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おともりのやしろ  作者: Kentarou Tou


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第3話「一日目の夜店」


 灯明の列を辿って歩くうちに、闇が色を帯び始めた。


 黒一色だった空間に、藍色が滲む。それが夜空だと気づいたのは、星が見えたからだった。だが、アイコが知っている星空ではない。星の数が多すぎる。天の川どころではなく、空の全面が微細な光の粒で埋め尽くされている。プラネタリウムの投影ミスのような、過剰な夜空だった。


 子供は振り返らずに歩いている。白い足袋が灯明の光を踏むたびに、小さな影が石畳の上を滑る。


 石畳。


 いつの間にか足元が変わっていた。湿った土ではなく、平たい石が隙間なく敷かれた参道になっている。両脇には灯明だけでなく、石灯籠が並び始めた。苔むした、古い灯籠。だがその中にはちゃんと火が入っていて、蝋燭の炎が石の窓枠の中で静かに揺れている。


「ケンジ」


「見えてる」


 参道の先に、明かりが集まっていた。


 最初に見えたのは提灯だった。赤い提灯が縄に吊られ、低い屋根の上を連なっている。その下に、屋台が並んでいる。木の骨組みに布を張っただけの、素朴な作りの屋台。だが数が多い。十、二十——数えきれない。参道の両側にずらりと並び、提灯の赤い光に照らされて、ゆらゆらと揺れている。


 夜店だった。


 祭りの夜店。焼きとうもろこしの匂いがする。醤油が焦げる匂い。飴を煮る甘い湯気。煙。それらが混じり合って、アイコの鼻腔を満たした。


「……え」


 アイコは立ち止まった。


 屋台の前に人がいる。


 人影——ではなく、確かに人だった。浴衣を着た女。法被を羽織った男。下駄を鳴らす子供。甚平姿の老人。みな背を向けて、屋台の品物を覗き込んだり、何かを食べたり、連れ立って歩いたりしている。祭りの人混みそのものだった。


 だが、声がない。


 これだけの人がいるのに、話し声が聞こえない。下駄の音も、屋台で物を渡す音もしない。提灯が軋む音もない。笛の音ももう止んでいる。すべてが無音の中で動いていた。映像だけが再生されている、壊れたテレビのように。


「声がない」


 アイコが呟いた。自分の声だけが、やけに鮮明に響いた。


 子供が立ち止まった。振り返る。丸い顔に、灯りの色が映っている。


「声はね、忘れられちゃったの」


「忘れられた?」


「おまつりのことを覚えてる人がいなくなると、少しずつ消えていくの。最初に声が消えて、次に顔が消えて、最後に影が消える。ここにいる人たちは、もう声だけ残ってないの」


 アイコは屋台の前を通り過ぎる人々を見た。顔は——ある。だがよく見ると、目鼻立ちがぼんやりしている。鮮明な人もいれば、輪郭だけの人もいる。霧の中の写真のように、ピントが合っていない顔がいくつもあった。


「顔も、もうすぐだね」


 子供はそう言って、少し寂しそうに笑った。


 ケンジが手帳を開いた。書こうとして、ペンが止まった。


「……名前を聞いていい?」


「名前?」


「お前の名前。記録するから」


 子供は首を傾げた。


「名前、あったかな」


「なかったのか?」


「あったと思う。でも誰も呼んでくれなくなったから、忘れちゃった」


 ケンジのペンが、手帳の上で止まったまま動かなかった。アイコは彼の横顔を見た。眼鏡の奥の目が、わずかに揺れている。ケンジが動揺することは珍しい。


「じゃあ、何て呼べばいい」


 アイコが訊いた。沈黙は居心地が悪かった。


「お客さんが決めていいよ」


「えっ、そういうの困る——」


「フエ」


 ケンジが言った。


「笛を吹いてたから。フエでいい?」


 子供は——フエは、目を丸くして、それからくしゃっと笑った。声のない祭りの人々とは違い、その笑い声はちゃんとアイコの耳に届いた。甲高い、子供の笑い声。


「フエ。へんな名前。でもいいよ、それで」


 フエは二人の手を取った。右手でアイコを、左手でケンジを。小さな手は温かかった。この闇の中で触れた何もかもが冷たかったのに、この子供の手だけが、夏の体温を持っていた。


「おまつり、案内するね。見てほしいものがあるの」


 フエに手を引かれて、二人は夜店の列に踏み入った。


 最初の屋台は、面売りだった。


 狐、般若、おかめ、ひょっとこ。白い面が紐で吊り下げられ、提灯の光に照らされて並んでいる。だがよく見ると、それは木や紙でできた祭りの面ではなかった。表面が微かに動いている。まばたきをする狐面。口の端が震えるおかめの面。


