第十話『金腕のニナ その②』
時は女王暦八十一年、統一国家・同盟国が成立してまだ一年という頃の出来事。ニナ・ゲッペルはとある下町で、父フベルトと兄のエーミールが二人で切り盛りする町工場の娘として生を受けた。エーミールとは十三歳も歳が離れていたが、それはニナがフベルトの二人目の妻との子であり、エーミールとは異母兄妹だったからだ。エーミールは七歳の頃に母アンジェリカと死別し、それから長く父と二人きりで町工場を営んでいくのだった。二人は親子でありながら、むしろ兄弟か相棒のような関係だった。
しかしエーミールはそろそろ結婚を考える歳になり、これまでのようにつきっきりで一緒にはいられないだろうと悟っていた。老いた父には助けが必要だろうと考え、ニナの母になる女性、まだ若いマアンナとフベルトを引き合わせた。そうして二人だけの家族が一人二人と増えていき、一回り狭くなった家は活気で満たされるようになった。
ニナはあまり同年代の子供と遊ばない子供だった。母マアンナがわざわざ公園へ連れていき、他の子供と引き合わせれば、その時は母への義理立てのようにかくれんぼやままごとのような子供らしい遊びをして見せる。その姿は充分楽しそうであったし、対人コミュニケーションに難があるわけでもない。ただし、一貫して自分からは遊びに出向かない子供だったのだ。
当時三歳のニナが自分から出向く場所、本当に大好きな遊び場は、父と兄の機械工房だった。あの薄暗くて灰色の、少し不潔で機械音が絶えない場所こそが、彼女にとっての原風景だったのだろう。事ある毎に少女は母の目を盗んで機械工房に忍び込み、壁一面を満たすきらびやかで色とりどりの工具の数々に見惚れていた。溶接機を滑らす父フベルトの横顔、工房内の騒音に負けないほど大きな声で取引先と喧々囂々の議論を重ねる兄エーミールの姿、そして休み無く駆動音を上げて稼働し続ける機械類———そういうものにこそ、少女は目を輝かせるのだった。
ある晩の事———
「ニナのやつはもう寝たのか?」
「ええ、寝かしつけたわ。でも、絵本でも歌でもなかなか眠ってくれなくて。」
フベルトはだらりと寝転ぶようにソファーに浅く座り、お気に入りのグラスでウイスキーを楽しんでいた。歳が歳で持病に障ると医者には止められているので、一日一杯かぎりと妥協している。男二人だけの粗雑な暮らしが長く続いていたせいかエーミールも父の肩を持つので、マアンナはあまり強く晩酌癖を止められないでいた。
夫の質問に答えるマアンナが悩みを抱えているのは明白だった。
「母さん、またニナの事?」
皿洗いをひと段落させて、タオルで手を拭きながらエーミールが居間にやってきた。
「また、って。あなたはそう言うけど、私はやっぱり、女の子には女の子らしい趣味があってると思うのよ・・・」
エーミールに声をかけられ、マアンナは視線を泳がせながら逃げるようにフベルトの隣に座った。そんな彼女に理解を示すように、フベルトはマアンナの肩を抱き寄せる。
「そうだな・・・俺ぁよ、子供にとって子供時代ってのは大事だと思ってんだ。そういう意味じゃエーミール、お前には悪い事したな。」
「父さん、そういう言い方はやめてくれ。悪酔いしてるならさっさと寝ちまえよな。」
言いながら父のウイスキー瓶を取ると、そのまま傾けてエーミールもラッパ飲みする。そして袖で口元を軽く拭くと、自分の定位置の窓際の椅子に座って風を浴びた。
「父さんと母さんの言いたい事は分かるよ。ニナは、ちょっと変わった子だ。」
頬杖を突き、二人の方を敢えて見ずに、エーミールは窓から覗く欠けた月を見つめていた。
「だけど、子供の頃の興味関心は無闇に否定すべきじゃないよ。いずれ飽きて忘れるだろうけど、好きな事に熱中した事実は・・・きっと大切な財産になるはずだから。」
エーミールは歳の離れた妹ニナを溺愛していた。何をしていても愛くるしくて仕方がないと思っていたので、両親ほどの違和感は感じていなかった。
フベルトとマアンナはやはりニナの振る舞いに対して不安を拭いきれないと思っていたが、同時にエーミールの言葉は、何か核心めいたものを孕んでいると直感した。それが何か、彼女の将来を占うような。あるいは決定づけるようなものだと思えてならなかった。
それからと言うもの、マアンナは次第に、少々諦め混じりに少女の趣味嗜好を矯正するのをやめた。
