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おともりのやしろ  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater


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第5話「名前を呼ぶ」


 三日目の夜は、雨だった。


 山道を登る三人の頭上で、杉の梢が雨粒を受けて重く揺れている。アイコの制服は肩から染みてきていて、スカートの裾が脚に張りつく。傘は持ってきたが、枝道に入ったところで風に煽られて骨が折れた。ケンジが無言で自分の折りたたみ傘をアイコに差し出し、自分は濡れるままに歩いている。


「ケンジ、風邪引くよ」


「手帳が濡れるほうが問題だ」


 彼はリュックの中の手帳をビニール袋で二重に包んでいた。自分の体よりも記録を優先する男だった。


 キミは濡れていなかった。


 白い着物が雨を弾いているのか、あるいは雨のほうがキミを避けているのか。どちらとも判断がつかない。ただ、彼女の髪も肩も帯も乾いたままで、足元の草履も泥を踏んでいない。アイコはそのことに気づいていたが、今さら驚く気にもならなかった。三日前なら訊いていた。今夜は訊かない。


 石段を登り切ると、拝殿が雨に打たれていた。灯籠の火はすべて消えている。風が渡り廊下を吹き抜け、御簾が激しく揺れていた。


 本殿の扉は、昨日よりも大きく開いていた。


 人がふたり並んで通れるほどの幅。向こう側から冷たい風が吹き出しているが、雨の湿り気はない。乾いた、鉱物質の冷気だった。


「行こう」


 キミが言った。今夜は彼女が一番前だった。


 扉をくぐった瞬間から、地面が下っていた。昨夜の緩やかな勾配ではない。もっと急な、螺旋状の下降。灯明は間隔が広がり、暗闇の区間が長くなっている。足元を照らすケンジの懐中電灯だけが、三人の輪郭を闇から切り出していた。


 降りるにつれて、空気が変わった。


 冷たさの質が違う。肌を刺す冬の冷気ではなく、体の内側から熱を吸い取るような、静かで深い冷たさだった。それから、匂い。水の匂い。地下水脈のそれよりもさらに古い、岩盤そのものが帯びている水の記憶のような匂い。


 螺旋が終わり、道が真っ直ぐになった。


 天井が下がってくる。三人は身を屈めて進んだ。アイコの髪が岩の天井に触れる。冷たい。だが怖くはなかった。昨夜の踊りを見てから、この場所が敵ではないと体が理解していた。


 トンネルを抜けた先に、空間が開けた。


 息を呑んだ。


 地底湖だった。


 天井が遥か高くにある——というよりも、天井が見えない。暗い空間の中に、水面だけが広がっている。湖面は鏡のように静かで、岩壁に走る青白い発光を映し、反転した星空のように見えた。


 湖の中央に、岩が突き出していた。


 その上に、何かがある。


 フエがそこに立っていた。


 だが、昨夜までのフエとは何かが違う。着物の色が違う。白だったはずの足袋がない。裸足で、裾の短い古い布を纏っただけの姿。それは夜店や奥宮で案内をしていた子供というよりも、もっと原初的な何か——この土地そのものの化身のような佇まいだった。


「来てくれた」


 フエの声が水面を渡ってきた。洞窟に反響して、一つの声が何重にも重なって聞こえる。


「三日目。最後のおまつり。ここが一番古い場所。この神社が、神社になるよりもっと前の場所」


 湖の岸辺に、小さな舟が一艘泊まっていた。木をくり抜いただけの丸木舟。櫂もない。


「乗って。水が連れていってくれる」


 三人は舟に乗り込んだ。ケンジが最後に乗ると、舟は自然に岸を離れ、水面を滑り始めた。櫂はないのに、一定の速度で中央の岩に向かって進んでいく。水面に波紋すら立たない。舟が水に触れていないかのように。


 フエの立つ岩に舟が寄りついた。三人が岩に上がると、フエが足元を指差した。


 岩の表面に、文字が刻まれていた。


 だが読めない。日本語ではない。漢字でもない。それ以前の——文字と呼べるかどうかすら怪しい、線の集合。直線と曲線が交互に並び、何かの形を象っているようにも、何の意味もない傷のようにも見える。


