15.侵食
夜中にも関わらずオニキスに呼び出されたフェンネルは、何か不備があったかと恐怖で戦き、眠気がすっかり冷めてしまった様子で顔を青ざめさせていた。
オニキスのいつにも増して機嫌の悪そうな目付きが(単に目を使いすぎて疲れているだけ)、余計に怯えさせる原因になっている。
フェンネルは帳簿の計算が合わないことを指摘されて、慌てて金庫の中身と領収書と帳簿の金額を照らし合わせた。
「金額が間違っているだけではなく、そもそもの寄進額に違和感があります……。確か、もっと大きな額だったはず。それに字の書き方が私と微妙に違います。これは、誰かが書き換えた……? しかしパピルス紙に書かれた墨の字を全く跡形もなく消すなんて、そんなこと出来るわけが……」
これ以上ないくらいに青ざめたフェンネルが、食い入るように帳簿の問題の箇所を見ている。
「確かに……。たとえ書いた箇所を削ったとしても、削った跡くらいは残るし、紙に染み込んだ墨を完全に見えなくすることは出来ないだろう。上から塗り潰したようにも見えない」
「しかし、これは私の字ではありません。信じてください」
フェンネルは無実を必死に伝える。
「信じたいと思っている。フェンネルは、これまで誠実に仕事を務めてくれていた。そのことは私がよく分かっている。しかし――」
「私も、フェンネルではないと思います」
倒れてしまうのではないかと心配になるほど血の気を失ったフェンネルの様子に、つい口を挟んだ。
「根拠は?」
「彼には魔法が使えないからです。こんなに完璧に文字を消せるのは、魔法しかないと思います」
「私は、こんな魔法を見たことがないが、湖月さまはご存知だと?」
「いいえ、見たことも聞いたことも読んだこともありません。ただ、この世にはまだ知られていない魔法が星の数ほどあるといわれています。『人類は未だ、魔法の深淵のほんの表層に足を踏み入れただけだ』と。知られざる魔法が深淵から偶然に浮かび上がり、それを運の良い人が掬い上げることがあるかもしれません」
現に、湖月の猫に変身する魔法も、ある日突然どこからか湧き出すように頭の中に浮かんできて、それが消えないうちに実際に試してみたら、出来たのだ。
慎重な人なら、そう簡単に試したりなどしなかったに違いない。未知の魔法を使ってどんな作用があるのか分からないし、命の危険もあったのだ。たとえ成功したとしても、猫から人間に戻れなくなる危険もあった。
しかし、その時の湖月は新しい発見に興奮し、どうしても試したくなったのだ。その頃は魔法の可能性を求めることに夢中になっていた。それが悪い結果をもたらすなど、微塵も頭になかったのである。
思い返せば、無事だったから良かったものの、なんと無鉄砲なことか。
オニキスはそんな根拠にもならない想像を却下しなかった。
「なるほど、そういうこともありえますね。もしかしたら、今回だけではなく、これまでにも何度もあったかもしれません。今回はたまたま計算が違っていたから気付けましたが」
オニキスは悔しげに唇を噛み締めた。
「誰かが、不正に使い込んでいる。一番怪しいのは神官長だが、長期出張で不在だった。最近の帳簿を書き換えられるわけがない。では、やはり違うのだろうか?」
オニキスは少し考えた後、二人に向き合った。
「私は明日、神官長にそれとなく探りを入れてみる。湖月さまとフェンネルはこの事を誰にも言わないように。今日はもう休まないと、そろそろ夜が開けてしまう」
翌日、祭りの為に戻って来ていた神官長に、オニキスは出張での疲れを労る言葉をかけ、出張先の事などをそれとなく尋ねた。
しかし、そう簡単に口を割るわけもなく、のらりくらりと躱されてしまう。
「第四十五神殿辺りには、魔物の発生が多くてな。長期滞在に当たり、富豪の屋敷に泊まることもあった。床下暖房だったかもしれんが、それがなにか?」
「いえ、魔物の浄化、お疲れさまでした」
「まさか、帳簿に不備でもあったのではあるまいな?」
「……」
「図星か? それで、私を疑っていると。それはありえない。なにしろ、私は暫く大神殿を離れていたからな。帳簿に細工など出来る筈がない。帳簿の不備なら、犯人は帳簿係しかおらぬだろう。手っ取り早く身代金を稼いで自由の身分になろうとしたのではないか? さて、私は仕事があるので失礼するよ」
去り際の神官長の何かを含んだような表情から確信に近い何かを抱き、苦々しげにするオニキス。
神官長が立ち去った後、陰で聞いていたフェンネルはオニキスの前に飛び出した。
「そんなずるい真似をしてまで、自由民になろうとはしていません! 給料もきちんと頂いていますし、私はこの仕事に誇りを持っているのです」
「分かっている。フェンネルが誠実なことは、十分に。しかし、証拠がないのだ。次は、建築家に当たるか。しかし、買収されているだろうから、簡単には口を割らないだろうな」
湖月はその一連を窓から猫の姿で見ていた。
このままでは、帳簿係のフェンネルが犯人にされてしまう。
もし、神官長が神殿のお金を勝手に使い込んでいたなら、由々しき事態だ。しかし、証拠はない。
遠くにいたのに、どうやって使い込めたのか?
