第十章 枢密院議長1
ロッシュ辺境伯領に戻ったのは、王都を発ってから三日目の夕刻だった。
馬車が領主館の前に止まったとき、ホルストが玄関で待っていた。杖をついて、のんびりした顔で。しかし目の奥には、普段は見せない鋭さが光っていた。娘の帰りを、ただ待っていただけではない。何かを覚悟して待っていた目だ。
「おかえり、ティナ」
「ただいま帰りました、父上」
「ふむ。客が増えたな」
ホルストの視線が、馬車から降りてきた面々を順に捉えた。ルディ。シーラ。アンドレイ。ユーリア。そして――ルディに支えられて、ゆっくりと地面に足を下ろす、白い聖衣の少女。
「ふむ。聖女殿か」
「父上、なぜ知っているんですか」
「お前の日記帳が光っていたからな。光り方がいつもと違った。新しい客が来ると見当はついていた。――それと、スープを作っておいた。たぶん薄いが」
「……ありがとうございます、父上」
コノハは領主館を見上げた。石造りの質素な屋敷。壁にひびが入り、東の窓枠は歪んでいる。王都の聖堂とは比べものにならないほど小さく、古い。
しかしコノハの目には、涙が浮かんでいた。
「……窓がある」
小さな呟き。ティナだけに聞こえた声。
「窓があります。好きなだけ開けてください。――ただし、開けたまま寝ると風邪をひきますので、閉めてから寝てください。父上がそれを守れない人なので」
「ふむ。聞こえているぞ、ティナ」
ホルストはのんびりとコノハの前に進み出た。大柄だが猫背気味の壮年。穏やかな目元がティナとよく似ている。コノハを見下ろし、白い指先を見て、痩せた頬を見て、それから微笑んだ。
「ようこそ、聖女殿。……いや」
ホルストはコノハの顔を覗き込んだ。
「名前は何というのかね」
「……糸井、好葉です。コノハ、と」
「コノハ殿か。遠いところからよく来たな。うちは辺境の田舎で、たいしたものはない。スープは薄いし、壁にはひびが入っているし、領主は窓を閉め忘れる。だが、まあ、居場所くらいはある。好きなだけいなさい」
コノハの目から涙がこぼれた。止まらなかった。ホルストは何も言わず、大きな手でコノハの頭をぽんと撫でた。十八歳の娘にするのと同じ仕草で。
「泣いていいぞ。うちの娘は帳簿で泣く女だが、普通の人間はスープで泣くものだ。さあ入りなさい。温かいうちに」
コノハを客間に案内し、着替えと食事を済ませた。ホルストのスープは案の定薄かったが、コノハは三杯おかわりした。「おいしいです」と言った。ティナは「味覚が正常かどうか心配です」と言ったが、本心では父のスープを三杯飲んでくれたことが嬉しかった。
ティナの薬草茶も淹れた。今度は時間をかけて、丁寧に。蒸らし時間を正確に守り、温度を見極め、最高の一杯を。コノハは両手でカップを包み、目を閉じて香りを吸い込んだ。
「……温かい」
「当たり前です。温かいのが薬草茶の基本です」
「苔のお茶は冷たかったので。温かいお茶、久しぶりです」
「これからは毎日飲めます。朝と夜。二杯ずつ」
「四杯も飲んでいいんですか」
「三杯でしたが、あなたの場合は体力回復のために四杯を許可します。ただし五杯目は駄目です」
「……ティナさんは、やっぱり優しいのか厳しいのかわからないです」
「どちらでもありません。合理的なだけです」
ルディが横から「また言ってる」と呟いた。コノハが小さく笑った。笑顔が増えている。地下室にいた頃の文面からは想像できないほど。
しかしティナは知っている。これは始まりに過ぎない。コノハを連れ出しただけでは、何も解決していない。枢密院は追ってくる。ヴァルターが黙っているはずがない。
その予感は、正しかった。
コノハの帰還から五日後。
ロッシュ辺境伯領の街道の向こうに、黒い馬車が現れた。紋章つき。枢密院の公式車両。護衛騎兵が四騎。
ティナは薬草畑から黒い馬車を見つめた。来た。予想通りに。予想通りの速さで。
馬車から降りたのは、白髪の痩身の老人だった。鷹のように鋭い灰色の目。常に黒い正装。笑顔を見せることが極端に少ない顔。
ヴァルター・オルデンブルク。枢密院議長。みずから辺境まで来た。
ティナは泥のついた手を井戸水で洗い、エプロンを外し、領主館の玄関でヴァルターを迎えた。宮廷ドレスは着ていない。いつものエプロンドレスを脱いだだけの、簡素な服装。
仮面はかぶらない。ここは辺境だ。ティナの土俵だ。
「ヴァルター議長。遠路はるばるお越しいただきまして」
