10.開かずの養蜂所
クロエは山を下りる。
山には獣道があり、人が分け入った痕跡がそこかしこにあった。
ちょっとしたハイキング気分だ。
所々にちょっとした沢や、湧き水が流れている。
たまに錆びた缶詰のような人工物が転がっている。そのたびにクロエはわくわくした。
日が高く昇り低山の麓まで来ると、聞き覚えのある音がした。
ハチの羽音だ。たくさんいるらしく、何やらブンブンと騒がしい。
クロエは注意深く、その方向を見る。
近くの木に、蜂の巣箱が設置されていた。
「蜂の巣……?そうか、この箱は養蜂用だったのね」
木箱の隙間から、ミツバチがせっせと足を擦り羽を擦り、潜っては飛んでせわしく働いている。
クロエは、ふと気がつく。
「もしかしてエルマーさん……あの蜂蜜ケーキの蜂蜜は、この養蜂所から仕入れていたのかな?」
あくまでも予想だが、あの猟師の口ぶりからして確率は極めて高い。
クロエは恩人に会いに行くようなこそばゆさを覚えながら、しかし好奇心に負けるように、その戸を叩いた。
返事がない。
「……おでかけかしら?」
しかし、耳をすませてみると、小屋の中では小さな金属音が続き、台所仕事のような音がする。
煙突からは、白い煙が出ていた。
「聞こえないのかな?」
クロエは声を出した。
「すみませーん!ご挨拶にうかがいました!クロエと申します!」
しかしやはり、返事がない。無視されているのだろうか。
(この家の人は、エルマーさんを知っているかもしれない。いちかばちか……)
クロエは最終手段に出た。
「私は洋菓子店〝ラベイユ〟のパティシエーヌ、クロエと申します!ご挨拶にうかがいました!」
すると。
急にギイと扉が開き、クロエは思わずあとずさった。
中から出て来たのはとても品のある、美しい中年の女性だった。作業着も上等な麻で出来ており、どこか都会的で洗練されている。クロエは想像と違う人間が出て来たのでドキリとした。
「こ、こんにちは」
クロエは改めてそう挨拶したものの、相手はこちらを訝しんだまま言葉を発しない。
「私、しばらくあの山の廃校に滞在させていただきます、クロエと申します。怪しい者ではございません。私はエルマーの弟子で……」
「……エルマーさんは?」
クロエは、相手の睨みにたじたじになりながらも答えた。
「亡くなりました。一週間前に」
「……そう」
言うなり、女性は扉を閉めてしまった。クロエは呆気にとられたまま取り残される。
「えっ……!ちょっと」
閉められた扉の向こうから、くぐもった声がする。
「たとえお弟子さんであっても、話すことはありません。出て行ってください」
取り付く島もない。
初対面で、ここまで拒否されるとは思っていなかった。
(ああー……せっかくここまで来たのに)
ともあれ、彼女の話からここが〝ラベイユ〟の蜂蜜ケーキのふるさとであることは間違いなさそうだ。
それが確認出来ただけでも、クロエは気が楽になった。
この山々には、クロエが愛したものの片鱗がある。
クロエは扉の向こうの女性に言った。
「分かりました。ここであの美味しい蜂蜜が作られていたことを知れて、よかったです」
扉の向こうは依然、静まり返っている。
クロエは再び周囲を見渡した。
せっかく麓まで来たのだから、また何か新たな発見をしたい。
蜂蜜の背後には、トチノキが生えそろっていた。
白い房のような立ち上がった花に、蜂が出入りしている。
「へー。〝ラベイユ〟で使用していた蜂蜜は、このトチノキから採れた蜂蜜だったのね」
これも、初めて知ることだった。
蜂蜜は蜂の採る花によって味が変わるという。フルーツの花から採れた蜜はフルーティで、コーヒーの花から採れた蜜は少し苦いのだ。
トチノキの蜜は、くせが少なくコクがある。
どこか深い味わいは、この山の深さから発生しているのだろう。
「〝ラベイユ〟の蜂蜜は、山の味……」
クロエはこの山に来て、エルマーの作る菓子の秘密をひとつひとつ暴いているような気分になった。
(きっとここは、エルマーさんにとって秘密の場所だったんだわ)
どういういきさつで彼がここの養蜂所に辿り着いたのかは分からない。
だが、例の女性の頑なな心を、エルマーはこじ開けた──
(エルマーさんは、どうやってあの女性の心を開いたんだろう)
考えてもよく分からない。
(私、自分の作っていたケーキの素材も、エルマーさんのことも、何ひとつ知らなかった……)
クロエは、自分の無知さが嫌になった。
(もっとこの山のことが知りたい。次はどこへ向かって歩こうかな)
彼女が悩んでいた、その時だった。
「おや?見ない顔だね~!」
遠くから声をかけられたのだ。
クロエは背後を振り返った。
そこには、羊や豚や牛や犬──様々な動物を従えた、小柄な好々爺がいた。




