妖精の国
『妖精の国の鏡』の表面が、まるで水面のようにゆらゆらと波打つ。
「さあ、行くわよ!」
先頭を切って鏡の中に飛び込んだシェリルの後に続き、拓海は苗木の鉢をしっかりと抱え直すと、意を決して鏡の中へと足を踏み入れた。足元にはシロがぴったりと寄り添っている。
冷たい水のカーテンをくぐり抜けたような不思議な感触。
視界を覆っていた眩い光が収まり、ふっと目を開けると――そこは光と緑に満ちた見知らぬ広場だった。
広場の中心には、透き通った水が勢いよく吹き上がる美しい白い噴水。
そこから四方に向かって、綺麗に石畳が敷き詰められた大通りが伸びている。そのうちの一本の通りを辿った遙か先には、青空に映える荘厳な白亜の城がドカンと聳え立っていた。
「うわぁ……すごいな……」
思わず感嘆の声を漏らす拓海。だが、すぐに現実に引き戻され、冷や汗が頬を伝った。
(おそらくあの白亜の城が【妖精女王】の住む王城だろうな。……でも待てよ? 一般人が突然押し掛けて『女王様に会わせてくれ』なんて言ったところで、門前払いされるか、ヘタしたら不審者として捕まるんじゃないか……?)
手元にあるのは、怪しげな鉢植えと、子フェンリル。怪しさ満点である。
どうしようかと広場の真ん中で思案に暮れる拓海を置き去りにして、シェリルは「何してるの! 置いて行っちゃうわよ!」と呆れたように叫び、どんどん城に向かって飛んで行ってしまう。
「あ、待ってくれシェリル!」
慌ててその後を追う拓海。
城の周りを囲む広いお堀に架けられた木製の吊り橋を渡ると、目の前に重厚な城門が見えてきた。
門の扉は豪快に大きく開け放たれているものの、その両脇にはふわふわと空中を浮遊する二人の妖精が、小さな槍を持ってしっかりと門番を務めている。
(やっぱり門番がいる……! なにって声をかければいいんだ? 『怪しい者ではありません』は一番怪しいしな……)
拓海が言葉を選びながら足を緩めた、その時だった。
シェリルは何の躊躇もなく門番の頭上をスルーして城門をくぐり抜け、振り返って拓海に手招きをしたのだ。
「ほら拓海! こっちこっち! 早くー!」
(…………???)
拓海は目が点になった。
もしや妖精の国の王城というのは、驚くべきセキュリティのゆるさを誇る完全フリーパスなのだろうか?
恐る恐る二人の門番の方を見ると、門番たちは拓海とバッチリ目が合うなり、不審がるどころか「にこっ」と非常に好意的な笑みを投げかけてきた。
「お、お邪魔しまーす……」
どうやら突然襲いかかられたり、兵士に囲まれて拘束されたりする心配はなさそうだ。拓海はおっかなびっくり、シロと共に城門を潜り抜けた。
「この時間なら、女王は聖堂にいるはずよ!」
そう言って、迷いのない足取り(飛び取り?)でひらひらと進んでいくシェリル。
美しい薔薇の生垣が続く庭園を抜け、奥へと進んだ先には、壁一面に繊細なステンドグラスが嵌め込まれ、コバルトブルーの屋根が鮮やかに輝く聖堂が建っていた。
シェリルはそこでも一切躊躇することなく、勢いよく聖堂の扉を開け放った。
静寂が包む聖堂内に、パーン!という音が響き渡る。
正面にある聖像の前で、静かに膝を突いて祈りを捧げていた一人の女性が、ゆっくりと立ち上がり、こちらへと振り向いた。
「……あら?」
拓海は息を呑み、その場に立ち尽くした。
身長は拓海よりも少し低いくらい。床につくほど長くしなやかな水色の髪は、毛先に向かうにつれて深く澄んだ海のような濃い青色へと美しいグラデーションを描いている。
髪と同じ色の薄い生地を何枚も重ねた幻想的なドレスは、彼女の動作に合わせて波打つように優雅に揺れていた。
言葉を失うほど神秘的で、圧倒的な神性を纏った美しき女性――。
だが、感動に打ち震える拓海の隣を、シェリルが「お姉さまー!」と弾丸のようなスピードで通り抜けていった。そしてそのまま女性の華奢な肩の上にチョコンと飛び乗ると、誇らしげに胸を張って拓海の方を指差した。
「お姉さま、あの人が今朝話した拓海よ! 拓海、紹介するわ。【妖精女王】よ!」
(妖精女王が……お姉さま!? ってことはシェリルは、妖精の国の王女様なのかーーーーー!?)
