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おともりのやしろ  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater


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4/13

第4話「二日目の奥宮」


 その日の授業を、アイコはほとんど覚えていない。


 数学の時間に机に突っ伏して寝た。英語の時間にも寝た。昼休みに購買でパンを買おうとして財布を教室に忘れ、取りに戻る途中の階段で壁に額をぶつけた。額の赤い跡を同級生に笑われたが、笑い返す元気もなかった。


 ケンジは普段どおりだった。少なくとも、そう見えた。授業中に手帳を開いているのはいつものことで、教師もいちいち注意しない。ただ、昼休みにアイコが彼の教室を覗いたとき、机に広げられた手帳のページが昨夜の記録でびっしり埋まっているのが見えた。小さな字で、屋台の配置図まで描いてある。


「寝てないでしょ」


「お前もだろう」


「私は寝た。二時間くらい」


「俺は書いてた」


 キミは欠席だった。


 連絡はなかった。アイコはLINEを三回送ったが、既読がつかない。ケンジに訊くと、「キミは昔からそうだ。何かを抱え込んでいるときは黙る」とだけ言った。


 放課後、アイコは自分の教室の窓から校庭を見下ろしていた。部活の声が遠くに聞こえる。夕陽がグラウンドを橙色に染めている。今夜もあの神社に行く。あの闇の中に入る。フエが言っていた「もっと奥」「もっと深いところ」に。


 怖くないかと訊かれたら、怖い。


 だが昨夜の帰り道、石段を下りながらケンジが言った言葉が耳に残っている。


「面売りの面。あれは俺たちがいなければ、誰にも見てもらえないまま消える。記録しないと、なかったことになる」


 ケンジにとって、記録とはそういうものなのだ。あったことを、あったままに残す。それが誰の役に立つかは問題ではない。あったという事実そのものに対する、静かな敬意。アイコにはそこまでの信念はない。だが、あの声のない人々が消えていく光景を思い出すと、胸の奥が締まる。


 今夜も行く。それだけは決まっていた。


 午後八時。バス停で降り、山道を歩いた。


 懐中電灯の光が足元の草を照らす。虫の声が濃い。昨夜と同じ道なのに、体が覚えている分だけ足取りは速かった。石段の下に着くと、ケンジがすでに立っていた。黒い詰襟に、いつもの革の手帳。それから、今夜は小さなリュックを背負っている。


「何それ」


「水と、予備の電池と、救急キット」


「本格的だね」


「昨夜の帰り、四時間以上経ってた。体感とズレてる。念のためだ」


 石段を登った。二十三段。拝殿の縁側に、キミが座っていた。


 白い着物。赤い帯。昨夜と同じ装い。だが顔色が悪い。目の下の隈が濃くなっていて、頬が少し痩けて見える。


「キミ。学校、休んでたけど」


「うん。少し聞いてたから」


「何を」


「鈴を。ずっと」


 キミの膝の上に、昨夜の鈴があった。赤い飴のコーティングはそのまま残っている。溶けもせず、剥がれもせず、朝の光の下でも夜の冷たさを保っていた。


「キミ、大丈夫なの」


「大丈夫。行って。今夜は私も、もう少しだけ一緒に行く」


「え?」


「扉の番は要らないの。二日目からは、開いたまま。閉じられなくなってる」


 本殿の扉を見た。昨夜と同じ幅で開いている。だが昨夜と違うのは、隙間の向こうがまったくの闇ではないことだった。暗いが、奥にぼんやりと光が見える。灯明の光。昨夜の参道の残り火のような、かすかな橙色。


「道ができてる」


 ケンジが呟いた。


 三人は扉をくぐった。


 昨夜の参道は、そのままそこにあった。石畳、石灯籠、灯明の列。だが昨夜よりも長い。ずっと長い。灯明の列が緩い下り坂になって、地面の下へ潜り込んでいくように続いている。


 空気が変わった。湿度が上がり、土の匂いが濃くなる。それから、水の匂い。地下水脈の近くにいるような、鉱物を含んだ冷たい水の気配。


 キミが先頭を歩いていた。


 いつの間にか。アイコもケンジも、彼女を先に行かせるつもりはなかったのに、気づけばキミの背中を追う形になっていた。彼女は迷いなく歩いている。道を知っている足取りだった。


「キミ。ここ、来たことあるの」


「ない。でも、足が覚えてる」


「どういう意味?」


 キミは答えなかった。


 下り坂が終わり、道が平坦になった場所で、景色が開けた。


 洞窟——ではなく、地下の空間だった。天井が高い。見上げると、岩の表面に青白い光が走っている。苔か、鍾乳石に含まれる鉱物が発光しているのか。自然の照明のように、空間全体をうっすらと照らしていた。