未知の魔法か?
それとも、人を使って?
一体、どうやって……?
瞬間移動という魔法を、人々は空想して物語の中には登場するが、空を飛ぶことと同様に沢山の魔力を必要とするため、現実では難しい。瞬間移動では瞬時に爆発的な魔力を必要とし、空を飛ぶのは持続的に必要とする。
そんな魔法を使えるのは、完成した蓄魔法装置を使う人か、精霊、あるいは魔物――。
まさか。
いや、魔物が神殿に入り込めるはずがない。
大神殿と城には姫君による結界魔法が施されている。
――それならば、なぜ以前城に暗殺者が侵入した?
姫君に毒を盛ったのは、十中八九魔物に取り憑かれた人間だ。猫の感覚は人間よりも鋭敏らしく、微かな魔物の残り香のような気配を嗅ぎとった。
どこから魔物が入り込んだんだ。
結界には抜け穴があるというのだろうか?
湖月は、猫の姿のまま歩き回る。
微かな瘴気を見逃さないように、耳をすませ、目を凝らし、においを嗅ぎ分け、全身の毛に触れる空気の流れを感じとるように。
そして、とうとう見つけたのだ。結界のかかっていない、隠された地下通路を。
この事をオニキスに伝えようと走っていると、前方から神官長が歩いて来たので、咄嗟に柱の陰に隠れた。
神官長は石畳の一部を開いて、地下通路に入って行った。それが閉じきらないうちに、後を追ってスルリと入り込む。
暗い地下道を下へ下へと降りていく。彼の持つランプの明かりだけが通路を照らしていた。猫の目は、その明かりが遠くても周りがよく見える。姫君の使っていた隠し通路とは違い、魔法の明かりもないし、細く狭くて、階段もないただの坂道だ。
道の先に、突然誰かが現れた。
ぎょっとして立ち止まる。
一見、普通の女に見えるが、その周りに瘴気が揺らめいている。魔物に取り憑かれているのだ。理性を保っているところから、彼女は自ら魔物と取引をしたようだ。
魔物信者か。
瞬間移動が出来るとは、やはり魔物は恐ろしく膨大な魔力を宿している。
「神官長さま、今度は何のご用事ですか? 私も暇ではないのですよ」
「帳簿に不備が見つかったぞ。計算が違っていた」
「あら……それは申し訳ありません」
「オニキスは私を疑っている。なんとかしろ」
「分かりました。要するに、彼がいなくなればいいのですね」
彼女はフッと姿を消す。
「あ、ちょ……なにも、殺せとまでは言っていないのに。せっかちめ。しかし、もう魔物に憑かれて三週間にもなると言っていたな。そろそろ精神まで侵食され始める頃か。焦るのも仕方のないことかもしれんな」
道を引き返しながらブツブツと一人言を言っている。
「しかし魔物信者というものは、あり得ない魔法が使えるものだ。空間を一瞬にして移動し、文字を消し、帳簿を書き替え、金庫の中身を取り出して、痕跡を残さず立ち去る。これだけのことを事も無げに出来るのだから、古参の者から消えていくはずの魔物信者がいつまでもいなくならないわけだ。魔物に取り憑かれている間は、ほんの数週間の間でも無双できる。その間に成したいことをやり遂げるのだ。――だとしたら、なぜ彼女は私に協力する? 以前彼女の身内を治療したからか? たったそれだけで貴重な残り時間を割くとは、義理堅いものだ」
神官長が石を持ち上げて外に出るさいに、スルリと横を通り抜け出す。
そして、走った。
オニキスならそう簡単にはやられないだろうが、やはり心配だ。
オニキスは手に杖を持って立っていた。
その杖は、オニキスが攻撃魔法を使うときに威力を増すために使っているものだ。腕の長さほどの、細い木の杖。
それを手にしているということは、なにかと戦ったのだ。しかし、近くには魔物の姿はないし、信者が返り討ちにあった様子もない。
「あいつは、どこへ消えた……?」
オニキスは戸惑うように辺りを見渡していた。
どこかへいなくなった?
目的を果たさずに、一体どこへ?
『魔物に精神が侵食され始める頃か――』
ふと、神官長の言葉が脳裏に浮かぶ。
そこで、はっとした。
魔物は魔力の強い姫君を狙っていたはずだ。
まさか。
湖月は猫の姿のまま城の方へ駆け出した。
――魔物が、信者を操っているとしたら。姫君が危ない!




