3.見知らぬ人
数日の船旅の末にようやく島が見えてきた。遠目でも山の中腹から樹が生えているのが分かる。
あれが精霊樹だとざわめき噂する船上の人々。
湖月は、前方を驚愕の思いで眺めた。
初めて、精霊樹というものを見た。
母国では今を生きる者は誰もその樹を見たことがないという話なのに。この国では、こんなにも身近で、伝説の存在がごく当たり前に日常の暮らしの背景に溶け込んでいる。
思わず息を吐き、そして大きく吸った。
薄く漂って来る霧は魔素を含んでいるらしい。魔力が満ちてゆくようだ。
ふと、トケイ国の精霊樹はどのように魔素を運ぶのかが気になった。湖の中に生きているので、その水は濃い魔素が溶けているだろう。それは湖を溢れ出て川となり、大地を縦横に巡って、人々や森や生き物を育むのだろう。
船から降りる前に、着替えなければならない。トケイ国の王子として価値があることを示すため、体裁を整える必要があるからだ。
今まで従僕に頼らない生活をしていたので、王様から従僕を付けようと言われたが断った。馴染みのない従僕と異郷の地で仲良く出来る自信は無いし、これから自分を偽る予定なので、今までの湖月のことを少しでも知っている者を近くに置いておくつもりはなかった。
甲板から屋根の下の仕切られた部屋に入り、一人でいつもの着古した粗末な衣装を脱いで王様から頂いた衣装箱を開く。そこには真新しい衣装が畳まれて入っていた。
つい最近夏至の祭りがあり、神殿の奥に暮らす湖月もその手伝いをした。その時に神官長が着ていた衣装に似ている。しかしそれよりも豪華なので、今初めてそれを見た湖月は目を見張った。
動きやすさなど重視しない、ゆったりして風にひらめく衣装で、白と黒の地をあちこち刺繍で飾り立ててある。銀のベルトと銀の腕輪を着けて靴も新しいものを履き、最後に額にいつも巻いている守り紐の上から銀の冠を被ると完成だ。
小さな銅鏡を覗くと、いつか遠目に見た兄に似た誰かが写っていた。まるで別人になったかのように思えて、見知らぬ自分が見知らぬ土地にさ迷い出るような心許なさがある。
胸元にいつものペンダントがあるのを触って確かめてからもう一度深呼吸をし、背筋を伸ばして渡り板を踏んだ。