最後にお姫様の着せ替え人形を買い与えた時、ニナは大いに喜んでいるように見えた。飛んで、跳ねて、母の頬に感謝の口づけまでしてくれた。そして母は、血の繋がった親子だからこそ、それが義務的で事務的なものだと理解できた。幼いニナが母を傷つけまいと本能的に見せた義理立てが、どれほど母の心を深くえぐった事か。人形は少女の部屋に大事に飾られている。埃一つ被っていない様子を見るに、娘は毎日母が見ていないところで人形を拭いているのだろう———母を悲しませまいと。
———しかし、その人形で遊ぶ事は一度もなかった。
その事実があまりにも辛いので、母は遂に白旗を上げた。このまま心が折れてしまうぐらいなら、いっそ受け入れてしまった方が楽だろうと。この子はきっと、世界で一番親孝行な親不孝者だ。親ならそれでも、ありのままの子供を愛そうと、母は静かに心に決めていた。
この頃から、ニナがフベルトたちの機械工房に滞在する時間は格段に長くなっていた。少女は相変わらず大好きな秘密基地に親の目を盗んで忍び込んでいたが、フベルトとエーミールは努めて気付いていないフリを貫いた。ニナの興味関心は否定しない。しかし、もっと同年代の子供たちの輪に入って普通の子供らしく成長して欲しいのもまた親心だ。だから不器用な父と兄は、彼女に構わない選択をせざるを得なかった。よほど危ない工具や機械に触れない限りは、そっとしておく事に決めていたのだ。
———そうすれば、いずれ飽きるだろうと信じて。
しかし両親や兄の親心を嘲笑うように、少女はどんどん機械工房の奥深さに惚れ込んでいくばかりであった。力強い機械の駆動音と、鏡のように磨き抜かれた工具の数々。乱雑なようで実は無駄が一切ない工房内の様々な物の配置。花畑に目を輝かせるような純粋さで少女は色とりどりな工具のグリップや、機械類の表面で明滅するシグナルランプを眺めていた。規則正しいピストンの音を聞いて眠り、暇つぶしに廃品からネジを抜いたり締め直したりしてみる。
人形やぬいぐるみを抱いて眠るべき年頃の少女がお気に入りのスパナを抱いてブルーシートに横たわる姿は実に奇妙であったが、慣れからか、家族はそんなニナの個性を受け入れつつあった。
しばらく後、ニナが五歳の頃———
もうそろそろ工房を閉めようと片付けの作業に入る夕暮れの時間、一台のGS用大型トレーラーが町工場の前に停止した。運転席から出てきた男は見たところフベルトと同年代。金属光沢のように激しく光を照り返す黒い皮のジャンパーには、もはや存在しない三国の一つ、スコラの国章と国旗のステッカーが縫い付けてあった。長く着古したジャンパーなのだろう、男の顔と同じように、見た目に重ねた年数が現れているよう。
「オヤジ、まだやってる?」
気さくに言いながら男は工房に入ってくる。
フベルトと男は硬い握手を交わしてお互いの肩を叩きあうが、同時にフベルトの表情は少し険しくなっていた。
「ダンカン、ヒトガタは困るぞ。最近は未登録ってだけでお役所に睨まれちまうの、お前なら知ってるだろ?」
咥えたタバコの蛍火でトレーラーをさすフベルト。
「分かっちゃいるけどよ、あいつは大戦の時から一緒にやってきた相棒じゃないか。もうお前ぐらいしか診てやれねぇ。」
「俺ぁもう若くねぇ、家族も出来た、時代も変わっちまった・・・昔のようには行かねぇよ・・・」
寂しそうな背中がGS用大型トレーラーを眺めている。そんな背中を見て、ダンカンと呼ばれた男も寂しい気持ちになる。猫背に曲がった背筋がそう見せるのか、フベルトは以前に会った時よりさらに小さく見える。半袖から覗く腕は一回り細くなり、代わりにシワが増えたような気がする。昔はもっと豪快な人間だったのに、今では人が変わったように慎重だ。歳が、時代が、環境がこうも人を変えるのかと、ダンカンは自然と溜息をついていた。
「あれ、父さん?」
奥の方からエーミールが顔を出す。もう上がりとばかり思っていた彼は、少なからず駆け込みの客に驚いている様子だ。すると、青年を見たダンカンは嬉しそうに手を振って声をかけた。
「おお、エーミール君じゃないか!おーい!」
ピンときてない様子で会釈するエーミール。
「おい、忘れちゃったのかい?傷つくなぁ・・・ほら、ホバースクーターのおっさんだよ!」
