50.失われた味覚
数日後。
山奥カフェの扉の前に、籠を抱えたアンナが立っている。
しばらくカフェの周囲をうろうろして、再び扉の前に戻って来る。
扉を叩くが、返事がない。
扉に鍵はかかっていない。アンナはきしむ床を踏みしめ、久方ぶりに廃校へ入った。
「クロエ?クロエ、いる?」
中に入って行くと、奥に膨らんだベッドが見えた。
「寝てるの?」
嫌な予感がしたのか、アンナはこわごわ布団をめくる。
そこには、青白い顔をしたクロエがうつろな目で寝ていた。
アンナは首を傾ける。
「体の具合がどこか悪いの?」
クロエは答える気力もなかった。
アンナは籠をがさごそと漁る。
「蜂蜜を持って来たわよ。食事は摂れてる?何かつくってあげましょうか」
クロエには母がいないが、彼女の母のようにアンナは言った。
「いっぱいがんばってきたものね。きっと、疲れたのよ」
そう声をかけられると、クロエは急に大粒の涙を流した。
「待っててね。あるもので、ちゃちゃっと作っちゃうから」
アンナは台所に立つと、籠からマスタードを取り出した。
それを蜂蜜と酢とで混ぜ合わせ、キャベツの漬物と混ぜる。
籠から鶏肉を取り出すと、皮目からじっくりと焼き上げた。
食べやすいようにスライスし、キャベツをつけあわせにする。
紅茶を淹れ、蜂蜜を入れた。
パンを少し炙って、パリッとした食感に仕上げた。
「クロエ、出来たわよ。私、あなたのお菓子を楽しみに暮らしているの。だから、元気出してちょうだい」
クロエはのっそりと起き上がった。
「さ、食べ物を食べて。そうしたら元気になるわ……」
クロエは、豪華な食事を前に、困惑した。
「さあ、どうぞ」
そう言われて、口をつけたが──
クロエは、思わずナイフとフォークを取り落とした。
「どうしたの?クロエ……」
「あ……味が……」
アンナは心配そうにクロエの顔を覗き込んだ。
「味……変だったかしら?」
「違います。私……なぜか最近、味が感じられなくなってるんです」
アンナは目を丸くした。
「もしかして……風邪をひいているの?」
「……いいえ」
「風邪ではない……と。それは……大変なことになったわね」
クロエは悲しくなってテーブルに突っ伏した。アンナは立ち上がって、クロエの背中側に回りそっとその肩に手を置く。
「わ、私……私……あの人がいなくなってから、味を感じなくなってしまった。味をお届けする職業なのに!」
「クロエ……」
「私、もうだめ。生きる気力が湧かないの……!」
アンナは子どもにしてやるように、クロエの背中をさすった。
「モイズから聞いたわ。アルベールが敵国の王太子で、勾留されたと……ショックよね、クロエ。でも、焦らないで。私も同じ症状になったことがあるわ」
クロエは顔を上げた。
「……そうなんですか?」
「ええ。私の場合は、最愛の父親が亡くなった時……一時的に、味覚がなくなったことがあるの」
「その後は?」
「うーん……大昔だからあまり覚えていないけど、次の年には治っていたわ」
「つ、次の年……?」
そんなに時間がかかってしまったら、お菓子作りが出来ないではないか。
「ああ……もう、おしまいよ」
「そんなことないわクロエ」
「何で私ばかり、こんな目に」
そこまで言って、クロエはハッと我に返った。
「あっ、ごめんなさい。アンナさんだって、とても大変な目に遭ったんでしたよね」
「……」
「私、今は私のことしか考えられないみたい……ごめんなさい」
すると、アンナはクスクスと笑った。
「ふふふ。何を言ってるの?みんな、そうよ。自分のことしか考えられないの。普通はそうなのよ」
「アンナさん……」
「だから、人と理解し合ったり、愛し合ったりすることが尊いの。でもそれが出来ないからって、自分を卑下することないのよ。精一杯生きれば、いろいろどうにかなるわよ」
年の功というべきか、アンナはそう言って屈託なく笑う。
「さ、味は感じないかもだけど、食べなさい。とりあえず、栄養を取らなきゃね」
クロエは慣れない舌の感覚に戸惑いながらも、食事を口にした。
味がない食物というのは、食感だけが頼りで、何て空しいものなのだろう。
クロエがとりあえず口の中のモノを咀嚼していると、遠くから聞き覚えのある音がした。
「ん?この音は……」
アンナが言う。
「竜だわ」
庭に、ふわりと見たことのある竜が舞い降りた。
アルベールを連れ去ったはずの、竜騎士兵の青い竜だ。
しかし、竜から降りて来たのは兵士ではなかった。
「失礼します!山奥カフェの、クロエ様は御在宅でしょうか?」
クロエは立ち上がると、おぼつかない足取りで玄関先に立った。
「はい、私がクロエです」
「国王陛下からの親書をお預かりしました。こちらをお読みいただき、指定された日に王宮へ出向くようとのご命令です」
手紙だけ渡して、竜はさっさと飛び立って行く。クロエは一瞬〝犯人隠匿で逮捕〟の方を想像したが、手紙を開けてみると、予想だにしないことが書かれていた。
「蜂蜜ケーキ……?」
最近の混乱で、すっかり忘れていた。アンナが覗き込んで来る。
「えっ、何ですって。蜂蜜?」
「アンナさん!アンナさんの作った蜂蜜を入れたケーキを、王妃陛下がお気に召されたんですって!」
アンナは目を剥いた。
「えっ?なぜ?」
「結構前になりますが……商工会から依頼を受け、私が作って、お送りしたんです」
「そんなことが?あらまあ……」
一瞬浮ついたクロエだったが、味覚がなくなっているので今度は一気に不安に叩き落された。
「ああ……でも味覚が……どうしよう……」
「クロエ……大丈夫?」
「私……せっかくここまで来たのに……!」
落ち込むクロエの背を、アンナは再び撫でまわした。
「レシピ通りに作ればどうにかなるわよ」
「蜂蜜ケーキだけ作っていられればそうでしょうけど、その内もっと違うケーキをご所望になるに違いないわ」
「うーん……」
アンナが言葉選びを迷っていた、その時だった。
「おーい!」
扉を叩く人影がある。
聞き覚えのある声に嫌気が差し、クロエは頭痛を起こして椅子にふらふらと座り込んだ。




