第九章 聖女奪還1
日暮れ。
王都の空が茜色から紫紺に変わっていく。街路の灯りが一つずつ点り、人々の往来が減っていく。昼間の喧騒が引き潮のように退いて、夜の静寂が街を覆い始める。
聖堂北側の裏路地。
石壁に囲まれた狭い路地に、五つの影が集まっていた。
ティナ。動きやすい暗色の旅装。腰にはいつもの薬草ポーチ。背中の革鞄には日記帳と攻略記録のノート。髪は実用的にまとめてある。宮廷ドレスの令嬢の面影はない。帳簿と薬草茶のティナ・ロッシュに戻っている。
ルディ。黒い軽装鎧。腰に剣。ただし今夜の剣は「振るうためのもの」ではなく「振るわずに済ませるためのもの」だ。「殺さない」が大前提。マフラーは首に巻いてある。ティナが「大切なものは身につけておいたほうがいい」と言ったからだ。
シーラ。いつもの長ローブにインクまみれの袖。ただし今夜はローブの下に魔導器具を複数忍ばせている。睡眠魔法の術式を事前に刻んだ羊皮紙が三枚。幻影魔法の触媒となる水晶が二つ。メモ帳とペンも持っている。「記録は学者の義務です」と言い張ったが、ティナに「今夜は記録より魔法をお願いします」と釘を刺された。
アンドレイ。軍服ではなく平服。目立たない灰色の外套をまとっている。翡翠色の目だけが、闇の中で光っている。彼の役割は外部支援。聖堂から三本先の通りに馬車を待機させている。脱出後の撤退路も確保済み。
そしてユーリア。枢密院の制服の上からフード付きの外套を羽織っている。手には物理鍵。顔は蒼白だったが、碧眼は据わっていた。三年間の沈黙を破る夜。
「全員揃いましたね」
ティナが小声で言った。声は静かだが、明瞭だった。
「計画を最終確認します。ユーリアさんが先導して聖堂地下への入口まで案内。入口の鍵はユーリアさんが開錠。地下三階まで降りたら、シーラさんが監視用の魔導器具を無力化。通路を進み、コノハさんの部屋に到達。鍵を開け、コノハさんを連れ出す。脱出は来た道を逆に辿り、聖堂の外へ。外ではアンドレイ師団長の馬車が待機。所要時間は十五分以内」
「十五分。警備の交代が完了するまでの空白時間。これを超えると、新しい巡回が始まります」ルディが確認した。
「その通りです。時間厳守。遅れは許容されません」
「了解」
全員が頷いた。
「では——合言葉を」
「添削完了」
五つの声が小さく重なった。ルディだけ少し遅れた。
聖堂の裏手に、職員用の通用口がある。ユーリアがその扉に鍵を差し込んだ。かちりと音がして、扉が開く。
「こちらです。階段を降ります。三階分です」
石の階段。灯りは壁に嵌め込まれた魔石の淡い光だけ。足元が暗い。ティナは壁に手をつきながら、慎重に階段を降りた。
凍牙の迷宮を思い出した。あのときは氷の通路だった。今度は石の階段。ダンジョンと聖堂の地下では空気が違う。冷たさの質が違う。ダンジョンの冷たさは自然のもので、どこか清冽だった。ここの冷たさは人工的だ。閉じ込められた空気の冷たさ。窓がない場所の冷たさ。
コノハはこの空気の中で、何ヶ月も過ごしていたのだ。
地下三階。通路が南北に延びている。壁は石造りで、等間隔に扉が並んでいる。すべて同じ作りの、無機質な扉。
「シーラさん」
「了解です」
シーラが壁に手を当てた。魔導器具の魔力パターンを探る。数秒後、壁の隅に埋め込まれた小さな水晶――監視用の魔導器具――を見つけた。
「ここと、あそこ。二箇所です。無力化しますね」
シーラが術式を唱えた。声は出さない。唇だけが動く。羊皮紙に刻まれた術式が光り、水晶の光が消えた。監視が途切れた。
