たちは最低限の汚染物質対策もなく働かされ、刑期を全うする事もなく斃れていく。その中には戦前や戦時中に恐ろしい犯罪行為を積み重ねた極悪人は多分に含まれていたが、敵軍の捕虜や、戦時下で反戦運動を企てた政治犯として投獄された者も少なからず含まれていた。


———そんな機神戦争終戦から、早や二十六年。当時の囚人を使った制度は、『懲罰作業刑』と名を変えて現存している。


 決して、全ての囚人が戦時中当時のように懲罰作業を矯正されるわけでは無い。ほとんどの場合は正当な裁判が行われ、犯した罪の重さに見合った罰金か懲役またはその両方が課せられる。

 しかし、何事にも例外は存在する。


原理上、刑罰遂行が不可能な者。

レジスタンスなどの反政府勢力に関わった事で、刑法の埒内から外れた者。

あるいは、確定した判決の刑期や罰金を減らしたいと強く望む者。


———そんな『例外』を処理する為に、旧時代の制度は残してある。


「だから仲良しの弁護士にお願いして場を設けて貰って、そこからお役所の皆さんや警察の皆さんとも仲良くなって、なんとか作業所送りになるところを『こっち』に変えて貰ったのよ、———『訓練兵駐屯所には必ず花畑がある』って話、聞いた事ない?」


アガルタが言い終えてすぐのタイミングで、コンテナがふわりと浮き上がるのを二人は体感する。コンテナの上であちこち歩いていた兵士が、ちょうど作業を終えたのだろう。

 コンテナはワイヤーと滑車で吊り上がり、ロープウェイの要領で更に高度の高い方へと目指していく。そこはもはや車両では進めない断崖絶壁。悠久の時から人と戦と共にある場所、天然の要塞なのだから。かつては旧アイラ領と旧スコラ領の堺を決めていた山脈、その境界線に楔を打ち込むように、この付近には複数の軍事基地が建設されていた。旧アイラのものがあれば、旧スコラのものもある。

 切り立った断崖絶壁に守られた開けた土地は、太古の昔から城塞を築くのにうってつけだった。外からは攻めづらく、内側から逃げる事も叶わない。高山地帯特有の天候は移り気で、気性は極端に激しい。空気さえも酸素が薄いので、容赦なく兵士の体力を奪い去っていく。山そのものが、人食いの怪物なのである。

 そんな環境は、戦争無き時代では新兵訓練にこそ最大限の効果を発揮していた。同盟国成立以前なら敵対する両国を互いに監視しあう砦の役割が主であったが、国の区分などとうに無くなったこの時代では、物見櫓の機能さえ果たせない。そんな前時代の遺物に残された最後の意義は、その環境を活用した拷問施設としての機能性だけだった。


———ここは『第一◯◯八番新兵訓練キャンプ』。極楽と地獄は同じ地平にありと、否が応でも学ぶ場所である。


 やがてコンテナは動きを止め、やや雑な着地の感覚がロープウェイが終点に辿り着いたことを二人に伝える。そしてコンテナの天井にも、またコンテナの周囲にも軍靴の音が少しずつ増えていき、ニナとアガルタは扉が開かれる瞬間を今か今かと待っていた。


「こんな狭くて暗くて痛いところとはおさらばね。でも、あなたと居たからまあまあ楽しかったわよ。」


言いながら、アガルタは立ち上がって伸びをする。ニナは鎖や手枷足枷で拘束されているので、拘束されていないアガルタが先にコンテナを出られるだろう事は明白だった。

 返事など無いか、あってもこれまで通りの気のない相槌だろう。そう思って外に出る準備に取り掛かっていた女の足を止めたのは、少女の別れの挨拶だった。


「・・・あなたじゃなくて、ニナ・ゲッペル。本名だよ。」


そんな名前は存在しない———


———そんな事は、少女も承知の上だ。


 歳に合わず少女は聡明なので、彼女と同姓同名の人間は、既に戸籍さえも抹消されているだろう事は分かっている。しかし———だからこそ———少女はその名を名乗り続けるのだろう。


やがてコンテナの扉が開き、外の広場を照らすナイトライトの明かりが暗黒の世界に充満する。砂や埃がキラキラと輝き、積み上がった木箱やアガルタの身体の輪郭がくっきり浮かび上がった頃、外から響く兵士たちの声がコンテナの奥にも届いて来ていた。

 アガルタに、さっさと出て来るようにと命じる声だ。


「ニナね、覚えたわ。それじゃ、ごきげんよう。」


それだけ言って、女はナイトライトの光の中に消えていく。

 遠ざかるハイヒール、入れ替わりに軍靴の音がいくつも近づいて来た。コンテナの奥に入り込むほど、その歩幅は狭く、遅く。壁から続く幾筋もの鎖が兵士たちの手持ちのライトを照り返し、その中心に鎮座するモノに視線を集める。いくつものライトに照らし出されたソレは、話に聞いた通りのモノであった。

 

錐で板に彫り込んだような深い、眉間を二分する一筋のシワ。

瞬きさえも忘れてしまったのか、渇き切って充血した真っ赤な相貌。

頬は赤く擦り切れて腫れ上がっている。それはあたかも、口そのものが耳まで裂けているように。


 最前列の兵士が持つ鉄の輪には、いくつかの鍵が束ねられてぶら下がっている。小刻みに震える度に鈴音を立てる鍵束は、兵士たちの心を奏でる楽器のようであった。










つづく


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