「これが名前」


 フエが言った。


「この場所の、本当の名前。まだ人が文字を持っていなかった頃に、この場所を呼ぶために作った音。文字は後からつけたもの。最初にあったのは、音だけ」


「読めない」


「読むんじゃないの。聞くの。岩に耳を当てて」


 キミが膝をつき、岩の表面に耳を当てた。迷いのない動作だった。


 長い沈黙。


 湖面の光が揺れている。三人の呼吸だけが聞こえる。アイコはキミの横顔を見つめていた。目を閉じたキミの睫毛が震えている。唇が微かに動いている。何かを聞き取ろうとしている。


 一分。二分。五分。


 キミが目を開けた。


「……聞こえた」


「何て?」


「分からない。言葉じゃない。でも、音は分かる。体が覚えてる。ここで踊ったときの、足が地面を打つ音と同じリズム」


 キミは立ち上がり、フエを見た。


「声に出していい?」


「うん。でも——」


 フエの顔に、初めて迷いが浮かんだ。三日間で初めて見る表情だった。


「名前を呼ぶと、この場所はあの子に結びつく。あの子が忘れない限り、おまつりは消えない。でも、あの子はその名前をずっと持ち続けなくちゃいけなくなる。重いよ。すごく重い」


「どういう意味?」


 アイコが訊いた。


「名前を持つ人は、この土地の記憶の器になる。千年ぶん以上の。夜店の声も、踊りの音も、この湖の冷たさも、全部あの子の中に入る。普通の人間が持てる量じゃない」


 沈黙が落ちた。水面の光がゆっくりと明滅している。


「やめろ」


 ケンジが言った。静かだが、硬い声だった。


「キミ。やめろ。お前一人が背負う必要はない」


「でも、私にしか聞こえなかった。二年間、ずっと」


「だからって——」


「ケンジ」


 キミがケンジの名前を呼んだ。彼女が人の名前をはっきりと、力を込めて呼ぶのを、アイコは初めて聞いた。


「あなたは二年間、私が聞いたことを全部書いてくれた。四十七回ぶん。一つも捨てずに。あなたがいなかったら、私はとっくに自分がおかしいんだと思って、聞こえないふりをしてた」


「それは——」


「アイコ」


 キミがアイコを見た。


「あなたはいつも、理屈じゃないところで私を信じてくれた。足が覚えてるなら来たことがあるんだよって。あの言葉がなかったら、今夜ここに立てなかった」


 キミは二人の手を取った。右手でアイコを、左手でケンジを。フエが三人を見守っている。


「一人で持つんじゃないよ。三人で持つの。名前を呼ぶのは私。記録するのはケンジ。忘れないでいてくれるのはアイコ。そういう分け方でいい?」


 アイコの目から涙が落ちた。こらえるつもりだったのに。こんな場面で泣くのは格好悪いと思ったのに。


「——いいよ。そういう分け方で」


「俺も異論はない」


 ケンジの声がかすれていた。手帳を持つ手が震えている。だがペンを握り直し、白いページを開いた。


「呼べ、キミ。俺が書く」


 キミは息を吸った。


 深く。肺の底まで。地底湖の冷たい空気を、体の隅々まで行き渡らせるように。


 そして、声を発した。


 それは言葉ではなかった。


 母音とも子音ともつかない、喉の奥から腹の底から湧き上がるような音だった。低く始まり、高く昇り、また降りてくる。波のような旋律。いや、旋律ですらない。地面を踏む足の音。水が岩を削る音。風が梢を鳴らす音。この土地が千年のあいだ発してきた、すべての音を一つにまとめたような声。


 湖面が震えた。


 さざ波が中央の岩から同心円状に広がり、湖の縁を打つ。岩壁の青白い光が強くなる。明るくなる。天井が見える——いや、天井ではない。岩の表面に無数の線が走っている。あの、読めない文字と同じ線。岩肌の全面に刻まれた、この場所の名前。


 キミの声が洞窟を満たした。


 反響して、重なって、何十もの声になった。今の声と、過去の声と、もっと遠くの声が混ざり合って、地底湖全体がひとつの楽器のように鳴っている。


 フエが笛を取り出し、キミの声に合わせて吹き始めた。あの寂しい旋律。だが今夜は寂しくない。キミの声と重なって、伴奏になっている。一人ぼっちだった笛に、ようやく歌い手が現れたように。


