第六章 王都の仮面2
枢密院との面会を終えた午後。ティナたちは学院の宿舎に戻り、次の動きに移った。
シーラが学院のネットワークを使い、王都内の魔力観測データにアクセスした。王都全域の魔力分布図を取得し、聖堂地下の構造を推定するためだ。
「聖堂の地下に、通常とは異なる魔力反応があります。浄化属性の魔力が断続的に検出されている。これはコノハさんが浄化を行うたびに放出される魔力パルスでしょう」
「位置は特定できますか」
「概算ですが、聖堂の地下三階相当の深さ。北東の区画。具体的な部屋の位置までは、この観測精度では無理です。しかし範囲は絞れました」
「十分です。あとは内部の人間から情報を得る必要があります」
ユーリア。コノハの管理者。枢密院の末端の職員。
ティナは午後の残りの時間を使い、ユーリアとの接触方法を考えた。枢密院の職員の行動パターンは外部からは把握しにくいが、一つだけ確かなことがある。枢密院の職員も人間だ。食事をし、休息を取り、日常を送っている。
アンドレイに情報を求めた。アンドレイは軍の情報網を使い、枢密院の職員の生活圏を調べてくれた。ユーリア・ヴェーゲナーは王都の西区画にある質素な集合住宅に住んでいる。勤務は早朝から夜まで。休憩は昼過ぎに一刻ほど。その間、聖堂近くの小さな茶館で一人で昼食を取ることが多い。
「明日の昼、その茶館に行きます」
「一人でか?」ルディが聞いた。
「一人のほうがいい場面です。あなたが一緒だと『勇者』の存在感が強すぎます。辺境伯令嬢が一人で茶館にいるほうが自然です」
「……わかった。でも近くにいる。何かあったら呼べ」
「何もありません。茶を飲むだけです」
翌日の昼過ぎ。
聖堂近くの小さな茶館。質素な内装で、客はまばらだった。壁際の席に一人の女性が座っている。赤銅色の髪を高い位置で束ね、切れ長の碧眼。枢密院の制服を着ているが、上着のボタンを一つ外している。休憩中、ということだろう。目の下に薄い隈がある。疲労の色。
ユーリア・ヴェーゲナー。
ティナは茶館に入り、ユーリアから二つ離れた席に座った。偶然を装う。偶然、同じ茶館にいた辺境伯令嬢。
ティナは茶を注文し、静かに飲んだ。ユーリアは窓の外を見つめながら、パンを小さくちぎって食べている。食事というよりは、義務的にカロリーを摂取しているだけの動作だ。ティナはその仕草を観察した。帳簿を読むように。数字を拾うように。
疲労。緊張。そして――罪悪感。食事を味わう余裕がない人間の動きには、共通する特徴がある。ティナは父ホルストが母を亡くした直後の食事を思い出した。同じだった。パンをちぎるが口に運ばない。何度もちぎってはテーブルに置く。
ティナは立ち上がり、ユーリアの席に歩み寄った。
「失礼いたします。お隣の席、よろしいですか? 壁際のほうが落ち着きますので」
ユーリアが顔を上げた。碧眼がティナを捉える。一瞬の警戒。しかしティナの藍色のドレスとロッシュ家の紋章を見て、表情が変わった。昨日、枢密院に面会に来た辺境伯令嬢。
「……ロッシュ嬢ですか。昨日、議長との面会に」
「はい。ティナ・ロッシュです。昨日は議長閣下にお時間をいただきました。――こちらの茶館、お茶が美味しいですね。辺境から来ると、王都のお茶は味が濃く感じますが」
ティナは穏やかに微笑んだ。仮面だ。しかし仮面の下にある感情は、冷たい計算だけではなかった。
ユーリアは少し間を置いてから、小さく頷いた。
「……どうぞ。お座りください」
ティナは隣の席に座った。二人の間にテーブルが一つ。茶のカップが二つ。
ティナは会話を急がなかった。最初の数分は、お茶の味の話をした。王都と辺境の気候の違い。茶葉の種類。辺境では薬草茶が主流であること。穏やかな、当たり障りのない会話。
ユーリアは最初こそ警戒していたが、ティナの穏やかな口調に少しずつ肩の力を抜いていった。茶館の空気が二人を包む。日常の、平穏な時間。
ティナは観察を続けた。ユーリアの手。パンをちぎる動き。指先。微かに震えている。昨日、ヴァルターの前で震えていたのと同じ手。
そして、その手がコノハに「今日は二回でいい」と言ったのだ。命令に反して。自分のリスクを負って。
「ユーリアさん、とお呼びしてよろしいですか」
「……どうぞ」
「ユーリアさんは枢密院にお勤めなのですね。大変なお仕事でしょう」
