第五章 王都に立つ
王都行きの計画が固まったのは、文通開始から三週間目の夜だった。
ティナの書斎のテーブルに、計画書が広げてある。帳簿用の罫線が引かれた紙に、ティナの丁寧な字でびっしりと書き込まれている。
「行程。ロッシュ辺境伯領から王都まで、馬車で三日。宿泊は街道沿いの宿屋を使用。費用は領地の予備予算から捻出」
「表向きの名目。辺境伯令嬢ティナ・ロッシュによる、凍牙の迷宮封印修復の正式報告。枢密院への直接報告という形を取る。アンドレイ師団長が入城許可と面会権を手配済み」
「随行者。ルディ・グラヴナー(勇者。護衛名目)、シーラ・ドルレアン(宮廷魔導士。学術調査名目)」
「裏の目的。コノハさんの居場所の正確な特定。枢密院の内部構造と警備体制の把握。ユーリアへの接触。そして最終的には――救出」
ルディは計画書を読み、唸った。
「相変わらず隙がないな。アンドレイの作戦計画書に匹敵する」
「アンドレイ師団長の計画書には『47回死ぬ』と書いてありました。私の計画書には誰も死なないと書いてあります。上回っているでしょう」
「……それは反論できない」
シーラは計画書を学者の目で精査していた。
「ロッシュ嬢。一つ提案があります。王都では私の学院の宿舎を拠点に使えます。宮廷魔導士の研究施設ですので、外部からの干渉を受けにくい。それと、学院のネットワークを使えば、王都内の魔力観測データにアクセスできます。聖堂地下の構造を特定するのに役立つはずです」
「ありがとうございます。計画に組み込みます」
「あとですね、一つ気になっているのですが」
「何ですか」
「ロッシュ嬢、社交界の経験は」
ティナの手が止まった。
「……ありません」
「ですよね。辺境伯の令嬢とはいえ、辺境ですものね。王都の社交の場に出たことは」
「ありません。招かれたこともありません。うちは辺境の田舎ですので」
「枢密院への面会となると、最低限の宮廷礼法が必要になります。ドレスも必要ですし、髪も整えなければ。辺境伯の名に恥じない装いで――」
「ドレスですか」
ティナの声が微かに硬くなった。ドレス。社交界用のドレス。あの「動きにくい拘束具」。
「エプロンドレスでは駄目ですか」
「駄目です」
「薬草畑と同じ格好では」
「枢密院議長の前にエプロンドレスで行く辺境伯令嬢は、おそらく史上初です」
「前例がないなら作ればいいのでは」
「ロッシュ嬢。前例を作るのは良いことですが、今回は相手の懐に入ることが目的です。相手の土俵で戦うなら、相手のルールに合わせる必要があります」
ティナは黙って考えた。シーラの言う通りだ。枢密院に乗り込むなら、辺境の田舎娘ではなく「ロッシュ辺境伯令嬢」として完璧に振る舞わなければならない。仮面をかぶる。ルディが「勇者の仮面」をかぶるのと同じように。
「……わかりました。ドレスは用意します。ただし動きにくいものは困ります。万が一の事態に備えて、走れる程度の機動性は確保してください」
「走る前提の宮廷ドレスですか。……なんとかします」
シーラは苦笑した。
出発の朝。
ホルストが領主館の玄関で見送りに来た。のんびりした顔で、杖をついて。穏やかな目元がティナとよく似ている。
「ふむ。王都か。遠いな」
「馬車で三日です。五日で戻ります」
「五日か。五日であれば薬草畑は大丈夫だろう。水やりは父さんがやろう」
「父上。水やりの量は――」
「一株あたり如雨露を傾けて三数える間。ティナが五十回は言っただろう。覚えたよ」
ティナは少し驚いた。父は聞いていないようで聞いている。いつもそうだ。
「ふむ。ティナ」
「はい」
「母さんも王都が嫌いだったよ。『空気が汚い』と言っていた。でもな、嫌いな場所でこそ、やらなきゃいけないことがある。母さんはそう言って、何度も王都に行っていた」
「……母上が王都に?」
