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おともりのやしろ  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater


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第10話「タエの孫」


 キミの祖母の名前は、川島シズといった。


 八十三歳。背中は曲がっているが、耳は遠くなく、目も悪くない。毎朝五時に起きて庭の草を引き、畑の茄子に水をやり、六時半に味噌汁を作る。キミが学校に行っている間は、一人でテレビの時代劇を観るか、近所の寺の掃除を手伝いに行く。信心深いというよりも、じっとしていられない性分なのだろうとアイコは思った。


 十月最後の土曜日。神社の掃除を午前中に終え、三人はキミの家を訪ねた。


 居間の座卓にお茶と羊羹が並んだ。シズは三人の顔を見て、「またご飯食べてくかい」と訊いた。アイコが「はい」と即答したのをケンジが横目で見たが、何も言わなかった。


「おばあちゃん。今日はちょっと訊きたいことがあるの」


「なんだい」


「川島タエっていう人のこと」


 シズの手が止まった。羊羹を切っていた包丁が、まな板の上で静止した。三秒ほど。それからゆっくりと切り終えて、小皿に載せた。


「タエさんはね、おばあちゃんのおばあちゃん」


「知ってるの?」


「もちろんだよ。タエばあちゃんが亡くなったのは、おばあちゃんが七つの時だったから。顔も覚えてる。小さい人でね、でも声だけは大きかった」


 シズは茶をすすり、目を細めた。古い記憶を引き出すときの目だった。


「タエばあちゃんはね、変わった人だったよ。山の上の神社の話ばっかりしてた。あそこは大事な場所だから、ちゃんとしなきゃいけないって。でもおばあちゃんが子供の頃にはもう、あの神社に行く人なんて誰もいなくてねえ。道も草で埋まっちゃって」


「タエさんは、あの神社で何をしてたの?」


「さあねえ。掃除してたのは覚えてるよ。一人で山に登って、戻ってくると手が泥だらけでね。それから、鈴を持ってた」


 三人の空気が変わった。アイコの膝の上で、拳が固くなった。


「鈴」


「うん。きれいな鈴。三つ持っててね。いつも懐に入れてた。おばあちゃんが触りたがると、『これはおばあちゃんのじゃないからね、いつか渡す人が来るまでは誰にも触らせないよ』って」


「三つの鈴を、一人で」


「そう。タエばあちゃんの前にはね、三人でやってたらしいんだよ。でもお仲間の二人が——ええと、なんて名前だったかねえ。男の人と、女の人。その二人が先に亡くなって、タエばあちゃんだけ残っちゃったって。流行り病で」


「スペイン風邪」


 ケンジが言った。シズは頷いた。


「そうそう。あの頃はひどかったって。この集落だけで十何人亡くなって。タエばあちゃんは生き残ったけど、お仲間を二人とも失くしてね。それから何十年もの間、ずっと一人であの山に登ってた」


 アイコは手で口を押さえた。


 キミが一人で三つの鈴を持って壊れかけた——あの一週間を思い出した。あれがもし、何十年も続いたとしたら。


「タエばあちゃんは、その……体は大丈夫だったの?」


「大丈夫じゃなかったよ」


 シズの声が静かになった。


「年を取るにつれて、ぼんやりすることが増えてねえ。誰もいないのに誰かと話してたり、夜中に急に起きて山に行こうとしたり。今で言うと認知症だったのかもしれないけど、おばあちゃんは子供だったから分からなかった。ただ、タエばあちゃんが時々泣いてるのだけ覚えてる」


「泣いてた」


「うん。鈴を握りしめてね。三つの鈴を両手で包んで、何か——声みたいなものを出しながら。歌じゃないし、お経でもないし。ただ、うーって。低い声で、長く」


 キミの目が潤んでいた。


「名前を呼んでたのかもしれない」


 シズはキミを見た。


「キミちゃんも、同じことしてるのかい」


 三人が黙った。シズは羊羹の皿を動かし、座卓の上に両手を置いた。穏やかだが、真っ直ぐな目で三人を見渡した。


「おばあちゃんはね、タエばあちゃんの話を、ずっとただのボケだと思ってたんだよ。山の神社がどうの、鈴がどうの、三人で守らなきゃいけないって。でもキミちゃんがこの家に来てからね、あれ、と思うことが増えてね」


「私が来てから?」


「キミちゃん、夜中に窓の外を見てることがあるだろう。山のほうを。おばあちゃん、何回か見たよ。それがね、タエばあちゃんと同じ目なんだ。聞いてる目。何かが聞こえてて、それに応えようとしてる目」


