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勇者のセーブデータが私の日記帳に上書きされるんですが  作者: 四宮 あおい
聖女の遺書が私の日記帳に届くんですが

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第十一章 消えない記録

 コノハがロッシュ辺境伯領で暮らし始めて、一ヶ月が過ぎた。


 最初の一週間は、ほとんど寝台の上だった。数ヶ月にわたる浄化の消耗と、栄養不足と、運動不足。身体はボロボロだった。ティナは薬草の知識を総動員し、回復のための食事と薬草茶のメニューを組んだ。朝は霜竜胆の煎じ湯。昼は月影草の温茶。夜は白鈴蘭の冷水出し。食事は少量を頻回で。ホルストのスープは薄いが消化に良いので、むしろ回復期にはちょうどいい。


 二週間目に、コノハは窓際まで歩けるようになった。窓を開け、辺境の空を見上げた。鉛色の曇り空。太陽は雲の向こうだ。しかしコノハの目には、それが世界で一番美しい空に見えた。


「空って……こんなに広かったんですね」


「辺境の空は、都会より広く感じます。建物が低いので」


「ティナさんは毎日これを見てるんですか」


「毎日見ています。十八年間、毎朝。飽きませんよ」


「飽きないですよね。……もう空が見えないかもしれないって思ったこともあったので。見えるだけで幸せです」


 三週間目に、コノハは薬草畑まで歩けるようになった。ティナに手を引かれて、ゆっくりと畑の間を歩く。月影草の白い花弁。霜竜胆の蒼い葉。冷涼な空気と、土の匂い。


「きれい……。この花、何ですか」


「月影草です。母が好きだった花です。冷涼で湿度の高い環境を好みます。霧の朝に葉を広げる姿が美しいんです」


「ティナさんのお母さんが……」


「ええ。母がこの畑を始めました。今は私が引き継いでいます」


 コノハは月影草の前にしゃがみ込み、白い花弁にそっと指先を触れた。指先は、まだ完全には色を取り戻していない。しかし一ヶ月前と比べれば格段に良くなっている。


「私にも、何かできることはありますか。ここにいるだけじゃ申し訳なくて」


「申し訳ないと思う必要はありません。ですが、もし良ければ――」


 ティナは少し考えてから言った。


「浄化能力を、薬草畑で試してみませんか。畑の一部に、土壌の汚染が進んでいる区画があります。薬草の生育が悪い。もし浄化できるなら、助かります」


「私の力で?」


「兵器としてではなく、薬草畑のために。あなたの力を、人を傷つけるためではなく、何かを育てるために使うんです」


 コノハの目が潤んだ。しかし今回は悲しみの涙ではなかった。


「……やってみたいです」


 コノハは汚染された区画の土に手をかざした。目を閉じ、集中する。手のひらから淡い光が漏れ、土に染み込んでいく。数十秒後、土の色が変わった。黒ずんでいた表面が、健康な褐色に戻っていく。