脳内で大音量のツッコミが吹き荒れた。
どうりで城門の門番が一人も止めないわけである。王女様が「自分の客」として堂々と連れてきた人間を止める門番などいるはずがない。
拓海の足元で、シロも「わんっ?」と首をかしげ、あまりの衝撃に固まっている拓海と、優しく微笑む妖精女王の姿を交互に見つめているのだった。
「ごほん……はじめまして、女王さま。俺はクラフターの拓海といいます」
シェリルが王女様だったという衝撃を必死に押し殺し、気を取り直して頭を下げた拓海。だが、挨拶を終えてふと顔を上げた彼の目に、女王のすぐ背後に鎮座する巨大な聖像が飛び込んできた。
「ぶふーっ!?」
拓海は盛大に吹き出した。
(な、ななな……なんであいつがここにいるんだーーーーー!?)
そこにあったのは、あの異世界転生するときに拓海の目の前で「ムキーンッ!⭐︎」とポーズを決めていた、あの大胸筋の上に載っていた顔とそっくり同じ優美な美貌だった。
しかし、聖像の体は間違ってもあのはち切れそうなマッスルボディではない。その繊細で美しい顔立ちに相応しい、しなやかで均整の取れた細身の長身である。そしてその表情もまた、あの暑苦しく圧の強い笑顔ではなく、世界を優しく包み込むような慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
突然吹き出した拓海に対し、妖精女王はおっとりと頬に白く細い手を当て、首を傾げた。
「あら……? 創造神ナルキッソス様の聖像が、どうかしたかしら……?」
「うぐっ……あ、いや……」
(そうだった……! そういえばあの大胸筋、「自分が創造神として管理する世界に転生させてやる」って言ってたっけ……)
「い、いやぁ、なんでもありません! とても素晴らしい神像だなと思いまして! ハハハ……」
拓海は顔を引きつらせ、乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
◇
「まあ……そんなことが。フェンリル様が病に倒れられるなんて……。我らを頼ってくださればよかったのに」
場所を城の庭園にある、白い薔薇に囲まれた優雅なガゼボへと移し、拓海とシロはこれまでの事情を説明した。
話を聞いた女王は、その整った顔を痛ましげな悲しみに染めた。
どうやら太古の昔から、気高き神獣フェンリルの一族と妖精国には深い親交があるらしい。シロも女王の悲しそうな顔を見て、「くぅん……」と申し訳なさそうに小さく鳴いて首を垂れた。
そんな女王の前に、拓海は抱えてきた粘土の鉢植えをそっと差し出した。
「このフェンリルの子が言うには、この木になる実を食べればどんな病気も治るそうなんです。ただ……植えてからずっとこのままで、どうすれば育つのか分からなくて。何かご存知でしたら、教えていただけないでしょうか」
拓海が尋ねると、女王はアクアマリンのように透き通った瞳で、じっと苗木を見つめた。
その美しい瞳に神秘的な光が宿り、やがて優しく息を呑む。
「これは……間違いありませんわ。【世界樹】の苗木です」
「世界樹……!?」
拓海は驚きに目を見開いた。
まさか自宅の庭に何気なく植えていた謎の苗木が、世界を支えると言われる伝説の神樹だったとは。
「世界樹の実――【神樹の果実】は、あらゆる病や呪いを一瞬で打ち払う至高の霊薬となります。フェンリル様の病を治すには、確かにこの実が必要ですわ」
女王は慈愛に満ちた眼差しでシロを見つめた後、少しだけ表情を曇らせて続けた。
「ですが、世界樹の苗木を芽吹かせ、実をならせるには特別な【触媒】が必要です。ただのお水や日光では、百年経っても育ちません」
「特別な触媒……? それはいったい何なんですか、女王さま!」




