第六章 王都の仮面1
枢密院への面会は、王都到着から三日目に設定された。
その朝、ティナは生まれて初めて「正式な宮廷ドレス」に袖を通した。シーラが王都の仕立屋に急ぎで注文したもので、深い藍色の生地に銀糸の刺繍が施されている。ロッシュ家の紋章が胸元に小さく入っている。裾は歩きやすいように少し短めに調整されている。「走れる宮廷ドレス」というシーラの発注は、仕立屋を困惑させたらしい。
ティナは鏡の前に立ち、自分の姿を見つめた。
見慣れない人間がいた。いつもの実用的なエプロンドレスではなく、藍色の絹に包まれた令嬢。亜麻色の髪はハーフアップからフルアップに変わり、銀の髪飾りが光を反射している。淡い琥珀色の瞳は変わらないが、化粧のない素顔はそのままだ。化粧の仕方を知らないし、知る必要も感じなかった。
「……動きにくいです」
「我慢してください。今日だけです」シーラが後ろから髪を整えながら言った。「ロッシュ嬢、姿勢は良いですね。辺境暮らしのおかげでしょうか」
「薬草畑を毎日歩いているので、足腰は丈夫です」
「宮廷では足腰の丈夫さより立ち居振る舞いの優雅さが重視されますが、まあ、あなたの場合は気品が天然で備わっているようですので問題ないでしょう」
「天然の気品という概念が理解できませんが、褒められていると解釈しておきます」
書斎の扉をノックする音がした。ルディだ。
「ティナ、準備できた――」
扉が開いた。ルディが一歩入って、足が止まった。
ルディも王都仕様の装いに変わっていた。鎧ではなく、黒を基調とした勇者の正装。銀の肩章。腰には儀礼用の剣。擦り切れたマフラーは外してある。精悍な顔立ちに正装が映え、「できる勇者」の風格がある。
しかし今、ルディの目はティナに釘付けだった。
「…………」
「何ですか」
「いや……その……」
「言葉が出ないなら、セーブデータに書いてください。そちらのほうが饒舌でしょう」
「言葉は出る。出るけど、出すと恥ずかしいから」
「では黙っていてください。出発の時間です」
「……綺麗だ」
「聞こえませんでした」
「聞こえてるだろ」
ティナは先に部屋を出た。廊下を歩く足取りはいつもと変わらないが、耳の先が微かに赤かった。後ろからシーラの「また聞こえてますよー」という声が追いかけてきたが、ティナは聞こえないふりをした。
枢密院は王城の西翼にあった。
白い大理石の柱が並ぶ回廊を抜け、重厚な扉の前に立つ。扉の両脇に枢密院の紋章が刻まれている。衛兵が二人、直立不動で警備についている。
ティナは深呼吸をした。
ここからは「仮面」の時間だ。辺境で帳簿をつけ、薬草茶を淹れ、ルディの愚痴を添削するティナ・ロッシュではなく、ロッシュ辺境伯家の令嬢として、国家の最高権力者の一人と対面する。
「ロッシュ辺境伯家、ティナ・ロッシュでございます。枢密院議長ヴァルター・オルデンブルク閣下との面会をお約束しております」
声は完璧だった。十年間、領地の商人や近隣の貴族と交渉してきた経験が、こういうときに活きる。声の高さ、速さ、言葉遣い。すべてを「辺境伯令嬢」の仕様に切り替える。ルディが「勇者の仮面」をかぶるように、ティナは「令嬢の仮面」をかぶった。
扉が開かれた。
枢密院の執務室。広い部屋だった。天井が高く、壁一面に書棚が並んでいる。窓からは王都の街並みが見下ろせる。部屋の中央に大きな執務机があり、その向こうに一人の男が座っていた。
白髪を短く刈り込んだ痩身の老人。鷹のように鋭い灰色の目。常に黒い正装。笑顔を見せることが極端に少ない顔。
ヴァルター・オルデンブルク。
コノハが見たという「白髪の鷹の目の男」。アンドレイが語った「召喚政策の主導者」。百年にわたり異世界から人間を召喚し、兵器として使い捨ててきた人物。