 キミは何も言えなかった。


「鈴のことは知らなかった。タエばあちゃんが亡くなったとき、遺品の中に鈴はなかったから。たぶん、山に返したんだろうね。自分じゃもう持てないって分かって」


「社務所の桐の箱——」


「ああ。おばあちゃんは箱のことも知らなかった。でもタエばあちゃんならやりそうだよ。大事なものは全部あの山に置いてきたんだろうね。いつか、次の三人が来るまで」


 シズは茶を飲み干し、立ち上がった。


「ちょっと待っててね」


 奥の部屋に消えて、しばらくしてから戻ってきた。手に、小さな布の包みを持っている。


「これはね、タエばあちゃんの形見。遺品整理のときに、おばあちゃんがこっそり取っておいたもの。鈴じゃないけど」


 布を開いた。中に、一枚の紙片があった。和紙の切れ端で、端が焼けて茶色くなっている。墨で文字が書かれている。


 ケンジが身を乗り出した。


「これは——」


 文字は三行だった。


 一行目。「守 フエ」。

 二行目。「記 ソラ」。

 三行目。「憶 ツチ」。


「最初の三人の名前だ。名簿の一番下の紙と同じ——いや、これはその写しか。タエさんが自分用に書き写したものだ」


「フエ、ソラ、ツチ」


 アイコが声に出した。笛と、空と、土。


「みんな自然のものの名前だ」


「この場所を作った最初の三人。聞く者がフエ、記す者がソラ、忘れざる者がツチ」


「フエだけが残ったのは——」


「土に染みこんだ記憶は最後まで残るって、フエが言ってた。でも空の記憶は風に散って、土の記憶は地面に溶けて、音の記憶だけが鈴の中に閉じ込められて残った。だからフエだけが形を保っていた」


 キミは紙片を見つめていた。指が震えている。


「ソラとツチは——もう、いないの?」


「分からない。消えたのか、それとも別の形で残っているのか。フエが知ってるかもしれない」


 シズが三人を見た。


「おばあちゃんに手伝えることがあるなら言っておくれ。タエばあちゃんの代わりにはなれないけれど、この家にある古いものなら、なんでも見せるから」


「ありがとうございます」


 ケンジが頭を下げた。彼が自分から目上の人間に礼を言うのを、アイコは数えるほどしか見たことがない。


「それとね」


 シズが台所に向かいながら振り返った。


「晩ごはん、肉じゃが作るから。三人とも食べてきなさい。神様の面倒を見るのも大事だけど、体が資本だからね」


「はい」


 三人が声を揃えた。


 食後、アイコとケンジは帰路についた。キミは玄関で見送った。


「ねえ」


 アイコが振り返った。


「ソラとツチのこと、フエに訊こう。来週」


「うん」


「三人の名前が全部分かれば——最初の三人の名前が全部揃えば、何かが変わるかもしれない」


「そうだね」


「キミ。おばあちゃんにもっといろいろ訊いてみて。タエさんのこと。他にも何か残ってるかもしれないから」


「うん。訊いてみる。おばあちゃん、嬉しそうだったから。タエばあちゃんの話を聞いてくれる人がいて」


 アイコは手を振った。ケンジは軽く頭を下げた。二人がバス停に向かって歩き出すと、キミの声が追いかけてきた。


「アイコ」


「なに」


「ありがとう。おばあちゃんに訊こうって言ってくれて」


「当たり前でしょ。チームなんだから」


 キミが笑った。玄関の灯りの下で、彼女の横顔はもう透けていなかった。頬に血の色があり、目に光があった。


 バスの中で、ケンジが手帳を開いた。今日の記録を書いている。


「ケンジ」


「なんだ」


「ソラとツチって、もし消えてなかったとしたら、どこにいると思う?」


「推測にしかならないが——」


 ケンジはペンを止めた。


「フエが言ってた。声が消えて、顔が消えて、最後に影が消える。その順番で忘れられると。ならその逆に——影だけが残っている可能性はある」


「影」


「影か、あるいはもっと薄い何か。あの神社の石畳の隙間とか、石灯籠の火の揺れ方とか。場所に染みた形で残っているなら、見つけられるかもしれない」


「見つけたら、名前を呼べば戻ってくる?」


「フエがそうだったなら、同じ理屈が通じる可能性はある」


 アイコは窓の外を見た。町の灯りが流れていく。ポケットの赤い鈴が、微かに温かい。


「全員揃えたいね」


「ああ」


「そしたらフエも寂しくないし、神社ももっと元気になるかも」


「根拠はあるのか」


「ない。でもそう思う」


「お前、キミと同じこと言うな」


「似てきたのかも。三人でいると」


 ケンジは何も言わなかったが、口の端がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。



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