「完了。有効時間は約二十分。余裕はあります」
「ありがとうございます。先に進みます」
ユーリアが通路を歩き始めた。歩き慣れた足取り。三年間、毎日通った道。コノハの部屋まで、数えるまでもなく体が覚えている。
通路の奥から三番目の扉の前で、ユーリアが立ち止まった。
「ここです」
ティナは扉を見た。分厚い木の扉。鉄の蝶番。二重構造の鍵。この扉の向こうに、コノハがいる。日記帳の文字でしか知らなかった人間が、この扉の向こうで待っている。
ユーリアが外鍵を差し込んだ。かちり。次に扉に手を当て、魔力を込めた。内鍵の魔導式が反応し、低い振動とともに解除された。
扉が、開いた。
小さな部屋だった。
石の壁。石の床。石の天井。窓はない。寝台が一つ。水差しが一つ。壁の隅に、浄化用の道具が置かれた棚。壁の一部に、淡い緑色の苔が生えている。コノハが日記帳で報告していた、あの苔だ。
寝台の上に、白い聖衣をまとった人影があった。
コノハは起き上がっていた。扉が開く音で目を覚ましたのか――いや、眠っていなかったのだろう。今夜、来ると言ったのだから。待っていたのだ。扉が開くのを。
黒髪のセミロング。大きな黒目がちの目。小柄で華奢。聖衣はボロボロに汚れ、至るところがほつれている。顔は蒼白で、頬がこけている。しかし――目だけは、生きていた。
ティナはコノハの目を見た。
日記帳の文字が、目の前で人間になった。遺書を書いていた人。苔のお茶を三杯飲もうとした人。ユーリアの咳を心配していた人。自販機のホットココアを懐かしんでいた人。名前で呼んでほしいと言った人。
「あなたが……ティナさん?」
コノハの声は小さかった。掠れていた。しかし確かに、ティナの名前を呼んだ。
「はい。迎えに来ました」
ティナは一歩、部屋に踏み込んだ。
「――遺書は、まだ早いと言ったでしょう」
コノハの目から涙がこぼれた。拭おうとしたが、手が震えて届かなかった。
「……来て、くれたんですね。本当に」
「本当に来ました。計画通りに。――立てますか?」
「立てます。……たぶん」
「たぶん、は不合格です。正確に」
「……壁に手をつけば、立てます」
「それで十分です。壁がなくなったら、ルディさんがいます」
ルディが扉の外から顔を出した。コノハと目が合った。
「よう。ルディ・グラヴナーだ。日記帳で話してた」
「ルディ……さん」
「立てるか」
「はい。……あの、思ったより背が高いんですね」
「文面からどんな想像してたんだ」
「もう少し小さい人かと……愚痴が多かったので」
「愚痴と身長は関係ないだろ」
ティナが割り込んだ。「会話は後です。移動してください。時間がありません」
「了解」
ルディがコノハの腕を支えた。コノハは立ち上がろうとして、膝が折れた。ルディが片腕で支える。
「……すみません」
「いい。掴まれ」
「重くないですか」
「お前は軽すぎる。帰ったらティナの飯を食え。太れ」
「ルディさん、太れは失礼です」
「事実だ。俺もここに来たとき、お前に同じこと言われただろ」
「言っていません。栄養が足りていないと言っただけです」
「同じだろ」
ユーリアが後ろで、コノハの姿を見つめていた。三年間管理してきた「聖女」が、名前で呼ばれて、冗談を言い合う人間として扱われている。ユーリアの碧眼に、また涙が浮かんだ。しかし今は泣いている場合ではない。手で目を拭い、声を出した。
「通路は来た道を戻ります。階段を上がって三階分。私が先導します」
「お願いします。シーラさん、後方警戒を」
「了解です」




