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おともりのやしろ  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater


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9/13

第9話「笛の名前」


 十月に入り、三度目の土曜を迎えていた。


 毎週の掃除は習慣になっていた。石段を掃き、拝殿を拭き、社務所の片づけを少しずつ進め、鳥居の前で三人で鈴を鳴らす。ケンジは毎回、扁額の写真を撮り、前回との比較を手帳に記録している。


 三週目にして、変化は明確だった。


 扁額の凹凸が深くなっている。一週目はケンジのスマートフォンのライトを斜めから当てないと見えなかった溝が、今は自然光でも分かる。文字の輪郭が、水面に浮かぶ墨跡のようにゆっくりと形を取り戻し始めていた。


 だがまだ読めない。


「あと何回鳴らせば読めるようになるんだろう」


「推測だが、今の速度なら年内には輪郭が確定すると思う。ただ、読めるかどうかは別の問題だ。元の文字が漢字なのか、それ以前の記号なのか」


「地底湖の岩にあった文字と同じやつかもしれないよね」


「可能性はある。だとすると、読めるのはキミだけだ」


 キミは鳥居の柱にもたれて、扁額を見上げていた。目を細めている。聞いているのか、見ているのか、その区別はキミの中では曖昧らしい。


「文字が戻ってきてるのは分かる。でもまだ声が小さい。もう少し」


 掃除を終え、昼食を食べ、午後は社務所の奥を片づけた。先週から社務所の床板の下に古い箱が見つかっていて、今日はそれを開ける予定だった。


 箱は桐製で、蓋に墨で何か書かれていたが、字が滲んで読めない。ケンジが慎重に蓋を開けた。


 中に、紙の束が入っていた。


 和紙。巻物ではなく、切り揃えられた短冊状の紙が重ねて入れてある。紐で束ねられ、上から油紙で包まれていた。油紙のおかげで湿気から守られたのか、紙の状態は比較的良い。


 ケンジが一枚目を取り出した。墨の字。筆の運びが柔らかく、明治の帳面とは違う書き手だ。


「これは——名簿か?」


 人名が並んでいた。姓と名、それからその横に小さく役割らしい言葉が添えてある。「守」「記」「憶」という一文字が、名前の後に振られている。


「守、記、憶。聞く者、記す者、忘れざる者だ。歴代の三人組の名簿だ」


 アイコが覗き込んだ。紙は何枚もあり、それぞれに三人ずつの名前が書かれている。一枚が一世代なのだろう。一番上の紙は字が新しく、下に行くほど字が古くなる。


「全部で何組ある?」


 ケンジが丁寧に数えた。


「十七組。一番下の紙は……字体から見て、江戸中期か、もしかするともっと前だ。一番上は——」


 一番上の紙を読んだ。


「大正八年。守、川島タエ。記、藤堂源一郎。憶、三上ハナ」


「川島」


 アイコがキミを見た。


「キミの家の名字じゃん」


 キミの顔から血の気が引いた——わけではなかった。むしろ逆だった。目を大きく開いて、紙を食い入るように見つめている。驚きではなく、確認。自分が薄々感じていたことが文字になって現れた、という顔だった。


「おばあちゃんのおばあちゃん……くらいかな。大正八年なら」


「川島の家系に、代々の守がいた可能性がある」


「おばあちゃんに訊けば何か分かるかも」


「訊いてみよう。だが今は、この名簿を全部読み取ることが先だ」


 ケンジは一枚ずつ写真に撮り、文字を書き起こしていった。アイコとキミはその横で紙を支え、光の角度を調整した。


 十七組の名前。五十一人の守と記と憶。この小さな名もない神社を、少なくとも江戸の中頃から大正まで、途切れることなく守ってきた人々の名前。


「大正八年で途絶えてる。次がない」


「大正八年から今年まで……百七年か。その間、守がいなかった」


「スペイン風邪だ」


 ケンジが呟いた。


「大正七年から八年にかけて、スペイン風邪が日本を襲ってる。このあたりの山間部は医療が乏しくて、集落単位で壊滅的な被害を受けた地域もある。三人が同時に死んだか、後継ぎを育てる前に亡くなったか」


「百年以上、誰もいなかった。フエが一人で待ってた時間と同じだ」


 アイコの声が震えた。


 名簿の一番下の紙。最も古い世代。字は崩れていて、ケンジでも読みにくい。だが三人の名前のうち、「守」の横に書かれた名前だけは、他の二つよりも太く、力を込めて書かれていた。


「これ、読める?」


 ケンジが目を細め、紙に顔を近づけた。


「笛……。笛吹、いや、笛守? 名字じゃない。名前だ。名前の部分に『笛』の字が入ってる」


「笛」


 三人が同時に黙った。


 フエ。


 あの子供につけた名前。笛を吹いていたから、フエ。適当に思えたその名前が、最初の守の名前と重なっている。


「偶然か?」


「偶然じゃないと思う」


 キミが言った。静かに。確信を持って。


「あの子は最初の守だった。一番古い世代の、聞く者。名前を忘れたって言ってたけど、体は覚えてた。笛を吹くことで場所を呼び続けてた。名前がなくなっても、音が残ってたから」