「ロッシュ嬢。……単刀直入に言おう。聖女を返していただきたい」
「お茶を淹れますので、まず座ってください」
「お茶は――」
「座ってからです」
ティナの声は穏やかだったが、譲る気配がなかった。ヴァルターは微かに目を細め、しかし逆らわなかった。応接間に通され、椅子に座った。
ティナは薬草茶を淹れた。二つのカップ。一つをヴァルターの前に、一つを自分の手元に。
向かい合って座った。辺境伯令嬢と枢密院議長。応接間の窓から、辺境の鉛色の空が見えた。
「改めまして。聖女コノハを返還していただきたい。彼女は王国の資産であり、枢密院の管理下にある。あなたがたの行為は、国法に照らして誘拐に該当する」
ヴァルターの声は穏やかだった。しかしその穏やかさの下に、鋼がある。王都の面会のときと同じだ。この人は声で相手を支配する。穏やかであればあるほど、その言葉は重い。
「誘拐ですか」
「そうだ。枢密院の管理施設から許可なく被管理者を連れ出した。これは重大な法律違反であり、辺境伯家の地位をもってしても看過できるものではない」
「なるほど。法律違反ですか」
ティナは茶をすすった。味を確認するように。ゆっくりと。
「では、法律の話をしましょう。ヴァルター議長。枢密院は、コノハさんを『管理対象』と呼びましたね」
「聖女は国家資源だ。浄化能力は王国にとって――」
「数字で話しましょう。議長は数字がお好きでしょう」
ヴァルターの言葉を遮った。ティナの声は穏やかだが、鋼が入っている。ヴァルターと同じ質の硬さ。
「聖女の浄化能力は国家資源だ、とおっしゃいました。経済的価値があると。では計算しましょう」
ティナは鞄から帳簿を取り出した。いつもの帳簿用罫線紙に、数字がびっしりと書き込まれている。
「コノハさんの浄化記録を、私は日記帳で受信し、分析しました。一回の浄化による体力消耗は推定15〜20パーセント。一日三回の浄化を常態化させた場合、回復が追いつかず、蓄積消耗が発生します。私の計算では、現在のペースが続いた場合、コノハさんの身体は二ヶ月で限界を迎えます」
「二ヶ月という数字は、あなたの推定に過ぎない」
「推定ではなく、データに基づく予測です。コノハさんが毎日報告してくれた浄化後の症状を、三週間分時系列で分析した結果です。回復速度の低下率、体温低下の進行速度、新規症状の出現頻度。すべてのデータが一致して、二ヶ月を指しています」
ティナは帳簿のページをめくった。
「つまり、議長。あなたの経済効果は最長でも二ヶ月しか持ちません。二ヶ月後、コノハさんが限界を迎えたら、浄化能力はゼロになります。経済効果もゼロです。そこでまた新しい聖女を召喚するおつもりですか」
「……それは仮定の話だ」
「仮定ではなく帳簿の話です。召喚のコストを計算しましょう。枢密院の召喚記録によれば、過去百年間で四十七名の異世界召喚が行われています。そのうち召喚時に定着に失敗して死亡した例が十五名。三人に一人が召喚時に死にます。これが『コスト』です」
ヴァルターの灰色の目が、初めて鋭くなった。
「……召喚記録を、どこで手に入れた」
「記録は嘘をつきません」
ティナは鞄から日記帳を取り出した。古い日記帳。母の形見。消えない文字が刻まれた、記録親和の魔導具。
ページを開いた。四十七名の名前が並んでいる。召喚日、恩寵、任務、そして結末。ティナの丁寧な筆跡で、一人一人の記録が正確に写し取られている。
「百年分の召喚記録です。あなたが消した記録を、私の日記帳は覚えています。百年分、全員の名前を」
ヴァルターが沈黙した。
長い沈黙だった。応接間の壁時計が時を刻む音だけが響いている。窓の外では風が鳴っている。辺境の風。
「……記録親和の力は、消された記録も復元するのか」
「はい。完全に消えた記録の残留魔力から、元の文字を復元できます。枢密院のインクは良質ですが、魔力の痕跡までは消せません」
「アネット殿も、同じことができたのか」
「母については知りません。しかし母がこの日記帳を作ったのは、記録を守るためです。母の言葉を借りるなら――記録するということは、忘れないということです。世界のすべての痛みと喜びを覚えておける力です」
ヴァルターは茶碗に目を落とした。薬草茶の水面が、微かに揺れている。
「ロッシュ嬢。その記録を、どうするつもりだ」
「使い方は、議長のお答え次第です」




