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おともりのやしろ  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater


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第6話「器のひび」


 異変は、翌週の月曜日に始まった。


 一限目の現代文。教師が太宰治の一節を朗読している最中に、キミが鼻血を出した。


 静かだった。本人すら気づいていなかった。隣の席の女子が小さく悲鳴を上げて、ようやくキミが自分の唇に触れ、指先が赤く染まっているのを見た。


「保健室行きなさい」


 教師に促されて、キミは席を立った。ハンカチで鼻を押さえ、教室を出ていく後ろ姿は落ち着いていたが、アイコは見逃さなかった。キミの左手が、スカートのポケットの中で何かを握りしめていること。鈴だ。三つの鈴を、あの夜からずっと持ち歩いている。


 昼休みに保健室を訪ねると、キミはベッドに横たわっていた。カーテン越しに声をかけると、「入っていいよ」と返ってきた。声がかすれている。


「大丈夫?」


「うん。止まったから」


 キミの顔色は白かった。白いというよりも、透けている。もともと色の白い子だったが、今は頬の下の血管が薄く見えるほどだった。


「鈴、置いたほうがいいんじゃない? 家に」


「置けないの。離すと聞こえなくなる。聞こえなくなると、名前を忘れる」


「忘れたら——」


「おまつりが消える。全部」


 アイコは何も言えなかった。


 放課後、ケンジを呼び出した。校舎裏の非常階段の踊り場。二人きりで話すのは珍しかった。いつもキミがいるから。


「キミの鼻血、見た?」


「見た」


「あれ、普通じゃない。今朝だけじゃなくて、先週の金曜も体育の時間に座り込んでたし、木曜は購買に行く途中でふらついてた。気づいてた?」


「気づいてた」


 ケンジは手すりに背を預け、空を見上げた。秋が近い。空が高くなっている。


「手帳に書いてある。祭りの翌日から、キミの体調変化を記録してる」


「なんで言わないの」


「証拠がないからだ。鈴と体調の因果関係を、俺は証明できない。キミに根拠なく鈴を手放せとは言えない」


「根拠とかじゃなくて——」


「分かってる」


 ケンジの声が低くなった。


「分かってるんだ、アイコ。俺は記録することしかできない。キミが壊れていく過程を、日付と時刻を添えて書き留めることしか。それがどれだけ——」


 彼は言葉を切った。眼鏡を外し、目頭を指で押さえた。ケンジが言葉に詰まるのを、アイコは初めて見た。


「ケンジ」


「……なんだ」


「記録するだけが、あんたの仕事じゃないよ」


「じゃあ何をしろって言うんだ」


「一緒に考えてほしいの。キミが壊れないで済む方法を」


 ケンジは眼鏡をかけ直した。レンズの向こうの目が、アイコを真っ直ぐに見た。二年半の付き合いで、彼がこんなふうに人の目を見ることはほとんどなかった。


「分かった。考える」


 水曜日。キミは学校を休んだ。


 LINEは既読がつくが、返事は「だいじょうぶ」の六文字だけ。アイコは放課後にキミの家に行った。キミの家は神社から一番近い集落にある古い一軒家で、祖母と二人暮らしだった。両親は離婚していて、父は東京、母の所在は知らない。


 祖母が玄関で応対した。小柄で、背中が曲がっているが、目は鋭い。


「キミちゃんなら二階にいるよ。でもね、あの子、昨日からずっと何か聞いてるみたいで。話しかけても上の空でねえ」


 二階の部屋の前でノックした。返事がない。ドアを開けた。


 キミは窓辺に座っていた。膝を抱え、額を窓ガラスに押し当てている。両手に鈴を握っている。目は開いているが、焦点が合っていない。どこか遠くを見ている——いや、どこか遠くを聞いている。


