第十二話 薄闇に豊かに満ちる水の上に、国があった
ぴちゃん……
その音を耳に捕らえ、カイは驚いて振り返った。
アレスクロディエの誘導を受け、ホールを抜けて長い通路――足場がいいだけの洞窟だ――を歩いていた時のことだ。
先頭に立つアレスクロディエの手には、見たことのない形の行灯があった。棒の先に正円の板がぶら下がっており、その表側の面が白々しい光を発して、周囲を照らしている。裏面には、幾何学的な文様が、ぼんやりと赤く浮かび上がっていた。
通路自体に電灯のようなものは設置されていなかったが、淡く発光する白い壁面のおかげで、完全な暗闇というわけではない。行灯がなければいささか心許ないが、目が慣れれば歩けなくはないだろう。
事実、アレスクロディエのすぐ後ろを歩くリーア、バーン、カイの後に、ぞろぞろと行列を作ってついてくる黒装束の集団は、薄暗い洞窟の中を、照明も持たずに勝手知ったる様子で歩いている。
振り返った拍子に目に入ったその異様な光景に、一瞬ぎょっとしてしまうが、カイはすぐに意識を音の方に向けた。
聞こえた水音の先には、天井から伸びる青白い鍾乳石があった。
その先端から滴った液体が、道脇にある導水路のような窪みに落ちたのだ。
「水……?」
思わず眉を顰め呟いたカイの声に、バーンが身を翻し導水路に駆け寄った。
掌ですくった透明な液体を観察した後、こともなげに一口含む。
「バーン! またあなたという人は……!」
「……水だ」
安全性も確かめずに未知の物質を飲み込んだ男に、リーアが気色ばむ。
「この星に、水はないはすじゃ……」
「何をおっしゃるやら。水なきところに、生命は存在しません」
驚いたカイの言葉に、3人を先導していた片眼鏡の男が、心外という風に口を挟んだ。
男の言葉は、最初はまったく知らない言語のように聞こえたが、よくよく聞いてみると、発音や言い回しに独特の節はあるが、使われている文法や基本的な単語は、ノブル語にかなり近い。
そう理解すると、チューナーが合わされるように、自然と意味ある言葉として流れ込んできた。
「この星の表面を覆う紅砂岩は、非常に浸透性と乾燥性の高い地質です。地表には稀に雨が降りますが、全ての水は、表層を通過してこの地下深くに集積されます。――ごらんなさい、あれが我らの国家です」
アレスクロディエが指した先には、出口があった。そこだけは石柱とアーチに飾られ、一応、神殿らしい門構えを見せている。
そこから一歩外に出た瞬間、目の前に広がった光景に、カイは目眩を覚えた。
これは誰の夢だ?
――薄闇に豊かに満ちる水の上に、国があった。
高台に位置する神殿の入り口からは、緩やかな階段が伸びていた。その裾から広がる街並みは、おおよそカイの想像力の範疇を超えていた。
数キロ先まで見渡せる、広大な地下洞窟の中に広がる地底湖の上には、網の目のように渡り通路のような橋がかけられていた。湖上に浮かぶ街の一角一角を繋いでいる。
その上を歩む人々の服装はどれも、絵画に描かれた古代人を彷彿させるような、布を幾重にも巻いた長衣だ。
まるでその光景自体が一枚の絵のような――全ての時が止まっているかのような、錯覚を覚えた。
橋や街を造っているのは、神殿の礎となっていた鉱石と同じもののようだった。日光の差さない世界に、仄かな青白い輝きを与えている。
「足下にお気を付け下さい、我が君」
その幻想的な光景に見入っていたカイの意識を、アレスクロディエの声が引き戻す。
湖上の街へ伸びる階段は、段の高さが不揃いで、裾にいくほど緩やかになっていた。湖水に侵食されたとおぼしき波状の裾野は、芸術的で、有機的だ。
自然に出来た岩棚を加工し、階段として利用しているのだろう、と推測出来た。
「この石は一体……」
「白光岩です。このあたり一帯の地層を成す岩石で、石材として建築や彫刻にも多く利用されています」
教科書のような説明を受ける。岩自体が発光していることに触れなかったのは、地球からきた人間の目には物珍しく映っても、彼らにとっては当たり前のことだからなのだろう。
階段を降りるにつれ、徐々に近づいてくる街並みに、カイはいよいよ、異世界に紛れ込んだ冒険者のような気分を味わう。
これと似た感覚には、覚えがあった。カイが、初めて〈白き月〉の地表に降り立った時だ。