それで気がついたのか、一気に表情が変わるエーミール。父同様にダンカンと固い握手を交わし、互いの肩を叩きあう。仕草どころか、力加減や表情まで若い頃のフベルトにそっくりだと、ダンカンは一人感慨に浸っていた。
「ダンカンさん!ヒゲ伸ばしてるもんだから気付きませんでしたよ!今度は何をぶっ壊したんですか?」
「似合ってるだろ?けど酷いなぁ、今度ばかりは何も壊してねぇよ。勝手に動かなくなったんだ!」
年甲斐もなく地団駄を踏んで見せるダンカン。その脇で、フベルトは腰が疲れたのかパイプ椅子に腰掛けて次のタバコに火を付けていた。
「バーカ。大抵は使い手の問題なんだよ。機械はその辺り正直だぞ。」
「いーや、今度ばかりは賭けて良い!俺は悪くねぇ!」
「じゃあ賭けようか!間違っていた方が一杯奢りだ。」
初老の二人が意地を張り合って口喧嘩をしている間に、エーミールは手際良くダンカンが持ってきた機械をドックに運び込む。
なかなか年代物のジャゴだった。シリアルコードを見るに、大戦を潜り抜いてきた愛機というのはあながち誇張でも無いらしい。だらりとうなだれ、足を伸ばした姿勢で座り込むような高さでクレーンに吊るされた古いジャゴ。鋼の老兵を背にして、エーミールはワークシートとペンを持って机の方へダンカンを案内する。
「それじゃあダンカンさん、詳しく症状聞きますよ。」
言いながらエーミールはペンを紙につける。
「おう。ついこの間、あいつのバッテリーを替えてやったばかりなんだ。長く使い続けたから、そろそろかと思ってよ。もちろんモダンビルド社の純正品だぞ!あいつら・・・どうせ客が買うからっていくら値段を釣り上げても良いと思っているフシがあるよな!」
「バッテリー交換・・・最近・・・純正っと。他は?」
「起動にやたらと時間がかかるんで、水素タンクも新しいの買ったんだ。古いと漏れるって聞くしな。」
「そうですね。だいたいはそこ抑えとけば起動エラーは防げる事が多いかな。」
ペンを走らせるエーミール。その間にフベルトが質問役を買って出る。
「他のパーツ交換は?カメラモジュール、駆動系、電装系・・・そっちの方はどうなってる?」
「カメラは一年前に新しいのに替えたばかりだ。システムが非対応だの何だので結局オペレーションシステムまで更新しなきゃいけなかったよ。あー嫌だ嫌だ・・・」
当時のイライラを思い出したのか、ダンカンは机をバンバン叩く。それを見てエーミールは呆れ笑いをしながらペンを止めた。
「本当にあのめんどくさい作業やったんですか?全く・・・その時来てくれればプロンプト一つでシステムを騙せたのに。」
「そ、そうなのか・・・?」
「そうですよ。ジャゴの旧システムはセキュリティが甘いから、簡単なパッチで済むんですよ。」
目を丸くするダンカン。更にフベルトが付け加える。
「システム的な事はもう全部エーミールに任せてる。こんなジジイじゃついていけない世界だよ。で、他のパーツはどうだい?」
「どうだったか・・・特に替えてないな。動くんだから、別に良くねぇか?」
「良くねぇ。最近のパーツは作りがちゃっちいからな、寿命は二年だ。」
「二年!?ひゃー・・・そんなんバカ正直やってたら世のジャゴ乗りは破産しちまうよ!」
「馬鹿野郎!GSはもともと貧乏人のおもちゃじゃねーんだよ!」
再び始まったフベルトとダンカンの口喧嘩を、微笑ましく聞き流しながらワークシートの項目を埋めていくエーミール。面白い事に、話し方そのものは口喧嘩なのに、ポロポロと聞こえてくるキーワードはちょうどシートに記入したいものばかりだった。フベルトは長年の仕事の成果で、チェック項目の全てが無意識の中にさえ刷り込まれているのかも知れない。
———「背中の箱のしゅぽしゅぽだよ。それが苦しくていやになっちゃったんだよ。」
ガヤガヤと話し込む三人を容赦なく黙らせたのは、いつの間にかジャゴの真正面にまで来ていた少女、ニナだった。
少女はまだ、機械工学の用語を正しく知らない。フベルトとエーミールは努めて彼女に機械の事を教えなかったので、ニナがそういう名称を知る術はなかった。しかし生粋のメカニックである二人には、ニナの言わんとする事が完璧に理解出来た。
———だからこそ、ありえない。