「ふむ。お前に言ったことはなかったか。母さんは凍牙の迷宮のことで、何度か王都の学者に相談に行っていたんだ。病気が重くなる前の話だがね。――帰ってくるとな、いつもどっと疲れた顔をして、『ホルスト様、お茶を淹れてください。私はもう一歩も動けません』と言った。父さんの淹れたお茶は薄かったがな」
「父上のお茶は今でも薄いです」
「ふむ。改善の見込みはない」
ホルストはのんびり笑い、それからティナの肩を軽く叩いた。
「気をつけていきなさい。――勇者殿」
「はい」
「娘を頼む。……と言いたいが、前にも言ったな。じゃあこう言おう。娘の隣にいてやってくれ。あと、窓は閉めておいた」
「窓は閉めておいてください。留守中に風邪をひかれると困ります」
「ふむ。善処しよう」
「善処ではなく確約してください、父上」
「……確約だ」
ホルストの「確約」がどこまで信用できるかは、ティナにとって永遠の課題だった。
馬車の中。
ティナとルディが並んで座り、向かい側にシーラが座っている。シーラは早速論文を広げていた。馬車の揺れの中でペンを走らせるのは酔いそうなものだが、シーラにはそういう常識は通用しないらしい。
「シーラさん、馬車の中で書き物をすると酔いますよ」
「大丈夫です。学者は酔いません。……いえ、嘘です。酔います。でも論文が書けなくなるよりマシです」
「優先順位がおかしいと思います」
「学者の優先順位は一般人とは異なるのです」
ルディは窓の外を眺めていた。辺境の鉛色の空が、ゆっくりと後方に流れていく。馬車が街道を進むにつれて、景色が変わっていく。森が深くなり、やがて開けた平地に出る。遠くに山脈が見える。凍牙の迷宮がある方角とは反対の、南西の方向。王都がある方向。
「ティナ」
「はい」
「王都では、俺は『勇者の仮面』をかぶらなきゃいけない。辺境じゃ誰も気にしないけど、王都では『勇者様』だ」
「わかっています」
「お前も『辺境伯令嬢の仮面』をかぶるんだろ」
「必要であれば」
「……なんか、嫌だな」
「何がですか」
「辺境にいるときのお前が好きだから。帳簿をつけてるときの顔とか、薬草茶を淹れてるときの顔とか。それが仮面で隠れるのが」
ティナは窓の外に目を向けた。景色が流れている。ルディの言葉は、馬車の揺れと一緒に胸の中で転がった。
「……仮面をかぶっても、中身は変わりません。帳簿が得意で、薬草茶を淹れるのが上手い辺境の令嬢です。それは変わりません」
「知ってる。だから大丈夫なんだけどな」
「では何が嫌なんですか」
「お前の素の顔を、俺以外の奴に見せたくないっていう、わがまま」
ティナは返事に詰まった。馬車の窓から入る風が、亜麻色の髪を揺らした。
「……それは合理的ではありませんね」
「ああ。全然合理的じゃない」
「でも」
「でも?」
「記録しておきます」
「何を」
「あなたが合理的でないことを言ったこと。珍しいので」
「俺は毎日合理的じゃないこと言ってるだろ」
「それもそうですね。では、特に合理的でなかったこととして記録します」
ルディはマフラーに顔を半分埋めた。耳が赤い。ティナも窓の外を見たまま、微かに口元が緩んでいた。
シーラは向かい側で論文を書くふりをしながら、全てを聞いていた。ペンは動いているが、書いている内容は論文ではない。「観察記録:被験者Aと被験者Bの感情表出パターンの変化」と題されたメモだった。学者としての矜持と野次馬根性は、彼女の中で完璧に共存している。
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馬車で三日。
王都グランツェルクは、ティナが想像していたよりも遥かに大きかった。
辺境の領主館は石造りの質素な屋敷だ。村の家々は木と石でできた簡素な建物ばかりだ。しかし王都は違った。白い城壁が太陽の光を反射し、城門は馬車が三台並んで通れるほどの幅がある。城壁の内側には石畳の広い通りが縦横に走り、建物は三階建て四階建てが当たり前で、窓にはガラスが嵌められ、屋根には色とりどりの旗が翻っている。
