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勇者のセーブデータが私の日記帳に上書きされるんですが  作者: 四宮 あおい
聖女の遺書が私の日記帳に届くんですが

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第九章 聖女奪還2

 通路を戻る。


 ルディがコノハの腕を支え、半ば引きずるように歩く。コノハは壁に手をつきながら、必死に足を動かしている。しかし歩みは遅い。数ヶ月の幽閉と浄化の消耗で、筋力が著しく低下している。


「ペースが遅い。このままでは十五分に間に合いません」


 ティナが時間を計算しながら言った。冷静な声。しかし内心では焦りが燃えている。計画通りに行かない。想定よりコノハの衰弱が深刻だ。


「背負う」


 ルディが言い、コノハを背中に乗せた。コノハは「すみません」と小さく言い、ルディの首に腕を回した。ルディは走り始めた。鎧の足音が通路に響く。


「足音を抑えてください」


「無理だ。鎧だぞ」


「靴を脱いでください」


「石の床を裸足で走るのか」


「走れます。あなたはダンジョンで素足で戦ったことがあるでしょう。セーブデータに書いてありました」


「あれは事故だ! 靴が凍りついて脱いだだけで——」


「事故でも結果的に走れたなら問題ありません」


 ルディは観念して靴を脱いだ。裸足で石の床を駆ける。足音は格段に静かになった。しかし冷たい。石の床が氷のように冷たい。


「冷たい……」


「我慢してください。薬草茶で温めますから」


「足を温める薬草茶ってあるのか」


「あります。霜竜胆の足湯です。帰ったら用意します」


 階段を駆け上がる。一階分。二階分。三階分。


 地下一階の通路に出たとき——足音が聞こえた。


 前方。来た道の先から。規則正しい足音。二人分。巡回の警備兵だ。


「交代が早い」ユーリアが囁いた。「いつもより五分早い。ヴァルター議長の指示で、スケジュールが変わっている」


「五分早い。……十分しかない」


 ティナの計算が高速で回った。今の位置から出口まで約三分。しかし前方に警備兵がいる。迂回する余裕はない。


「シーラさん」


「はい。——二人ですね。射程内です」


 シーラが前に出た。通路の角から身を乗り出し、前方を確認する。二人の警備兵が松明を持って歩いてくる。距離は約二十歩。


 シーラが羊皮紙を取り出した。術式が刻まれた紙。睡眠魔法の触媒。


 しかし、その前にティナが動いた。


「待ってください、シーラさん」


「え?」


 ティナが通路の角から出た。堂々と。隠れるのではなく、表に出た。


「何を——」


 ティナは警備兵に向かって歩いていった。背筋を伸ばし、宮廷ドレスではないが辺境伯令嬢としての佇まいで。


「失礼いたします。私はロッシュ辺境伯家のティナ・ロッシュです。枢密院議長ヴァルター閣下との面会のため、先日王都に参りました。道に迷ってしまったようです。出口はどちらでしょうか」