「……すごい。一目でわかるくらい違います」


 ティナは土を手に取り、指で揉んだ。水分の含有量、粒の大きさ、匂い。帳簿を読むように土を読む。


「最高の状態です。これなら来季の月影草の収穫量が大幅に上がる」


「本当ですか?」


「帳簿上の予測で前月比18パーセント増。コノハさんの浄化のおかげです」


「帳簿……。ティナさん、すぐ帳簿にしますよね」


「帳簿は万能です。薬草茶と同じくらい」



 四週間目。コノハは日常のリズムを取り戻しつつあった。朝はティナと一緒に薬草畑の手入れ。昼は領主館の手伝い。夜はみんなで食事をして、薬草茶を飲む。


 しかし「みんなで食事」の場面で、新たな問題が浮上した。


「コノハさん、私が配膳しますから座っていてください」


「ティナさんこそ座っていてください。帳簿が終わってないでしょう。私がやります」


「あなたはまだ回復期です。重いものを持たないで——」


「お鍋くらい持てます。それよりティナさんが寝不足なのが心配です」


「私は寝不足ではありません。帳簿が長引いただけです」


「帳簿で寝不足になるのは寝不足です」


 ルディがテーブルの端で頭を抱えた。


「二人とも座ってろ。俺がやる」


「ルディさんは味つけが雑なので——」


「ルディさんの盛りつけは量が多すぎて——」


「二人がかりで俺を批判するのはやめてくれ」


 ホルストが「ふむ」と笑った。


「賑やかだな。母さんがいた頃を思い出す。あのときも台所で三人が言い合いをしていたものだ。母さんと、隣村のおばさんと、若い頃のわしだ。結局わしが追い出されてな」


「父上は今も台所から追い出されているでしょう。味つけが薄いので」


「ふむ。改善の見込みはない」


 この穏やかな食卓の光景を、ティナは心の中に記録した。日記帳には書かない。書かなくても、覚えている。記録親和の力は、大切なものを忘れさせない。



 ルディとコノハの関係も、少しずつ形になっていった。


 同じ「元日本人」として共有できる話題がある。しかしその共有は、大げさなものではなかった。


 朝、井戸水で顔を洗ったあと。


「ルディさん。こっちの世界って、蛇口がないのが一番不便じゃないですか」


「わかる。蛇口ひねれば水が出るのがどれだけありがたかったか」


「冬は特に。お湯が出ないのが辛い」


「それな。給湯器の偉大さを転生して初めて知った」


 夕方、薪割りを手伝いながら。


「ルディさん。前の世界で一番好きだった季節は」


「秋かな。紅葉がきれいで、空気が澄んでて。あと、秋限定のスイーツが出るから」


「……最後の理由が本音ですね」


「否定はしない」


 夜、薬草茶を飲みながら。


「雨の日のアスファルトの匂い。覚えてますか」


「覚えてる。……こっちの世界にはアスファルトないから、嗅げないけどな」


「嗅げないけど、覚えてます。たぶんずっと忘れない」


「……ああ。俺もだよ」


 大げさなものではない。小さな記憶の共有。自販機の温かい缶。冬の朝の布団の中。雨上がりの匂い。前の世界に置いてきた、ごく普通の日常の欠片。


 コノハにとってルディは「先輩」だった。この世界で先に生きてきた人。前の世界の記憶を共有できる、唯一の人。ルディにとってコノハは「後輩」であり、初めて「守る責任」を感じる相手だった。ティナに対しては、ティナのほうが強いので守る必要を感じないことも多い。コノハに対しては、素直に「この人を守りたい」と思える。


「ルディさん」


「ん?」


「ティナさんに出会えてよかったですね」


「……いきなり何だよ」


「日記帳の文通を読んでたんです。ティナさんが保存してくれてた分。ルディさんのセーブデータの愚痴、全部読みました」


「全部読んだのか。恥ずかしいな」


「恥ずかしくないですよ。むしろ、あの愚痴があったから、ティナさんはルディさんのことを知れたんですよね。本音を書いていたから」


「まあ……そうだけど」


「私も遺書を書いてよかったです。あの遺書がなかったら、ティナさんには出会えなかった。記録することって、大事なんですね」


「……ああ。ティナがいつも言ってる。記録するということは忘れないということだって。あいつの母さんの言葉らしいけど」


「素敵な言葉ですね」


「ああ。素敵だよ。……ティナには言わないでくれよ。照れるから」


「言いません。でも記録はしておきます」


「お前まで記録するのかよ」


「ティナさんの影響です」



 ~~~ 



 それぞれの後日談が、日々の中に織り込まれていった。


 シーラは第二部の研究成果を論文にまとめた。正式タイトルは「異世界転移者の浄化親和と記録親和の相互干渉に関する考察」。通称は——「聖女救出論文」。ティナは手紙で苦情を入れた。「通称を変えてください。救出ではなく保護です」。シーラの返事は「却下します。学術的に正確な通称です。それと、前作の通称は『勇者と令嬢のラブレター論文』のままで変更ありません」だった。ティナは二通目の苦情を書くのを諦めた。


 アンドレイは軍の内部改革に着手していた。「召喚者の処遇改善に関する提言書」を騎士団長に提出。「勇者を含む召喚者を、消耗品としてではなく協力者として扱うための制度設計」を提言している。受理されるかどうかはまだわからないが、提出したこと自体が一歩だ。


 ルディに宛てた手紙には、こう書いてあった。「ルディ君。提言書を出した。受理されるまで何年かかるかわからないが、出さないよりはましだ。――猫は五匹に増えた。もう隠し通すのは不可能だが、騎士団長も見て見ぬふりをしてくれている。猫の外交力は人間以上だ」


 ユーリアは辺境に残っていた。枢密院には辞表を送った。帰る場所は、当面はロッシュ辺境伯領だ。コノハの回復を見守りながら、ティナの帳簿仕事を手伝っている。事務処理能力が高いので、ティナは素直に助かっていた。


「ユーリアさん。この計算、合っていますか」


「合っています。ただ、三行目の端数処理が四捨五入ではなく切り捨てになっています」


「……あ。本当だ。ありがとうございます」


「枢密院では端数処理を間違えると始末書でしたので。癖になっています」


「厳しい職場ですね」


「ええ。……でも、ここの帳簿のほうが楽しいです。数字の先に、人の暮らしが見えるから」


 ティナはその言葉を聞いて、少しだけ嬉しくなった。帳簿を「楽しい」と言ってくれる人が、父以外にもいた。


 ティナの召喚記録復元プロジェクトも進んでいた。枢密院との交渉で約束された「召喚政策の監査」に、記録親和の力で協力する。過去百年分の召喚記録を復元し、「なかったことにされた人々」の存在を公式記録に残す作業。


 地道な仕事だ。劣化した古文書を一枚一枚読み取り、消された文字を復元し、日記帳に写し取る。一日に処理できる量には限りがある。記録親和の力にも体力の限界はある。しかしティナは毎晩、数ページずつ進めていった。


「急ぐ必要はありません。記録は逃げませんから」


 そう自分に言い聞かせながら。しかし心の奥では、一日でも早くすべての名前を復元したいと思っていた。なかったことにされた人たち全員の名前を、日記帳に刻みたい。


 ある夜、帳簿仕事を終え、日記帳に今日の出来事を書いた。



「今日の出来事。薬草の収穫量が前月比18パーセント増。コノハさんの浄化のおかげ。

 ルディさんが水やりの量をようやく完璧に覚えた。添削の必要なし。

 父上は相変わらず窓を開けたまま寝ている。これだけは改善の見込みがない。

 ユーリアさんが帳簿の端数処理を指摘してくれた。事務能力の高い人がいると助かる。

 コノハさんが月影草の前で笑っていた。笑顔が増えている。記録しておく。


 ――追記。今日は誰も死ななかった。誰も消耗品にされなかった。

 当たり前のことが、当たり前であることの、なんと幸せなことか。


 記録完了。添削の必要なし」




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