あの時も、果てしなく荒涼とした大地と、大気のない空、地球よりもはるかに近い地平線を前に、似たような感想を抱いた記憶がある。とはいえ、事前に理解と情報があるかないかでは、その衝撃の度合いは大きく違ったが。
見上げる空は高い。あまりの巨大さに遠近感が狂うが、現在地点からの目視でも、ゆうに200メートルは越えるだろう。
湖上の街並みにばかり気を取られていたが、断崖のような壁際に目を向けると、乳白色の岩棚がせり出し、湖面との間にわずかな陸地を作っていた。
長い年月をかけ、自然発生的に削り出されたのであろう、その白亜の棚の上にも、ちらほらと人の姿が見えた。
彼らの背丈よりも高い棚の壁面に、窓や出入り口と思しき穴が並んでいる。棚の段差部分に横穴を堀り、家として利用しているようだ。それが階段状に積み重なり、穴だらけの蜂の巣のような集落が出来上がっていた。
「あの辺りは古い集落です。今は大半の民が湖上の居住区画に移動していますが、一部そのまま居残った者や、空いた住まいに新たに定住した者たちが暮らしています」
アレスクロディエの言葉に、カイは納得した。
彼らは岩棚を利用した生活から、徐々に人工の湖上都市へと発展していったのだろう。
そんな風に、この不思議な地下国家の歴史に想像を巡らせているうちに、カイ達は湖の上に降り立った。
無機質な直線と曲線を多用した湖上都市の街並みは、どこか近未来的な雰囲気もあったが、地球上の大都市のような、ごちゃごちゃとした生活感は皆無だ。
居住区画同士を繋ぐ湖上道路は、整然と張り巡らされており、無計画な乱開発の影はない。
棚上の集落には、遠目にもやや雑然とした趣が見てとれたが、この湖上都市に関しては、徹底的に、計画された開発を行ったとしか思えない。
だが、その切って貼ったような美しさに違和感を覚えていると、前を歩いていたバーンが急に立ち止まった。
「博士、どうしました?」
「…………」
何か思うことがあるのか、巨大洞窟を睨みつけるようにして見回すバーンからは、返事はない。
こうなると、何を言っても聞こえないだろう。彼との会話は諦め、カイはバーンの背を追い越した。
湖上に伸びる直線的な白い道路を歩く。このあたりは都心から外れるのか、他に人の姿はなかった。
不思議なことに、先頭を歩くアレスクロディエが進むたびに、道脇に設置された街灯が点灯する。
足元の石畳は、青白い輝きを帯びる滑らかな白光岩で出来ており、その上に、等間隔で幾何学的な模様が描かれていた。
アレスクロディエがその上を通る度に、文様が赤く光り、前方の街灯が音もなく辺りを照らし出す。そしてアレスクロディエが通り過ぎてしばらくすると、自動的に消える。その繰り返しだ。
その不思議な仕組みについて聞いてみると、
「霊式です」
それ以上の説明はなく、一言で片づけられた。
「すごい……本当に水だ」
「カイ、あまり身を乗り出すと危ないですよ」
湖上の路に膝をつき、カイはすぐ数十センチ先で、きら光る黒い湖面を指先ですくった。ひんやりとした感触が手になじむ。
「おや……? あれは……」
釘を刺したリーアの方が、何かに気を取られ身を乗り出す。
湖底深くに、何か紅い光がぼんやりと浮き上がって見えた。
「これは素晴らしい」
アレスクロディエが喝采を上げる。
「あれは小マルクレンタ――湖底の最深部にのみ存在し、マルクレンタと同様に霊気を発します。普段はあのような強い光を発することは、まずありません。彼らも、貴方様の選ばれし霊波を感受し、歓迎しているのでしょう」
ふんふん、と頷きながら、カイは集中して男の言葉に耳を傾けた。大分耳慣れてきたとはいえ、専門的な用語を連発されると、さすがに理解するのに時間がかかる。
「あのような妙な石が、あちこちにあるのですか?」
元の脳の出来の差か、早くも順応したらしいリーアが質問する。
「守人に加護を与えるのは、神殿にある巨大な霊核だけです。神殿は、この星の中心である神山の麓、地下深くに存在しています。霊核は、神山の霊脈の影響を受け成長したが故に、あのような神聖な力を得た、といわれています」
詠うように説明した男が、黒衣を翻し、歩を早めた。
路が枝分かれし、やがて小さな街角に入る。
目的地はすぐそこのようだ。