「最初の守が、最後まで一人で場所を守ってた——」


「百七年間。もっと前から数えたら、もっと長いかもしれない。歴代の守が全員いなくなって、フエだけが残った。名前を忘れて、姿も小さくなって、それでも笛を吹いて、おまつりを続けてた」


 アイコの目から涙がこぼれた。今度はこらえなかった。


「名前、分かるかな。もっとちゃんと読めば」


 ケンジが最も古い紙をもう一度丁寧に確認した。崩し字を一画ずつ追っていく。唇が動いている。一文字ずつ音に変換しながら。


「……笛子。ふえこ、と読むのか。いや、ちがうかもしれない。もう一文字ある。小さくて」


 紙の端に、墨が薄く滲んだ文字がある。名前の後に添えられた、注釈のようなもの。


「『幼名』と書いてある。その横に——」


 ケンジのペンが手帳の上を走った。紙の文字と見比べながら、一画ずつ再現していく。


「フエ。片仮名で、フエ。幼名がそのまま通り名になってる。正式な名前は別にあったはずだが、みんなに呼ばれていたのがフエで、だから記録にもフエと残ってる」


「フエはフエだったんだ。最初から」


 アイコは鈴を取り出した。赤い鈴。フエが最初にくれた鈴。りんご飴の屋台で、飴に包まれた鈴を差し出してくれた、あの小さな手を思い出す。


「ケンジ。名前を呼んでみていい?」


「呼ぶ? ここで?」


「だって、誰も呼んでくれなくなったから忘れちゃったって言ってたじゃん。もう名前が分かったんだから、呼んであげたい」


 ケンジはキミを見た。キミは頷いた。


 アイコは社務所の真ん中に立ち、鈴を胸の前で握り、目を閉じた。


「フエ」


 声が埃っぽい社務所の空気に溶けた。何も起きない。


「フエ。名前、分かったよ。あんたの名前、フエだよ。私たちがつけたんじゃなかった。最初からそうだった」


 赤い鈴が震えた。アイコの手の中で、物理的に。金属が共振するような微かな振動。それから——匂い。りんご飴の匂い。甘くて、少しだけ焦げていて、夏の夜の屋台の匂い。


 社務所の隅に、光が灯った。


 小さな光。蛍のような、灯明のような、淡い橙色の光。それが一つ、二つ、三つと増えて、社務所の天井近くを漂った。


 声が聞こえた。


 遠くから。水の底から昇ってくるように。子供の声。甲高くて、透明で、嬉しそうな声。


「——呼んでくれた」


 光が集まり、人の形を取りかけた。だが完全には現れなかった。輪郭だけ。フエの輪郭だけが、光の中にうっすらと浮かんでいる。


「フエ!」


「ありがとう。名前、あったんだね。ぼく、フエだったんだね」


「そうだよ。最初の守なんだよ、あんた」


「うん。思い出した。思い出し始めてる。名前を呼んでもらえると、少しずつ戻ってくるの。指の先から。足の裏から」


 光の輪郭が揺れた。笑っている。


「でもまだ全部は戻れない。もう少しかかる。この場所がもっと元気になったら、ちゃんと出てこられると思う」


「扁額の文字が戻ったら?」


「うん。あの文字がこの場所の心臓だから。心臓が動いたら、ぼくも動ける」


 光が薄れていく。声も遠くなる。


「また来てね。掃除、ありがとう。石段きれいになってたの、分かったよ。嬉しかった」


「毎週来るから。当番表も作ったから」


「当番表! すごい。ケンジが作ったの?」


「エクセルで」


 フエが笑った。笑い声が反響して、社務所の壁を柔らかく震わせて、消えた。


 光が消えた。匂いが消えた。社務所はただの埃っぽい古い部屋に戻った。


 三人は床に座り込んでいた。


 アイコが泣いていた。嬉しくて。


 キミは目を閉じて、鈴を耳に当てていた。金の鈴の中で、フエの笛の旋律が小さく鳴っている。


 ケンジは手帳を開いた。


「十月第三土曜。扁額、凹凸さらに明瞭化。社務所にて桐箱発見。歴代名簿十七組を確認。最古の守の幼名は『フエ』。本人との接触に成功。姿は光のみ、声あり。復帰の条件——扁額の文字の完全な復元」


 書き終えて、ケンジは小さく付け加えた。


「フエ——おかえり」


 記録者が記録の外に出た言葉。手帳の余白に、他の文字よりも少しだけ大きく書かれたその二文字を、アイコは横から覗き見て、何も言わずに笑った。


 帰り道、石段を下りながら、アイコは空を見上げた。夕焼けが西の空を染めている。この季節の夕焼けは、夏よりも透明度が高くて、色が深い。


「来週はさ、おばあちゃんにも会いに行こうよ」


「うん。訊きたいこと、いっぱいある」


「帳面のコピーも見せよう。川島タエのこと、何か知ってるかもしれない」


「ケンジ、コピーって——まさか郷土資料室の帳面、スキャンしたの?」


「全ページ。解像度600dpiで」


「どこまで用意がいいの」


「これくらいは普通だ」


 バス停に向かって歩きながら、アイコはポケットの中の赤い鈴を触った。温かい。フエの声を聞いたからか、鈴の温度が少し上がっている気がする。気のせいかもしれない。


 でも気のせいでもよかった。


 名前を呼んだら、あの子が笑った。それだけで、今日は来た甲斐があった。



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