「キミ」


 反応がない。


「キミ」


 もう一度呼んだ。キミの瞳がゆっくりとアイコに向いた。その焦点が合うまでに数秒かかった。


「……アイコ?」


「うん。アイコ。ここにいるよ」


「ここ……ああ、部屋か。ごめん。ちょっと、遠くにいた」


「遠くって、どこ」


「地底湖。ずっとあの音が鳴ってて。踊りの太鼓も、フエの笛も、水が岩を打つ音も。全部同時に、ずっと」


 キミの目の下の隈は、もう化粧では隠せないほど濃くなっていた。唇が乾いて、皮が剥けている。鈴を握る指の関節が白い。


「眠れてないの?」


「眠ると、もっとはっきり聞こえるの。夢の中だと、あの場所にいるのと同じだから。夜店の人たちが歩いてて、踊りの人たちが足を踏み鳴らしてて、湖の底から名前がずっと響いてて。起きてるほうがまだましなの」


 アイコはキミの隣に座り、その肩に手を置いた。骨が浮いている。先週よりも痩せている。


「鈴、少しだけ預かる。三十分だけ。その間に寝て」


「だめ。離したら——」


「三十分で返す。約束する。キミ、このままじゃ体が持たない」


 キミの目に涙が浮かんだ。あの祭りの三日間、一度も泣かなかったキミが。地底湖で名前を呼んだときも、フエが消えたときも泣かなかったキミが。


「……怖いの、アイコ」


「何が」


「忘れるのが。三十分離しただけで、あの声が遠くなって、名前が薄れて、取り返しがつかなくなるかもしれないのが」


「忘れないよ。だって私も聞いたもん。ケンジも書いたもん。キミ一人の記憶じゃない」


 キミの指から、力が抜けた。


 アイコは三つの鈴を受け取った。掌に載せた瞬間、重さを感じた。物理的な重さではない。鈴の中に詰まった音が、掌を通して腕を伝い、胸に流れ込んでくるような感覚。太鼓の振動。笛の旋律。水の音。声のない人々の足音。名前の響き。


 一瞬で、頭がくらっとした。


 これを、キミは一週間ずっと持っていたのだ。一人で。


 キミは目を閉じた。三秒で眠りに落ちた。呼吸が深くなり、肩の力が抜け、膝を抱えていた腕がゆるんだ。


 アイコは鈴を握りしめたまま、キミの寝顔を見つめた。穏やかだった。何日ぶりかの、本当の眠り。


 スマートフォンが震えた。ケンジからのメッセージ。


「キミの家にいるか」


「いる」


「今から行く。見せたいものがある」


 二十分後、ケンジが来た。手帳を抱えている。だがそれだけではなく、もう一冊、茶色い表紙の古い帳面を持っていた。


「図書館で見つけた。郷土資料室の、誰も手をつけないような棚の奥に」


 ケンジは帳面を開いた。和綴じの古い帳面で、頁は黄ばんで端が崩れかけている。墨で書かれた文字。崩し字だが、ケンジは読める。


「明治十二年の記録だ。このあたりの神社の由来をまとめたもの。ほとんどは知ってる神社の話だが、一箇所だけ、名前が塗りつぶされている神社がある」


 ケンジが指差したページ。確かに、神社名にあたる箇所だけが墨で黒く塗られていた。だがその前後の文章は読める。


「読むぞ。『此ノ社ハ古来ヨリ名ヲ呼ブ者ヲ以テ守ト為ス。守ハ名ヲ身ニ宿シ、土地ノ記憶ヲ継グ。然レドモ一人ニテ負フハ過重ナレバ、代々三人ヲ以テ分カツベシ。一人ハ聞ク者、一人ハ記ス者、一人ハ忘レザル者。三ツ揃イテ初メテ名ハ保タル』」


「三人で分ける——」


「キミ一人が持つ設計じゃないんだ、最初から」


 アイコは鈴を見下ろした。三つ。三人。一人一つ。


「フエはそれを知ってたのかな」


「分からない。だが帳面にはもう一行ある。『鈴ハ三ツ、各々ニ一ツヲ持タセ、離サザルベシ。三人揃イテ振ル時、名ハ正シク響ク』」


 キミが一人で三つとも持っていた。それが間違いだった。間違いというよりも、彼女が自分一人で背負おうとしていた。三人で分けると言ったのに。


「キミに言わないと」


「ああ。起きたら」


 アイコはキミの寝顔を見た。まだ深く眠っている。頬に少しだけ血の色が戻っている。


 掌の中の鈴が、微かに温かくなった気がした。



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