第十章 枢密院議長2
ティナは帳簿を閉じ、日記帳を手元に置いた。
「提案があります」
「聞こう」
「第一に、コノハさんの身柄はロッシュ辺境伯領で保護します。枢密院には返しません」
「……要求が大きいな」
「第二に、召喚政策の見直しを求めます。即時停止ではなく、まず独立した監査を行うこと。召喚者の処遇を人道的な基準で見直すこと。過去に『処分』された召喚者の記録を公式に復元し、公表すること」
「それは国家の根幹に関わる要求だ。一辺境伯令嬢に応じるものではない」
「国家の根幹に関わることを、一辺境伯令嬢に知られた時点で、状況は変わっています」
ティナの声は平坦だった。脅しではない。事実を述べているだけだ。しかし事実は、ときに脅しよりも重い。
ヴァルターは長い間黙っていた。灰色の目がティナを見つめている。値踏みするように。しかし単なる値踏みではない。何か別のものを探しているように。
「……ロッシュ嬢。一つ聞く」
「どうぞ」
「なぜ、そこまでする。聖女は赤の他人だろう。辺境伯令嬢のあなたが、枢密院を敵に回してまで守る理由は何だ」
「理由ですか」
「ああ。合理的な理由があるなら聞きたい」
ティナは少し考えた。合理的な理由。ヴァルターの言葉を借りるなら、数字で説明できる理由。帳簿に計上できる理由。
しかし――ここで数字を出す必要はなかった。
「日記帳に遺書が届いたからです」
「遺書?」
「コノハさんが最初に日記帳に書いた文章は、遺書でした。誰にも届かないと思って書いた遺書です。消えてしまう前に、自分がここにいたことを知ってほしいと。――それが届いたんです。私の日記帳に」
ティナの声が、わずかに震えた。初めて。この対峙の中で、初めて声が震えた。
「届いてしまったら、読まないわけにはいきません。読んでしまったら、知らないふりはできません。知ってしまったら、放っておけません。――合理的な理由ではないかもしれません。でも、これが私の理由です。記録が届いた。だから動いた。記録親和の持ち主として、それ以外の選択肢はありませんでした」
ヴァルターは目を閉じた。長い息を吐いた。それは諦めの息ではなく、何かを手放す息に聞こえた。
「……アネット殿に似ている」
「は?」
「三十年前。アネット殿が王都に来たことがある。凍牙の迷宮の封印について、枢密院に協力を求めに来た。あのときも、彼女は記録を持ってきた。迷宮の封印劣化の数字を並べて、対策を求めた。枢密院が動かないとわかると、一人で迷宮に向かった。……私は止めなかった。止めるべきだったのかもしれないが」
ティナは沈黙した。母が王都に来ていた。枢密院に協力を求めていた。そしてヴァルターと会っていた。三十年前に。
「あなたの母上は、記録を見たら動かずにはいられない人だった。あなたも同じだ。親子だな」
「……母に似ているのは私です。逆に言わないでください」
言ってから、ティナは自分の口癖を噛みしめた。
ヴァルターが微かに笑った。ティナが初めて見る笑みだった。鷹の目が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
「……召喚政策の見直しについて。即時停止は約束できない。この国には、異世界の脅威に対抗するための戦力が必要だ。その現実は変わらない」
「理解しています」
「しかし、運用方法の見直しは検討する。召喚者を使い捨てにしない方法。人道的な運用基準の策定。……これは、本来もっと早くやるべきだったことだ」
「もっと早く、とは」
「三十年前に。アネット殿に協力を求められたときに。あのとき動いていれば、あなたの母上は一人で迷宮に行く必要はなかった。……遅すぎた。すべてが」
ヴァルターの声に、初めて感情が混じった。後悔だ。三十年分の後悔。冷徹な合理主義者の仮面の下に、ずっと堆積していた感情。
「第三に。召喚記録の復元と公表について。これは時間がかかる。枢密院の内部にも反対勢力がある。しかし……」
「しかし?」
「記録は嘘をつかない、と言ったな。その通りだ。消した記録を復元できる人間がいる以上、隠し続けることに意味はない。……監査を受け入れる。記録の復元作業には、あなたの記録親和の力を借りたい」
「協力します。ただし、コノハさんの身柄については」
「ロッシュ辺境伯領での保護を認める。枢密院からの追跡は停止する。――これは譲歩ではなく、あの娘を消耗させ続けることの非合理性を認めた上での判断だ」
「ありがとうございます」
「礼には及ばない。……数字で殴られたのは、三十年ぶりだ」
「数字は嘘をつきませんので」
「ああ。あなたの母上も、同じことを言っていたよ」
ヴァルターが馬車に乗り込む前、ティナに一つだけ言い残した。
「ロッシュ嬢。召喚記録の復元作業を進める中で、気になるものを見つけたら報告してほしい。百年分の記録には、私も知らない情報が含まれている可能性がある」
「承知しました。……議長」
「何だ」
「お茶は、お口に合いましたか」
ヴァルターは一瞬だけ目を丸くし、それから微かに笑った。
「……悪くなかった。辺境の薬草茶も、捨てたものではないな」
黒い馬車が砂煙を上げて去っていった。護衛騎兵が後に続く。
ティナは馬車を見送り、深い息を吐いた。肩の力が抜けた。ここ数週間、ずっと張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだ。
「お前、すごかったな」
ルディが後ろから声をかけた。玄関の柱にもたれかかっている。対峙の間、隣室で待機していた。ティナが呼べばいつでも出られるように。しかし呼ばれなかった。ティナは一人で戦い、一人で勝った。
「すごくありません。帳簿が得意なだけです」
「帳簿で国家権力に勝つ人間を、俺は他に知らない」
「勝ってはいません。第一歩を踏み出しただけです。完全な勝利ではない。召喚政策はまだ続いている。見直しが約束されただけで、停止されたわけではない」
「でも一歩は一歩だ。ゼロじゃない」
「……ええ。ゼロではありません」
ティナは領主館に戻り、応接間の茶碗を片付けた。ヴァルターが使ったカップ。薬草茶は半分残っていた。飲み干してはいないが、一口は飲んだ。
ティナはそのカップを洗いながら、思った。
母が三十年前にできなかったことを、自分が今日やった。枢密院を動かすことは、母にはできなかった。ティナにはできた。それは娘が母より優れているからではない。日記帳があったからだ。母が遺した日記帳が、コノハの声を拾い、記録を守り、証拠を保存した。母の力がなければ、ティナはここに立っていない。
母が撒いた種を、ティナが育てた。そしてこれからも育て続ける。記録が消えないように。なかったことにされた人が、忘れられないように。




