第8話「落ち葉と扁額」
土曜日の朝は曇っていた。
アイコは七時に起きた。休日に七時はありえない。だが目覚ましが鳴る前に目が覚めた。ポケットの中の赤い鈴が、微かに温度を上げていた気がする。気のせいかもしれない。
バス停でケンジと合流した。彼は黒いジャージの上下に、リュックを背負っていた。中身を訊くと「掃除道具」と答えた。
「コンビニで軍手とゴミ袋を買った。あと箒が要るが、さすがに持ってこれなかった」
「箒は現地調達でしょ。竹箒くらいあるんじゃない、社務所に」
「二年間誰も使ってない竹箒が機能するかは疑問だが」
キミはバス停には来なかった。山道の入り口で待っていた。白いTシャツにジーンズ。髪をひとつに結んでいる。普段着のキミを見るのは久しぶりだった。着物姿の印象が強くなりすぎていて、Tシャツ姿がかえって新鮮に見える。
「おはよう」
「おはよう。顔色いいね」
「三日ぶりに八時間寝た」
鈴を分けてから四日。キミの体調は目に見えて回復していた。鼻血は出ていない。食欲も戻った。昨日の昼休みには購買でメロンパンを二つ買って、一つをアイコにくれた。
山道を登る。九月の山は、夏の濃い緑から少しだけ色が退き始めていた。足元に栗のいがが落ちている。蝉はもう鳴いていないが、秋の虫はまだ本調子ではなく、山は奇妙に静かだった。
石段の下に着いた。二十三段。苔が石の表面を覆い、落ち葉が積もって段の形が見えなくなっている箇所がある。
「まずここからだな」
ケンジがリュックから軍手とゴミ袋を出した。三人ぶん。アイコは軍手をはめ、石段の落ち葉を手で払い始めた。竹箒は後で探す。まず手作業だった。
一段目。杉の枯葉と、楓の葉と、名前の分からない蔓草が絡まっている。アイコが葉を払い、キミが蔓を引き剥がし、ケンジがゴミ袋に詰める。三人の作業は自然に分担が決まった。誰が指示したわけでもない。
五段目あたりで、アイコの手が止まった。
「ねえ。この石段、前はこんなにボロボロだったっけ」
「元々古いだろう」
「そうだけど。なんか、もっとひどくなってない? ここ、先月来たときは欠けてなかった気がする」
ケンジがしゃがみ込んで石の表面を見た。確かに、段の角が崩れている箇所がある。風化とは少し違う。内側から脆くなったような崩れ方。
「祭りが終わったからかもしれない」
キミが言った。手袋をした手で、崩れた石の断面を撫でている。
「名前を呼んだから消えなくて済んだけど、おまつり自体は終わった。維持する力が弱まってるのかも」
「つまり、この神社は今も少しずつ崩れてるってこと?」
「崩れてるというか、忘れられていく速度に負け始めてる。名前があっても、場所そのものが朽ちたら意味がないから」
三人は黙って石段の掃除を続けた。
十三段目で竹箒を思い出し、アイコが社務所に走った。社務所の引き戸は錆びた鍵がかかっていたが、力を入れたら枠ごと外れた。中は埃だらけで、蜘蛛の巣が天井の隅を飾っている。棚の奥に竹箒が二本あった。一本は柄が腐っていたが、もう一本はまだ使えた。
石段を掃き終わったのは十時過ぎだった。二十三段に二時間かかった。だが掃き終えた石段は見違えるほど綺麗で、苔の緑と石の灰色が交互に並ぶ模様がはっきり見えた。
「いい階段じゃん」
「元はな。手入れする人がいれば」
拝殿に上がった。床板の落ち葉を掃き出し、蜘蛛の巣を払い、埃を拭いた。ケンジが持ってきた雑巾は三枚で、三人で一枚ずつ使った。縁側の板を拭いていると、木目が浮かび上がってきた。古いが、良い木だった。
昼前に、鳥居の前に立った。
扁額。あの朝、朝日が当たったときに一瞬だけ文字が浮かんだ扁額。今は曇り空で、直射光がない。文字は見えない。ただ、風雨に削られた表面に、かすかな凹凸があるのは分かる。
「削れてるんじゃなくて、消えていってるんだと思う」
キミが扁額を見上げて言った。
「物理的に風化したんじゃなくて、文字を覚えている人がいなくなったから、文字そのものが薄れた。石段と同じ理屈」
「じゃあ鈴を鳴らしたら見えるかもしれない?」
「……試してみる?」
三人はそれぞれの鈴を取り出した。アイコの赤い鈴、ケンジの銀の鈴、キミの金の鈴。鳥居の正面に並んで立ち、同時に振った。
音が鳥居の柱を伝った。
振動が木を走り、笠木を昇り、扁額に届く。扁額の表面が微かに揺れた——ように見えた。木の繊維の一本一本が音に反応して、忘れかけていた形を思い出そうとしているように。
