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勇者のセーブデータが私の日記帳に上書きされるんですが  作者: 四宮 あおい
聖女の遺書が私の日記帳に届くんですが

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第七章 沈黙1

 二度目の茶館は、三日後だった。


 ティナは同じ時間に、同じ席に座った。偶然が二回続けば、三回目は約束になる。しかしまだ約束にはしない。偶然の顔をして、自然に距離を詰める。


 ユーリアは前回と同じ壁際の席にいた。同じようにパンをちぎり、同じように窓の外を見つめている。しかし今日は、ティナが茶館に入ったとき、視線がほんの一瞬だけこちらに動いた。気づいている。来ることを予期していた。


「お隣、よろしいですか」


「……どうぞ」


 前回より一拍早い承諾だった。些細な差だが、ティナは見逃さない。警戒が一段階下がっている。


 最初の十分は前回と同じように世間話をした。辺境の薬草の話。王都の天気の話。ティナは意図的に、自分のことを多めに話した。信頼を得るには、まず自分を開示する必要がある。帳簿の交渉と同じだ。相手に情報を求める前に、こちらから情報を出す。


「辺境伯領では薬草の売上が収入の大半を占めているのですが、街道の橋が老朽化していまして。商人が迂回するので出荷量が落ちるんです。修繕費の捻出が毎年の課題で」


「……大変ですね」


「ええ。帳簿と格闘する日々です。でも、数字は嘘をつきませんから。問題がわかれば対策は立てられます」


 ユーリアの碧眼が、わずかに揺れた。「数字は嘘をつかない」。その言葉に反応した。何の数字を思い浮かべたのだろう。コノハの浄化回数か。体力の消耗度か。残された時間か。


 ティナは茶をすすり、何気ない口調で言った。


「ユーリアさん。あなたは、お仕事で誰かの世話をされているんですか?」


 ユーリアの手が止まった。パンをちぎる動作が中断された。碧眼がティナを正面から見た。


「……なぜ、そう思うんですか」


「あなたの手を見ていました。パンをちぎるとき、とても丁寧にちぎりますね。小さく、均等に。誰かに食べさせるときの癖です。自分のためだけに食べる人は、そんなに丁寧にちぎりません」


 ユーリアの唇が微かに震えた。


「……観察力がおありですね。辺境伯令嬢は」


「帳簿を毎日読んでいると、数字の裏にあるものが見えるようになります。人の手の動きも同じです」


 沈黙。茶館の中で、他の客の話し声がくぐもって聞こえる。


 ティナは時期を見計らった。ここからが本題だ。しかし急いではいけない。相手のペースに合わせる。帳簿の交渉で、こちらから値段を言うのは最後だ。


「ユーリアさん。失礼なことを聞くかもしれません。答えたくなければ、答えなくて結構です」


「……何でしょう」


「あなたは今のお仕事を、好きですか」


 ユーリアの碧眼が凍った。文字通り凍った。表情が消え、感情がシャッターのように閉じた。枢密院の管理官としての仮面が、瞬時に戻った。


「仕事に好き嫌いは関係ありません。与えられた職務を遂行するだけです」


「そうですか。……私もそう思っていました。領地の経営を好きかどうかなんて、考える余裕もなかった。やるしかないからやっていた。好きか嫌いかは、問いかけることすら贅沢だと思っていました」


 ティナの声は穏やかだった。責めているのではない。共感しているのだ。自分も同じだった、と伝えている。


 ユーリアの仮面に、微かなひびが入った。碧眼の奥で、何かが揺れている。


「……ロッシュ嬢は、お母上を早くに亡くされたと」


「はい。十年前に。それから領地のことは、すべて私がやっています」


「十年……。お若いのに」


「若いとか年齢の問題ではなく、他に誰もいなかっただけです」


「……そうですね。他に誰もいない。それは……よくわかります」


 最後の一言が、ユーリアの口調から事務的な硬さが抜けた瞬間だった。「よくわかります」。それは枢密院の管理官としてではなく、一人の人間として発せられた言葉だった。


 ティナはもう一歩だけ踏み込んだ。


「ユーリアさん。一つだけ聞きます」


 声を落とした。茶館の他の客に聞こえないように。しかしユーリアには届くように。


「コノハさんは、元気ですか」


 時間が止まった。


 ユーリアの顔色が変わった。血の気が引き、碧眼が見開かれた。茶碗を持つ手が、はっきりと震えた。


「……聖女、と呼んでいただけますか。個人名は使用が制限されて——」


「コノハさん、です。彼女には名前があります。私は名前で呼びます」


 ティナの声は静かだったが、譲る気配がなかった。


 ユーリアは数秒間、ティナの目を見つめた。碧眼の中で、複数の感情が渦巻いている。恐怖。警戒。驚愕。そして――何か別のもの。ティナがそれを識別するより先に、ユーリアの目が伏せられた。