ここまでワークシートを埋めれば、本職のメカニック二人はあらかた原因が掴めていた。年代物のメカなのに、ダンカンはパーツ交換を怠っていた。電装系や駆動系にガタが来ていても、動くならば問題ないと。素人らしい短絡的な考えではあるが、経済的な都合は無視できない。
一方で、起動に最も重要なエンジン部分はバッテリーもタンクも新品に取り替えてある。システムも最新版に更新済みなので、素人の無茶なハッキングでエラーを吐き出している可能性も低い。となれば、答えはエンジンそのものの駆動系か電装系、古いピストンか配線が悪さをしていると見るのがプロの答えだ。
———それを、五歳の少女が見抜いたとでもいうのか。
その日も、ニナはいつものように工房に忍び込んでいた。そして廃品をいじって遊ぶ傍ら、フベルトたちの会話を盗み聞いていた。用語や話の大部分は理解出来なかったが、要点だけは抑えていた。それは彼女が毎日ここへ来ていたからだろう。機械の話しを聞きながら機械をいじり、眠りながらでさえも機械の話しを聞いていた。そんな少女だからこそ、断片的な会話とうなだれるジャゴを見ただけでその症状の根幹を言い当てたのだろう。
その日を境に、フベルトとエーミールは方針を大きく転換した。マアンナだけはまだ賛同しきれない様子だったが、特にエーミールは積極的に工具や機械の事を教えるようになっていた。これほどの才能を、ただ性別が合わないというだけの理由で埋もれさせるのは、むしろ虐待ではないだろうか。フベルトもまた、娘との時間を取り戻そうとするようにあれこれと町工場の仕事についてニナに教えてやった。これまで彼女を放っていた分だけ二人の胸には時間が罪悪感としてのしかかり、堰きを切ったように知りうる限りの知識を、惜しみなく少女に教えるのだった。
二人の教育は日に日に熱を帯び、少しでも手順を間違えたり危険な事をすれば容赦ない怒号が父の方からも、兄の方からも飛ぶようになった。一瞬の油断が大怪我や大事故に繋がる世界に飛び込む以上は、そういう厳しい教育方針は避けられない。特にニナは飲み込みが早いだけに、作業の内容が高度で危険になっていくほど、教える側の厳しさも輪をかけて増して行った。
父と兄の、あまりにも厳しい教育方針を見て、マアンナはニナが音を上げて機械関連の興味関心を捨て去るとどこかで期待していた。それ故に、毎日のように怒鳴られる娘を見て不憫に思っていてもフベルトたちの教育方針に口を挟もうとはしなかった。しかし母の期待とは裏腹に、男の子を育てるような厳しい教育にも負けず、ニナは着々とメカニックとしての技術や知識を吸収して一人前と認められつつあるところまで急成長してのける。
そんな教育方針のせいか、顔つきも言葉遣いも男の子らしくなっていくニナを見て、マアンナは一念発起する。父も兄も教えてくれないマナーや言葉遣い、女性らしい所作や美的感覚、家事全般や料理などは全て母親が叩き込んだ。物腰柔らかな性格のマアンナだったが、こればかりはフベルトとエーミールの情熱に負けないほどの熱意で、ニナに女性らしさを叩き込む。それは以前のように価値観や趣味嗜好を矯正するためでなく、男親の教えだけでは偏ってしまう知識を母親としてしっかり教育しなくてはならないという使命感からだった。
フベルトもエーミールも生業に関する知識は豊富だが、二人は学校教育を受けていなかった。二人ともその必要性をあまり理解しておらず、ニナ本人ももっと町工場で実践的な事を学びたいと思っていたが、マアンナはこの点だけは頑として譲らなかった。七歳から始まる六年間の基礎教育だけは絶対に受けさせると決めて譲らない。工房で父や兄に怒鳴られる事よりも、好きじゃないのに無理矢理やらされた家事や学校の時間こそ、ニナにとっては逃げ出したいほどの苦痛だった。その大切さをニナが理解するのは、遠い未来の話である。
———そして、女王暦九十一年。ニナは十歳を迎えていた。
学校に通っていた、この時代のニナは誰も手が付けられないほどの問題児だった。理数系や技術系の教科こそ天才的な成績を修めていたが、それ以外の分野は至って並。特段成績の悪い分野こそなかったが、そもそも彼女からは学校で学ぶ意欲が全く感じられなかったので、教師の目から見ても伸ばしようがなかった。逆に、彼女が天才的な成績を修めていた分野に関しては教師の方こそ素人同然だった。ニナが知識をひけらかさない性格だったから教師たちは恥をかかずに済んだだけで、少女から教師への尊敬のような感情は一切芽生えなかったのだ。