人の数が圧倒的に違う。辺境の村の全人口よりも、この城門の前に並んでいる人のほうが多い。
「……すごい量の人ですね」
「王都だからな。ここに住んでたよ、俺は。勇者として」
「住み心地はどうでしたか」
「うるさくて、空気が悪くて、一人暮らしの部屋が狭かった。お前のとこの書斎のほうが百倍いい」
「お世辞でなければ嬉しいですが、百倍は誇張ですね」
「事実だよ。お前の薬草茶がある時点で百倍だ」
入城の手続きはアンドレイが手配していた通りスムーズに進んだ。辺境伯家の紋章入りの通行証と、騎士団第三師団からの推薦状。門兵は通行証を確認し、「ロッシュ辺境伯家のティナ様ですね。お通りください」と敬礼した。
ティナは門兵に軽く頭を下げた。「辺境伯令嬢の仮面」はまだかぶっていないが、自然と背筋が伸びる。王都の空気がそうさせるのか、あるいはこれから対峙する相手の重さが、体に緊張を与えているのか。
シーラの手配で、王立学院の宿舎に落ち着いた。宮廷魔導士の研究施設は王都の学術区画にあり、外部からの干渉を受けにくい立地だった。部屋は質素だが清潔で、机と寝台と書棚がある。ティナにとっては十分だった。
「ルディさんの部屋は隣です。シーラさんは研究室が別棟にあるそうです」
「了解。……ティナ、一つ確認だけど」
「何ですか」
「俺、王都にいる間は『勇者ルディ・グラヴナー』として振る舞わなきゃいけない。つまり――お前のことも、人前では『ロッシュ嬢』と呼ぶ。いつもみたいに名前で呼べない」
「承知しています。私もあなたを『勇者殿』と呼びます」
「……嫌だな、それ」
「仕事です。我慢してください」
「仕事か……。じゃあ二人きりのときは?」
「二人きりのときは、いつも通りで構いません」
「了解。――ティナ」
「はい」
「名前呼べるの今のうちだから、もう一回。ティナ」
「……用もないのに名前を呼ばないでください。恥ずかしいので」
「記録しておく。恥ずかしいって言った」
「記録は私の仕事です。勝手に記録しないでください」
壁の向こうでシーラが「聞こえてますよー」と叫んだ。二人は同時に黙った。
王都到着の翌日。
ティナはコノハに日記帳で現状を報告した。
「コノハさん。私たちは今、王都にいます。あなたのいる場所の近くまで来ました。
まだ直接助けに行くことはできませんが、計画を進めています。もう少しだけ待っていてください。
体調はどうですか。昨日の報告では三回目の浄化のあとに指先の感覚がなくなったとありましたが、今朝は戻りましたか」
コノハの返事。
「王都……。ここが王都なんですね。私、自分がどこにいるかも知らなかったのに、ティナさんたちはもう近くまで来てくれたんですね。
指先の感覚は、朝になったら少し戻りました。でも完全には戻っていません。小指と薬指がまだ痺れています。
……ティナさん。一つだけ聞いてもいいですか。もし助け出してもらえたとして、私はどこに行けばいいんでしょう。この世界に、私の居場所ってあるんでしょうか」
ティナはその問いかけを読んで、少し考えた。そして、迷わずに書いた。
「うちに来てください。ロッシュ辺境伯領に。辺境の田舎ですが、薬草畑と、薄いスープと、温かい薬草茶があります。部屋は空いています。
――あと、水やりの人手が足りていないので、助かります」
「……ティナさん。泣きそうです」
「泣いても構いませんが、涙で文字がにじむと読みにくいので、泣いたあとに書いてください」
「ティナさんって、本当に……優しいのか厳しいのかわからないです」
「どちらでもありません。合理的なだけです。――これ、前にも言ったことがある気がしますね」
ルディが横から覗き込んで、「また言ってる」と呟いた。ティナは聞こえないふりをした。