 長い沈黙。茶館の壁掛け時計が、コチコチと時を刻む音だけが聞こえる。


 やがて、ユーリアが口を開いた。小さな声で。ほとんど囁きに近い声で。


「……元気では、ありません」


 ティナは頷いた。


「知っています」


「……なぜ。どうやって」


「日記帳です。コノハさんの記録が、私の日記帳に届いています。二週間以上前から」


 ユーリアの目が再び見開かれた。今度は恐怖ではなく、純粋な驚愕だった。


「記録が……届いている? 外部に?」


「はい。彼女が毎日何回浄化させられているかも、体調が悪化していることも、指先の感覚がなくなっていることも、鼻血が出たことも。全部読んでいます」


 ユーリアの手が、テーブルの下で握りしめられた。白くなるほど強く。


「……あの子は……コノハは、あなたに助けを求めていたんですか」


「最初は遺書でした。誰にも届かないと思って書いた、遺書です。それが私の日記帳に届いた」


「遺書……」


 ユーリアの声が掠れた。顔を伏せた。肩が微かに震えている。


「私は……見ていました。毎日、あの子が消耗していくのを。体が冷たくなっていくのを。指先が白くなっていくのを。――見ていて、何もしなかった」


「何もしなかったわけではないでしょう。三日前、浄化の回数を二回に減らしましたね。コノハさんから聞いています」


 ユーリアが顔を上げた。驚きと、そしてわずかな当惑。


「あの子が……そんなことまで」


「コノハさんは、あなたのことを気にかけています。『あの人は優しいのかもしれない。でも優しくしちゃいけない立場なのかも』と書いていました。それと、あなたが咳をしていた日のことも心配していました」


 ユーリアの碧眼から、涙が一筋こぼれた。すぐに拭った。枢密院の管理官が、茶館で泣くわけにはいかない。しかし拭っても止まらなかった。


「……私は……仕事だから。仕事として、管理対象を管理しているだけで……」


「ユーリアさん。管理対象は泣きませんよ。管理対象の心配をしているあなたも、管理官の仮面の裏で泣いているあなたも、仕事の範疇ではありません」


 ティナは紙巾を差し出した。ユーリアは受け取り、目元を押さえた。


 茶館の片隅で、枢密院の管理官が静かに泣いている。辺境伯令嬢が隣で、茶碗を持ったまま、待っている。



 ユーリアが落ち着くまで、ティナは何も言わなかった。待った。コノハを待つのと同じように。


 やがてユーリアは顔を上げ、赤くなった目でティナを見た。


「ロッシュ嬢。あなたは何をしようとしているんですか」


「コノハさんを助け出します」


「枢密院から? ……無茶です。あの場所の警備は厳重で、議長の目が光っていて。私のような末端の管理官にできることは——」


「できることがあります。あなたにしかできないことが」


 ティナの声は静かだったが、確かだった。


「枢密院の外の人間には、中の構造がわかりません。警備の配置、交代の時間、鍵の仕組み、コノハさんの部屋の正確な場所。これは中にいる人間にしか知り得ない情報です」


「……それを、私に求めているんですか」


「はい。お願いしています」


「それがどういう意味かわかっていますか。私が情報を渡したことがバレれば、私は——」


「終わる、ですか」


「……ええ。処分されます。文字通り」


 ティナは茶碗を置いた。ユーリアの目をまっすぐに見た。


「ユーリアさん。あなたに選択肢を提示します。一つ目。何もしない。今のまま仕事を続ける。コノハさんの体が限界を迎えるのを見届ける。その後、次の聖女が召喚されて、また同じことが繰り返される。あなたはまた管理者として配属される」


「…………」


「二つ目。情報を渡す。リスクを負う。しかし、コノハさんを助け出す可能性が生まれる。そしてあなた自身も、この仕事から解放される可能性が」


「解放……」


「あなたは仕事が好きかと聞きました。答えは聞いていません。でもわかります。好きではない。好きなわけがない。人間を消耗品として管理する仕事を好きな人間は、咳をしている管理対象の心配をしません」


 ユーリアは長い間黙っていた。壁掛け時計が時を刻む。茶が冷めていく。


 やがて、ユーリアは言った。声は震えていたが、目は据わっていた。


「……私が枢密院に入ったのは、家のためでした。地方貴族の末娘で、家の借金を返すために王都に出てきた。枢密院は給与が良かったから。最初は文書管理の仕事で、それは嫌いじゃなかった。でも三年前に聖女管理に配属されて。最初は……仕事だと思っていたんです。管理対象を管理する仕事だと。でもコノハが……あの子が来て」


 ユーリアの声が震えた。


「あの子は最初の日から、私を名前で呼ぼうとしたんです。『管理者さん、お名前は?』って。私は答えなかった。名前を教えてはいけない規則だから。でもあの子は諦めなくて、毎日聞いてきた。七日目に、私は答えてしまった。『ユーリアです』って。……あの瞬間から、仕事だと思えなくなった」


 ティナは静かに聞いていた。ユーリアの語りは、アンドレイと重なっていた。板挟みの中で、感情を殺しきれなかった人間の話。しかしユーリアのほうが、状況はさらに追い詰められている。アンドレイは軍の師団長だった。権限があった。反論できる立場にいた。ユーリアは枢密院の末端だ。声を上げれば消される。


「ユーリアさん。情報を渡すリスクについて」


「ええ」


「終わりにはさせません」


 ユーリアが顔を上げた。


「コノハさんを助け出すとき、あなたも一緒に外に出ます。枢密院に残る必要はありません。ロッシュ辺境伯領に来てください。辺境の田舎ですが、枢密院の手は届きません。そして――コノハさんも、あそこにいます」


「私……が……」


「あなたが来ることを、コノハさんは喜ぶと思います。あの人はあなたのことを、名前で呼んでいますから」


 ユーリアの目から、また涙がこぼれた。今度は拭わなかった。




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