文字は浮かばなかった。
だが、凹凸が少しだけ深くなった気がした。ケンジがスマートフォンで写真を撮った。
「今日のぶんはこれだけだ。一回で全部戻るとは思ってなかった」
「定期的に鳴らせば、少しずつ戻る?」
「帳面にはそういう記述はない。だが、理屈の上ではありうる。名前を維持する力が鈴にあるなら、場所を維持する力もあるかもしれない」
「実験だね」
「実験だ」
ケンジが手帳に記録した。日付、天気、鈴の合奏回数、扁額の状態。写真のファイル名も添えて。
昼食は石段の途中に座って食べた。アイコがコンビニで買ってきたおにぎりとお茶。キミは祖母が作った弁当を持ってきていて、卵焼きをアイコとケンジに分けた。
「ケンジの卵焼き甘い派? しょっぱい派?」
「どちらでも」
「キミのおばあちゃんの卵焼きは甘いやつだよ。出汁が効いてるの」
「食えば分かる」
ケンジは卵焼きを一口食べて、少し間を置いてから言った。
「美味い」
「でしょう」
キミが嬉しそうに笑った。
食後、アイコは石段に寝転がって空を見上げた。曇り空の隙間から、時折青が覗く。杉の梢が風に揺れている。鈴を胸の上に置くと、微かに震えている。風のせいか、自分の心臓の鼓動のせいか、それとも鈴自身の呼吸か。
「ねえ、フエのこと考えてたんだけど」
「何を」
「フエ、名前を忘れたって言ってたじゃん。誰も呼んでくれなくなったからって。でもあの帳面に、この神社のことが書いてあったってことは、明治の時点ではまだ誰かが覚えてたわけでしょ」
「ああ。明治十二年に記録を残した人間がいた。少なくともその時点では、守の制度も、鈴のことも、知っている人がいた」
「じゃあ、そこから今までのあいだに途絶えたんだ。百四十年くらいの間に」
「戦争があった。この辺りの集落も疎開や空襲で人が散ってる。戦後に戻ってこなかった家もある。伝承が途切れるのに、百四十年は十分すぎる時間だ」
「フエは——あの子はその間ずっと一人で待ってたのかな」
誰も答えなかった。
風が吹いて、杉の枝から葉が一枚落ちた。掃いたばかりの石段の上に。
「また掃かなきゃ」
アイコが笑った。
「来週も来よう」
「ああ」
「うん」
三人は午後も掃除を続けた。社務所の中を片づけ、渡り廊下の蜘蛛の巣を払い、本殿の扉の蝶番に油を差した。ケンジが持ってきた小さな油差しは、掃除道具の中に紛れていた。準備がいい。
本殿の扉は、祭りの三日間あれほど大きく開いていたのに、今は固く閉じていた。油を差して動かしてみると、重いが開く。中は——普通だった。畳の間が一つ。正面に祭壇。榊が枯れている。御神体は、白い布に包まれた丸い石だった。
「普通だ」
「表側はな」
あの闇は、もうない。灯明の参道も、夜店も、奥宮も、地底湖も。扉の向こうはただの古い本殿で、埃の匂いだけがする。
「おまつりが終わったから、道が閉じたんだと思う。でも、なくなったわけじゃない。鈴の中にあるから」
キミが金の鈴をそっと振った。微かな音。本殿の空気が、ほんの一瞬だけ冷たくなった。あの地底湖の、鉱物質の冷気。一秒で消えたが、確かに触れた。
「あるね」
「ある」
夕方、石段を下りて帰路についた。山道は夕暮れの橙色に染まっていた。
「来週の土曜も来る?」
「来る」
「来る」
「じゃあ当番表作ろうよ。毎週掃除して、鈴も鳴らして。そしたら少しずつ扁額の文字も戻るかも」
「当番表は俺が作る」
「ケンジに任せたら全部エクセルになるやつ」
「何が悪い」
「悪くないけど笑っちゃうの」
バス停でキミと別れた。キミは集落のほうへ歩いていく。背中が小さい。でも先週よりも真っ直ぐだった。
バスの中で、アイコはケンジの隣に座った。普段は一つ空けるのに、今日は隣だった。ケンジは何も言わなかった。
「ケンジ」
「なんだ」
「帳面にさ、『守』って書いてあったでしょ。聞く者と、記す者と、忘れざる者。三人で一組の」
「ああ」
「私たち、それなんだよね。今」
「そうだろうな」
「それってさ。ずっとってこと?」
ケンジはバスの窓の外を見ていた。町の灯りが流れていく。しばらく黙ってから、答えた。
「俺は構わない」
それだけだった。でも、アイコにはそれで十分だった。
バスが町に着いた。降りるとき、ポケットの中の赤い鈴が揺れた。りんご飴の匂いが、一瞬だけ。