「……仕事ですから」
「私も似たような立場です。辺境伯領の経営は、本来なら父がやるべきことを私が代わりにやっています。大変ですが、やらなければ誰もやらない」
ユーリアの碧眼が、ほんの一瞬だけ揺れた。「やらなければ誰もやらない」。その言葉に反応した。
ティナは話題を変えた。薬草の話、辺境の暮らし、帳簿の苦労。世間話だ。ユーリアは寡黙だったが、ときどき短い相槌を打った。完全に心を閉ざしているわけではない。
ティナの日記帳が、鞄の中で微かに光った。
コノハからの定時連絡だろう。光は微かだったが、ユーリアの視線がティナの鞄に走った。一瞬だけ。しかし確かに。
光った。日記帳が光った。それに気づいた。
ユーリアは魔力に敏感なのかもしれない。枢密院の職員であれば、魔力の異変を察知する訓練を受けている可能性がある。あるいは――コノハの浄化の魔力を日常的に間近で感じているから、似た系統の魔力に反応したのかもしれない。
ティナはユーリアの反応を見逃さなかった。しかし今は追及しない。初対面で核心に踏み込むのは早すぎる。種は蒔いた。光を見た。次の機会に、もう一歩踏み込む。
「ユーリアさん。お話できて嬉しかったです。王都にいる間、また来るかもしれません。この茶館、気に入りました」
「……そうですか」
「お仕事、お疲れ様です。ご自愛ください」
ティナは立ち上がり、茶館を出た。
外でルディが壁にもたれかかって待っていた。
「どうだった」
「予想通りの人でした。疲れていて、罪悪感を抱えていて、でも完全には感情を殺しきれていない。――日記帳の光に反応しました」
「反応した?」
「鞄の中の日記帳が光ったとき、視線が動きました。魔力に敏感な人です。あるいは――コノハさんの魔力に慣れている人」
「つまり、あの茶館の女が、コノハの管理者ユーリアだと確認できたわけか」
「はい。確認できました。そしてもう一つ」
「何だ」
「あの人は、助けを求めていました。自分では気づいていないかもしれませんが。パンをちぎる手が震えていました。食事を味わう余裕がない。罪悪感で。――次に会ったとき、もう一歩踏み込みます」
ルディはティナの横顔を見た。藍色のドレスを着た辺境伯令嬢。仮面をかぶったティナ・ロッシュ。しかしその目は、書斎で帳簿をつけているときと同じだった。数字を追い、事実を並べ、最適な答えを導き出す目。
「お前って、怖いな」
「何がですか」
「茶を飲みながら、相手の手の震えを観察して、心理を分析してるとこ」
「帳簿を読むのと同じです。数字の裏にある物語を読む。人間も同じです。言葉の裏にある感情を読む。――怖いですか」
「怖くはない。すごいと思う。ただ」
「ただ?」
「お前がそうやって全部一人で分析して、一人で計画立てて、一人で背負い込もうとするのが、ちょっと心配」
ティナは足を止めた。王都の石畳の上で。午後の日差しが、藍色のドレスに影を落としている。
「一人ではありません。あなたがいます」
「……ああ。いるよ」
「では心配は不要です。帳簿は一人でつけますが、計画は二人で実行します。――帰りましょう。コノハさんへの返事を書かなければ」
二人は学院の宿舎に向かって歩き始めた。王都の雑踏の中を。藍色のドレスの令嬢と、黒い正装の勇者。仮面をかぶった二人は、しかし手は繋いでいなかった。公の場だからだ。
宿舎に戻って扉を閉めた瞬間、ティナが言った。
「ドレスを脱いでいいですか。動きにくくて仕方がありません」
「好きにしろ。……俺もこの正装脱ぎたい」
「どうぞ。マフラー、預かっておきました。こちらに」
ティナが鞄から擦り切れたマフラーを取り出した。ルディは受け取り、首に巻いた。正装よりもこちらのほうが似合う。
「……ありがとう」
「大切なものは預かります。それが私の仕事ですから」
ティナは着替えを済ませ、エプロンドレスに戻った。鏡の中の自分が、ようやく見慣れた顔に戻る。辺境伯令嬢の仮面を外し、帳簿と薬草茶のティナ・ロッシュに戻る。
日記帳を開いた。コノハからの定時連絡を読む。そしてペンを取り、返事を書く。
仮面を外した場所で書く言葉だけが、本当の言葉だ。ティナはそう信じている。日記帳の文通は、仮面のない場所での会話だ。コノハにも、ルディにも、自分にも、仮面は必要ない。
それが日記帳の、一番大切な機能だとティナは思った。