 警備兵二人が足を止めた。松明の光がティナの顔を照らす。


「ロッシュ……辺境伯家? ここは関係者以外立入禁止です。どうやって入ったんですか」


「枢密院の方にご案内いただいたのですが、はぐれてしまいまして。申し訳ございません。お手数ですが出口まで教えていただけますと助かります」


 ティナの声は完璧だった。困惑した令嬢の声。しかし卑屈ではなく、あくまで「高位の人間が丁寧に頼んでいる」という体裁を保っている。


 警備兵は互いに顔を見合わせた。「辺境伯」の肩書きは、末端の兵士にとっては十分な権威だ。追い返すべきか、案内すべきか、判断に迷っている。


 その迷いの間に——シーラが背後から睡眠魔法を発動した。


 二人の警備兵がほぼ同時に崩れ落ちた。松明が石床に転がり、炎が小さく揺れた。


「……五秒で良かったのですが、十秒稼いでくれましたね。助かりました」シーラがティナの隣に来て言った。


「五秒では短すぎると思ったので。時間を稼ぐなら、言葉が一番確実です」


「辺境伯令嬢を名乗って足止めするとは。度胸がありますね」


「度胸ではありません。合理的な判断です。辺境伯の名前は通行証として機能します。ここで使わなければいつ使うんですか」


 ルディが後ろから追いついた。背中にコノハを背負ったまま。


「お前、今何した」


「時間を稼ぎました。行きましょう。あと七分です」


 五人は再び走り始めた。倒れた警備兵を跨ぎ、通路を抜け、階段を上る。


 地上階。聖堂の裏手の通用口が見えた。ユーリアが鍵を開ける。扉が開く。夜の空気が流れ込んできた。外の空気。閉じ込められていない空気。


 コノハがルディの背中で、小さく息を呑んだ。


「……外だ」


 その二文字に、何ヶ月分もの重みが込められていた。窓のない地下室で過ごした日々。石の壁と石の天井しか見えなかった日々。空を見ることすらできなかった日々。


 今、目の前に夜空が広がっている。星が見える。月が見える。風が吹いている。


「コノハさん。外です。出ましたよ」


 ティナが言った。


「……はい。……はい」


 コノハの声が震えていた。泣いているのだろう。しかし暗くてよく見えない。見えなくていい。今は泣いてもいい。後で、温かいお茶を飲みながら、ゆっくり泣けばいい。


「走ります。馬車まであと三本の通り」


 ルディがコノハを背負ったまま走った。裸足で。石畳が冷たいが、構わない。ティナとユーリアとシーラが後に続く。


 路地を抜け、小さな広場を横切り、もう一本路地を曲がる。


 馬車が見えた。アンドレイが御者台に座っている。金髪をフードで隠しているが、翡翠色の目が闇の中で光った。


「来たか。乗れ」


 全員が馬車に乗り込んだ。アンドレイが手綱を引く。馬が歩き出し、やがて走り出す。蹄の音が石畳に響く。


 馬車の中は暗かった。窓から入る月明かりだけが、五人の顔を照らしている。


 コノハはルディの隣に座り、壁にもたれかかっていた。目を閉じている。しかし眠っているのではない。外の空気を、全身で感じている。馬車の揺れ。夜風の匂い。人の体温。何ヶ月もなかったものが、すべて一度に戻ってきている。


 ティナはコノハの向かい側に座り、鞄から水筒を取り出した。中には温かい薬草茶が入っている。出発前に淹れておいたものだ。


「コノハさん。薬草茶です。温かいですよ」


 コノハは目を開けた。黒目がちの大きな目に、涙の跡が光っている。


「……温かい、お茶……」


「はい。苔のお茶とは違います。私が淹れた薬草茶です。飲んでみてください」


 コノハは水筒を受け取った。両手で包み込むように持った。温かい。手のひらに温度が伝わる。白くなっていた指先が、ほんの少しだけ、色を取り戻した気がした。


 一口飲んだ。


「…………おいしい」


「当たり前です。私が淹れたんですから」


 コノハの目から、また涙がこぼれた。今度は止めなかった。温かいお茶を飲みながら、静かに泣いた。


 ユーリアが横で、同じように涙を流していた。声は出さなかった。ただ、コノハの隣に座って、震える手でコノハの肩に触れた。三年間、管理対象として扱ってきた手で。初めて、人間として触れた。


「……ユーリア、さん」


「……ごめんなさい。遅くなって」


「遅く、ない。……来てくれた」


 シーラはメモ帳を取り出そうとして、やめた。今夜だけは、記録より人間を優先する。学者の矜持は明日から再開する。


 馬車は夜の王都を走り抜け、城門を通過した。アンドレイの騎士団通行証が効いた。「勇者の護送任務」という名目。門兵は通行証を確認し、馬車を通した。


 城壁の外に出た。星空が一面に広がった。辺境に比べれば少ないが、城壁の中よりは遥かに多くの星が見える。


 ティナは窓から空を見上げた。


「ここからロッシュ領まで三日です。急ぎます」


「三日か。……長いな」ルディが呟いた。


「長いですが、大丈夫です。薬草茶は三日分あります」


「お前の優先順位、薬草茶だな」


「薬草茶は万能です。体力を回復し、精神を安定させ、人と人を繋ぎます。これ以上合理的な道具はありません」


 コノハが水筒を両手で抱えたまま、小さく笑った。笑ったのだ。何ヶ月ぶりかの笑顔。地下室の中では一度も笑えなかった。


「ティナさん」


「はい」


「ありがとうございます。……あと、お茶、おかわりもらっていいですか」


「もちろんです。ただし三杯までです」


「苔のお茶のときと同じですね」


「薬草茶も飲みすぎは胃に負担がかかります。二杯目は明日の朝に」


「……はい」


 馬車は夜道を走り続けた。


 星空の下を。自由な空気の中を。温かいお茶の匂いとともに。




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