 ケンジが書いている。何を書いているのか、アイコには見えない。だが彼のペンは止まらなかった。聞こえるものすべてを、手帳に刻みつけるように。


 アイコは二人の手を握っていた。キミの右手とケンジの左手を。目を閉じて、聞いていた。覚えようとしていた。この音を、この冷たさを、この光を。


 キミの声が、最後の音に達した。


 高く、細く、糸のような音。それが洞窟の天井に届いた瞬間、光が弾けた。


 青白い光が一瞬だけ真白になり、湖面を走り、岩壁を駆け上がり、天井の文字を照らし出した。すべての線が同時に光った。この場所の名前が、声と光になって、洞窟の隅々にまで届いた。


 そして——静寂。


 湖面が鏡に戻った。光は元の青白さに沈んだ。キミの口が閉じている。フエの笛も止まっている。


 フエが笑っていた。泣いていた。笑いながら泣いていた。


「呼んでくれた。やっと。やっと呼んでくれた」


 フエの体が光り始めた。足元から、淡い金色の光が昇っていく。灯明の火が集まってくるように、小さな光の粒がフエの体に吸い込まれていく。


「ありがとう。もう大丈夫。おまつりは終わるけど、消えない。名前を呼んでもらえたから」


「フエ——」


「おまつりは終わるよ。でもね、夜店のおじさんも、踊ってた人たちも、この湖の底の記憶も、全部あの子たちの中に残る。それでいいの。それが一番いい」


 フエの輪郭が薄れていく。


「ぼくの名前も、もうすぐ思い出せるかも。あの子たちが持っててくれるなら」


「待って。まだ——」


「三日間、ありがとう。楽しかった。お客さんが来てくれて、ほんとに楽しかった」


 光の粒になって、フエが消えた。


 最後に残ったのは、笛の音。一小節だけの短い旋律が、水面を滑り、洞窟の壁にそっと触れて、消えた。


 岩の上に、三つ目の鈴が置かれていた。金色の、一番大きな鈴。表面には、あの読めない文字が刻まれている。


 キミがそれを拾い上げた。


 三つの鈴が彼女の手の中にある。赤い飴の鈴。裸の銀の鈴。金色の鈴。


 キミは三つを合わせて振った。


 三つの音が一つになった。高い音と低い音と、その中間の音が重なり、和音になった。美しい和音だった。長調でも短調でもない、どちらにも属さない、ただ澄んだ響き。


「帰ろう」


 キミが言った。声が疲れていた。だが、目は澄んでいた。


 舟が三人を岸に運んだ。螺旋の道を登り、扉をくぐり、拝殿に出た。


 雨が上がっていた。


 東の空が明るい。今朝は雲が切れて、朝焼けが見えた。橙と紫が混じり合った、柔らかい光が鳥居を照らしている。


 アイコは石段の上に座り込んだ。膝が笑っている。ケンジは隣に倒れるように座り、手帳を膝に置いたまま目を閉じた。


 キミだけが立っていた。鳥居の前に。三つの鈴を胸に抱いて、朝焼けを見つめていた。


「……重い?」


 アイコが訊いた。


「重い」


「持てる?」


「うん。三人だから」


 キミが振り返った。朝の光が彼女の横顔を照らしている。白い着物が、初めて朝の色に染まっていた。


「ねえ。学校、間に合うかな」


「無理だろ。一限は捨てよう」


 ケンジが目を閉じたまま言った。


 アイコは笑った。声を上げて、腹の底から笑った。三日間で一番大きな声だった。キミも笑い、ケンジも口の端を歪めて、笑ったように見えた。


 鳥居の扁額に、朝日が当たった。


 風雨に削られて読めなくなっていたはずの文字。その表面を光がなぞったとき、一瞬だけ、文字が浮かび上がった。


 読めない文字。岩の上に刻まれていたのと同じ線。だがキミには読める。キミが声にした、あの音。この場所の、本当の名前。


 アイコは見た。ケンジも見た。


 二人には読めない。だが、それがそこに在ることだけは分かった。


 風が吹いて、朝日の角度が変わり、文字は消えた。


 だが消えても、もう大丈夫だった。


 名前は、三人の中にある。



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