 その光の下に、建物があった。


 社殿だった。地上の拝殿よりもはるかに古い、だがはるかに立派な社殿。朱塗りの柱、檜皮葺の屋根、張り出した回廊。回廊には灯籠が並び、すべてに火が入っている。


「奥宮だ」


 ケンジの声が反響した。


「地上の社の、もっと前にあった本体がここにある。地上に建てたのは、後から作ったカバーだったんだ」


「あたり」


 声が上から降ってきた。


 見上げると、奥宮の屋根の棟に、フエが座っていた。足をぶらぶらさせて、笛を唇にあてている。今夜は吹いていない。ただ持っているだけ。


「二日目のおまつりは、ここでやるの。地上のは新しいほうのおまつりで、こっちが本当のおまつり。もっとずっと昔からやってたやつ」


 フエが屋根から飛び降りた。着地は音もなく、猫のように軽かった。


「三人で来てくれたんだね。よかった」


「フエ。今夜は何を見せてくれるの」


 ケンジが訊いた。手帳はもう開いている。


「今日はね、踊り」


「踊り?」


「盆踊りみたいなやつ。でもちょっと違う。見たら分かるよ」


 フエが手を叩いた。


 音が生まれた。昨夜はなかった音だ。太鼓。低く、腹に響く太鼓の音が、洞窟の壁を震わせた。一定のリズム。心臓の鼓動よりも少し遅い、どっ、どっ、どっ、という拍。


 回廊の灯籠が明るさを増し、奥宮の正面に広がる空間が照らし出された。平らな岩の広場。その周囲に、人影が現れ始めた。


 昨夜の夜店の人々と同じ——だが違う。


 こちらの人々は古い。着ているものが違う。浴衣や甚平ではなく、もっと素朴な麻の衣。草鞋。髷を結った男。布を巻いただけの女。時代が遡っている。江戸どころではない。もっとずっと前の、名前のつけようがない時代の人々だった。


 彼らが踊り始めた。


 輪になって。太鼓のリズムに合わせて。だが盆踊りの優雅さはない。足を踏み鳴らし、腕を振り上げ、体を捩る。激しい。原始的で、剥き出しで、見ているだけで息が上がるような踊りだった。


 そして——声があった。


「声がある」


 アイコが驚いて言った。昨夜の夜店では消えていたはずの声。ここでは、踊る人々の口から、唸るような低い歌声が漏れていた。言葉ではない。意味のある歌詞ではない。ただ、あ、あ、あ、と母音を伸ばすような声の連鎖。


「古いからだよ」


 フエが言った。


「この人たちは、おまつりの最初のほうの人たち。千年とか、もっと前の。忘れられるのって、新しいほうからなの。一番古いものは一番最後まで残る。だから、この人たちにはまだ声がある」


「忘れられる順序が、新しいものからってこと?」


 ケンジのペンが走る。


「うん。おじいちゃんの記憶よりも、お父さんの記憶のほうが先に薄れるでしょ? それと同じ。新しいものは覚えてる人がまだ生きてるから、覚えてる人が死ぬたびに消えていく。でもすごく古いものは、もう誰の記憶にもないから、逆に壊れようがないの。記憶じゃなくて、土地そのものに染みこんじゃってるから」


「土地に、染みこむ」


「うん。この岩とか、水とか、空気に。だから声も残ってるし、踊りも残ってる。でもね——」


 フエの声が、少し沈んだ。


「土地が忘れたら、もう終わり。それが三日後」


 踊りは続いている。太鼓が鳴り、声が洞窟の壁に反響し、岩の広場が揺れるように見える。踊る人々の足が地面を打つたびに、微かに光が散る。足裏から岩の表面に光が走り、脈のように広がっていく。


「きれい」


 アイコは呟いた。声が漏れていた。


 確かにきれいだった。残酷なほど。これが消えるのだと思うと、目が熱くなった。


 キミがアイコの隣にいた。いつの間にか、三人は並んで踊りを見ていた。キミの目には涙は浮かんでいなかったが、唇が微かに震えていた。


「キミ?」


「ここに来たことがある気がする。来たことはないのに。ずっと前に、ここで踊った気がする」


 キミはそう言って、自分の右手を見つめた。指が、太鼓のリズムに合わせてかすかに動いている。無意識に。


「キミ。お前、何者なんだ」


 ケンジが静かに訊いた。二年間、一度も訊かなかったことを。


 キミは目を伏せた。


「分からない。分からないけど、この場所が私を呼んでるのは、中学のときからずっと感じてた。最初にあの神社を見つけたとき、帰ってきたって思った。おかしいよね。来たことないのに」


「おかしくない」


 アイコが言った。理屈ではなく、ただそう言いたかった。


「おかしくないよ、キミ。だって足が覚えてるんでしょ。なら来たことあるんだよ。キミじゃなくても、キミの中の誰かが」


 キミはアイコを見た。それからケンジを見た。二人の視線を受けて、彼女は小さく息を吐いた。肩の力が、ほんの少しだけ抜けたように見えた。


「ありがとう」


 フエが戻ってきた。手の中に、もうひとつの鈴を持っていた。今度は飴に包まれていない。裸の銀の鈴。昨夜のものより少し大きく、表面に細かな文様が刻まれている。


「二日目のお土産。今日のは、踊りの音が入ってる」


 フエがキミに手渡した。キミではなく、アイコに渡すかと思ったが、フエは迷いなくキミを選んだ。


 キミが鈴を振った。


 太鼓の音がした。あの、腹に響く低い音。鈴の中に閉じ込められた、千年以上前の踊りの記憶。


「明日が最後だよ」


 フエの声が、遠くなり始めた。太鼓の音も薄れていく。洞窟の青白い光が暗くなり、踊る人々の影が溶けていく。


「三日目は、一番深いところ。一番古いところ。そこに、この神社の本当の名前がある」


「名前——あるの?」


「あるよ。忘れられただけで。名前が分かれば、おまつりは終わらなくて済むかもしれない」


 フエの姿が消えた。声だけが残った。


「でもね。名前を呼ぶのは、すごく大変なこと。覚悟がいるよ」


 暗転。


 本殿の前。午前三時四十一分。東の空はまだ暗い。昨夜よりも少し早く戻ってこられた。


 キミの手の中に、二つの鈴がある。赤い飴の鈴と、裸の銀の鈴。キミはそれを両手に一つずつ持ち、目を閉じた。


「明日で終わる」


「終わらせたくないな」


 アイコが呟いた。


 ケンジは何も言わず、手帳の最後に書き加えた。


「二日目、終了。鈴を二つ回収。残り一日。課題——名前の回収。代償、不明」



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