極めつけは、彼女の男勝りな性格だ。ニナの複雑な家庭事情が同じクラスの悪ガキの嘲笑の的になるのは時間の問題で、それは酷い言葉でニナの家族が罵られるのは日常茶飯時だった。本来ならいじめの被害者でいられた構図だが、そこが他と違うのがニナという女学生の特異性なのだ———
「ニナ・ゲッペル。なぜこんな事をしたのか、申し開きを言って見なさい。」
コの字型に並べられた長机が少女を取り囲み、複数人の教師たちが精一杯の鬼の形相を顔に貼り付けて腕を組んでいる。学校一の問題児を萎縮させるのが目的だったのだろうが、少女は全く動じる気配がない。こんな奴らが束になっても、グリスを塗り忘れたまま機械を組んだ時のお父さんの拳骨に比べたら屁でもないと知っていたからだ。
長机に置かれた大きなスパナを指で突っつきながら、ガタイの良い大男がニナに質問する。
「はい。マルコとピョートルとサイモンが私の兄を侮辱したので制裁を加えました。以上です。」
長い金髪を自然なクセに任せて流した無造作な髪型。汚れが目立ちにくい黒いTシャツに、大き過ぎて若干サイズが合わないオーバーオール。鼻には別件の絆創膏を貼っており、頬にはまだ僅かに血が滲む傷をつけた少女が短くきっぱり言う。
少女は全く悪いと思っていない事を身体で表現するように両手を腰に当ててそっぽを向いた。
そんな教師を舐めきった姿に耐えきれず、紳士を演じていた大男がスパナを握って立ち上がる。その勢いで長机の置かれた角度もわずかにズレる。
「だからと言って、本当にこんな凶器で学友を殴って良いとでも思っているのか!」
唾を飛ばしながら怒鳴る教師、しかしそれでも少女は動じない。そればかりか、むしろ迷惑そうに目を細めて顔を顰める。
大男の教師は怒りのままに長机をずらし、ズシズシと足音を立ててニナの眼前まで一直線に迫った。そして彼女の生意気な口に制裁を加えるとでも言わんばかりに、親指と人差し指でニナの両頬を挟んで顔を近づける。
「ゲッペル!キサマの親はこんなもので気に入らない奴を殴れと教えているのか?これだから低学歴の肉体労働者は・・・」
威勢良く怒鳴り散らし、スパナを振り回す教師。しかし家族の嫌味を言い始めた瞬間、ニナの目付きがガラリと変わる。それはクラスの悪ガキたちが目撃した目———スズメバチに睨まれたような、恐ろしい目だった。
教師は振り回していたスパナを手放してしまい、自分自身も尻もちをついていた。ニナはそんな教師を心底軽蔑した目で見下すと、スパナを拾ってポケットに突っ込む。それは彼女が、幼少の頃から片時も離さなかった大切な相棒だったのだ。
「時間なので帰ります。さようなら。」
教師たちに言い放つと、勢い良く薄暗い応接室の戸を開け放つ。
「ま、まて!話はまだ・・・」
教師たちは引き留めようと声を上げるが、誰一人彼女に近づこうとはしない。
そんな彼らに振り返りながら、ニナはドアノブに手をかける。
「嫌です。ここで油売ってる時間はないので。『仕事』に行ってきます。」
言い終えるのが僅かに先か、少女はピシャリとドアを閉じる。なるべく大きな音が鳴るように、精一杯の力を込めて。
———少女の名はニナ・ゲッペル。学校一の問題児。
そして、下町ではその腕を買われ、父フベルトや兄エーミールを差し置いて『金腕のニナ』と呼ばれていた。
つづく
おまけ:
【暦について】
・この物語には『女王暦』と『統一暦』という2つの独自の年号が設定されている。
・1年を365日とした12か月を採用し、100年の節目を1世紀と数える。
・この『女王暦』という暦の歴史が浅いのは、その元年にそれまでの王制を覆して女王制が始まる大事件が起こったため。それまで198年間続いた王政の時代を『統一暦』と呼ぶ。
・物語開始時点、つまり第一話の年は女王暦96年。
そこからニナの年齢分を遡った女王暦81年が、この回想の起点になっている。
【主な歴史上の出来事について】
統一暦198年または女王暦元年: 旧王政転覆、初代女王即位、今日まで続く女王制開始
女王暦41年~45年: 第一次三国大戦
女王暦56年~60年: 第二次三国大戦
女王暦61年~68年: 第三次三国大戦
女王暦80年: 同盟国成立
女王暦81年: レジスタンス成立