ティナは一礼した。完璧な宮廷礼法で。シーラに一夜漬けで教わった作法を再現する。
「お初にお目にかかります、ヴァルター議長。ロッシュ辺境伯領より参りました」
「ロッシュ嬢か。遠路はるばる、ご苦労だった。……凍牙の迷宮の封印修復の報告と聞いているが」
ヴァルターの声は低く、穏やかだった。しかしその穏やかさの下に、鋼のような硬質さがある。この人は声の温度を自在に操れる。穏やかに話しているときが最も警戒すべきだ、とティナは直感した。
「はい。迷宮の封印は完全に修復されました。氷皇竜フリージアは再び封印状態にあり、ダンジョンの魔力は安定化しています。詳細な報告書はこちらに」
ティナは革鞄から報告書を取り出し、ヴァルターに差し出した。もちろん、これは表向きの報告書だ。内容に嘘はないが、本当の目的は別にある。
ヴァルターは報告書を受け取り、数ページをめくった。目は文字を追っているが、本当に読んでいるのかどうかはわからない。この人物は、報告書の内容など既に知っているだろう。封印修復は王国中に伝えられている。わざわざ辺境伯令嬢を呼び出す――いや、辺境伯令嬢がわざわざ来る――理由のほうに関心があるはずだ。
「見事な仕事だ、ロッシュ嬢。記録親和の力を存分に活かした封印修復。……お母上のアネット殿も、さぞお喜びだろう」
ティナの心臓が一つ余分に脈打った。母の名前を知っている。
「母をご存知でしたか」
「記録親和の持ち主は珍しい。王国の記録に残っている。アネット・ロッシュ。三十年前に記録親和の恩寵が確認された女性。凍牙の迷宮の封印に関心を持っていたことも、記録にある」
記録に残っている。枢密院が母の存在を把握していた。ティナは表情を変えなかったが、内心で警戒度を上げた。
「お母上の力を受け継いだあなたは、王国にとって大変貴重な存在だ。記録親和。……記録に関わるあらゆることと共鳴する力。大切にされるといい」
最後の一言。「大切にされるといい」。
ティナはその言葉の裏を読んだ。「大切にされるといい」は、善意の助言にも聞こえるし、「我々が大切に管理する」という宣言にも聞こえる。この人物は、言葉を二重三重の意味で使う。ティナの記録親和に関心を持っている。それが純粋な学術的関心なのか、利用価値としての関心なのか。
おそらく後者だ。コノハを「浄化装置」として幽閉している人物だ。ティナの記録親和にも、同じ目で見ている。
「ありがたいお言葉です。この力は母から受け継いだものですので、大切にしております」
ティナは完璧な微笑を浮かべた。仮面の下で、心臓が速く打っている。
面会は約半刻で終わった。表向きの報告は滞りなく済み、ヴァルターは「辺境伯領の発展を祈る」という社交辞令を述べて、ティナたちを送り出した。
枢密院の回廊を歩きながら、ルディが小声で聞いた。
「どうだった」
「予想通りの人物でした。冷徹で、知性が高く、すべてを把握している。――私の力にも関心を持っています」
「利用しようとしてるのか」
「まだわかりません。ただ、母のことを知っていたのは予想外でした。枢密院は記録親和の持ち主を把握している。つまり、私のことも以前から知っていた可能性があります」
「…………気をつけろ。お前まで奴らに目をつけられたら」
「目をつけられることは覚悟の上です。むしろ、目をつけられることで接触の機会が増えるなら、利用します」
「利用するって……相手は国家権力だぞ」
「国家権力でも帳簿をつけます。帳簿をつける相手なら、数字で戦えます」
ルディは何か言いかけて、口を閉じた。ティナの目が据わっている。この目の前では、何を言っても「わかっています」と返されるだけだ。




