30.アンナの秘密
クロエは戸を開けると、アンナを招き入れた。
「どうぞどうぞ!何もないところですが、それでよければ」
アンナはどこか懐かしそうに廃校を見渡すと、もじもじと手をこすり合わせた。
「あ、あのう……」
「牛乳、温めましょうか?お出しできる飲物はこれしかなくって」
すると、アンナはもぞもぞと大きな瓶を取り出した。
「これを、あなたに」
その中に入っていたのは──蜂蜜だった。
クロエはぽかんとして尋ねる。
「……アンナさん、これは……?」
「これは、うちのトチノキ蜂蜜。あの……ちょっと頼みごとがあるんだけど、いいかしら」
「はい」
「この蜂蜜を使って、ギヴァルシュを作ってほしいの」
クロエはそこでようやく、彼女がここに来た意味を知った。
「ああ、お菓子のご依頼ですね!〝ラベイユ〟の蜂蜜ケーキも、アンナさんの蜂蜜で作っていたんです。また出会えたのは光栄ですっ」
「あのう……今はちょっと手持ちのお金がないので、この蜂蜜とあなたのギヴァルシュを交換していただいてもいいですか?」
「もちろんです!どれくらいご入用ですか?」
「10個ぐらいあれば充分よ。そして残りの蜂蜜は、煮るなり焼くなりあなたの好きにしていいわ」
クロエは驚いた。
「えっ!?でもこの蜂蜜は、10000デニーという超高級商品じゃ……」
「そうね。でも……あなたの作ったギヴァルシュが、一番私の思い出の味に近かったから……それを食べさせてくれたから……それでいいの」
「アンナさんの、思い出……?」
アンナが静かに椅子に座る。
「ねえ。牛乳を温めるなら、トチノキ蜂蜜を入れてくださる?うちの蜂蜜は、とってもミルクに合うのよ」
クロエは鍋を持って来ると、火を起こした。
「それ、いいですね!ハニーミルクかぁ」
「これも、思い出の味」
クロエは、白い泡がふつふつ沸く鍋を見つめながら考えた。
(思い出の味……)
何やらアンナは〝思い出〟を大事にしているらしい。
クロエはひしゃげたカップを二つ並べると、とくとくとホットミルクを淹れた。
曲がったスプーンで蜂蜜をすくい、くるくるとミルクに溶かして行く。
「どうぞ」
「ありがとう」
ふたりでハニーミルクを口に含むと、ほっと息が抜けた。
「わぁ~……このハニーミルク、美味しい」
「昔、牛乳嫌いの息子に、こうして飲ませてあげてたの」
「へー。息子さんがいらっしゃるんですか?」
あの小屋の周辺で、特に息子らしき姿は見かけなかったが──
クロエが尋ねると、アンナは今にも泣き出しそうな顔をした。
(……聞いたらいけなかったかな)
様子を見るように沈黙していると、アンナはぽつりと言葉を落とした。
「息子には、もう会えないの」
クロエはどきりとした。しかし、ここで深掘りするのも藪蛇であろう。
アンナは続ける。
「私、息子を置いて出て行ってしまったから」
どうやら彼女は、何か吐き出したい思いがあるようだ。クロエは黙って聞く。
「私、元々は伯爵家の四女で、とある伯爵家の嫡男と結婚したの。すぐに男の子に恵まれて──でも、毎日のように暴言と暴力を受けたわ。どうにか子どもを手元で育てようと思ったけど、物心がつく前に、義母に取り上げられてしまった。その日から私は夫に軟禁され、殴られ続けて……気づいたら、貴金属を身に着けて出奔していた。それでも追手が来て、点々として国中を逃げながら、どうにか辿り着いたのが、この山だった」
今更ながら、クロエはモイズの言葉を思い出す。
〝まあ、この山ではみんな色んなものを抱えて生きているからな。個人情報を教えたくない気持ちも、分かってやってくれ〟
アンナは夫や家柄から逃げ、命からがらこの山に辿り着いたのだ。そして、山を買った。
アンナは言う。
「私は、妻としても母親としても失格なの。でもね、下手なりに農業をやって、養蜂にも手を出して、召使いにやらせていたことを全部自分でやって……そうして山の恵みを受けるたびに、山から〝生きていていいよ〟と言われている気がしたの」
「……それで養蜂に出会ったんですね」
「ええ。実は、養蜂を始めたきっかけは、この〝ギヴァルシュ〟を作りたかったからなのよ」
クロエは目を丸くした。
「えっ?そうなんですか?」
「私、幼年期はとっても自由に暮らしていたの。人生で一番素晴らしい時間だった。その時分に、教会のお祭りがあってね。ギヴァルシュを配るのが慣例だったの。あの頃は、身分も何も関係なく、近所のお友達と交流出来た。私が一番輝いていたのが、ギヴァルシュを食べられるあの時期だったのよ」
アンナは、どうやらクロエに自分を知ってもらいたがっている──
アンナは続けた。
「それに、子どもが生まれた時、みんなでギヴァルシュを配ってお祝いしたのよ。私の〝いい日〟には、いつもギヴァルシュがあったの。だから、私、あなたからギヴァルシュを貰った時、本当に──」
クロエは彼女の次の言葉を待ったが、その言葉は嗚咽に紛れてしまう。
クロエはごしごしと目をこすると、
「思い出の詰まったお菓子だったんですね」
と微笑む。アンナはうつむいたまま、何度も頷くと、話を続けた。
「実は私、エルマーさんにもギヴァルシュを貰ったことがあるのよ」