「これ——」


「顔を忘れられた人たちの、最後に残った表情。おまつりの間だけ、ここに飾ってもらえるの」


 アイコは狐の面を見つめた。細い目の奥に、確かに何かの感情が宿っている。悲しみとも諦めともつかない、静かな光。


「触らないほうがいいよ。被っちゃうと、帰れなくなるから」


 フエがさらりと言った。アイコは伸ばしかけた手を引っ込めた。


 次の屋台は、金魚すくいだった。


 木枠の水槽に水が張られ、中に赤い金魚が泳いでいる。だが金魚の形がおかしい。尾鰭が異様に長い。体よりも長い尾を引きずるように泳いでいて、それが水の中で複雑に絡み合い、赤い糸の塊のように見えた。


「これは?」


「人のご縁。切れたやつと、まだ繋がってるやつが混ざってる。全部すくえたらすごいけど、ポイがすぐ破けちゃうから」


 ケンジが手帳に書いている。アイコは彼が何を書いているのか覗き込んだ。几帳面な字で、屋台の配置と品物、フエの説明がそのまま記されていた。「面売り——忘却された顔の最後の表情」「金魚すくい——切断・存続する人間関係の象徴?」と。


「ケンジ、そういうとこ好き」


「黙ってろ」


「褒めてるんだけど」


 三つ目の屋台で、アイコの足が止まった。


 りんご飴。


 赤い飴をまとったりんごが串に刺され、ずらりと並んでいる。普通の屋台と何も変わらない。匂いも、甘酸っぱい飴の匂いそのもの。


 だが屋台の向こう側に立っている店主が——いなかった。


 いないのではない。「いた痕跡」だけがある。法被がかかった椅子。湯気の立つ鍋。火にかけられたままの飴の鍋は、ぐつぐつと音を立てている。音を。


「ここだけ音がする」


「うん。この屋台の人はね、最後まで覚えられてたの。みんなに。りんご飴のおじさんだって。でも去年、最後の一人が死んじゃった。覚えてた人が全員いなくなったから、おじさんも消えた。でも、飴の音だけはまだ残ってる」


 鍋の中で飴が煮える音。ぐつ、ぐつ、と規則的に。


「もうすぐこれも消えるけどね」


 フエの声には感情がなかった。事実を述べているだけの声。だがその乾いた口調が、かえってアイコの胸に刺さった。


「……全部消えちゃうの? このお祭り」


「うん」


「いつ」


「三日後の朝。おまつりが終わったら」


 フエはアイコの手を離し、りんご飴の屋台の前に立った。鍋から一本の串を取り上げ、赤い飴のかたまりを見つめる。


「だからね、お土産。これを持って帰ってほしいの」


 フエが差し出したのは、りんご飴ではなかった。


 串の先にあったのは、小さな鈴だった。赤い飴で薄くコーティングされた、銀色の鈴。振ると、あの音がした。本殿の奥から聞こえたのと同じ、高く透き通った音。


「それを外に持って帰って、あの子に渡して」


「あの子——キミに?」


「うん。あの子は知ってるから。何をすればいいか」


 アイコは鈴を受け取った。掌に収まる大きさ。飴の表面がべたつくかと思ったが、むしろ冷たく、硬く、石のように滑らかだった。


「一日目はここまで」


 フエがそう言った途端、提灯の光がふっと弱まった。屋台の輪郭が薄れ、人々の影がさらに薄くなる。


「明日の夜、またおいで。二日目のおまつりは、もっと奥でやるから」


「もっと奥って——」


「鳥居の向こう。今日よりもっと、深いところ」


 フエの姿が灯明の光に溶けていく。最後に見えたのは、白い足袋と、着物の裾と、手を振る小さなシルエットだった。


 暗転。


 気づいたとき、アイコは本殿の扉の前に立っていた。


 隣にケンジがいる。手を繋いだまま。扉はまだ開いている。その向こうに、縁側に座るキミの後ろ姿が見えた。月明かりが白い着物を照らしている。


「——キミ」


 キミが振り返った。表情は穏やかだったが、目の下に薄い隈ができていた。どれくらいの時間が経ったのだろう。アイコの体感では三十分ほどだったが、空の色が変わっている。東の空が、ほんのわずかに白み始めていた。


「おかえり」


「……ただいま。キミ、これ」


 アイコが掌を開いた。赤い飴に包まれた銀の鈴。キミはそれを見て、長い睫毛を伏せた。


「やっぱり」


「知ってたの?」


「知ってたわけじゃない。でも、そうだろうなって思ってた」


 キミは鈴を受け取り、両手で包み込むように持った。目を閉じる。何かを聞いている。いつものように。


「三日間で、この神社の記憶を、全部受け取ってほしいんだって」


「……受け取って、どうするの」


「覚えておくの。忘れないように。ここが本当にあったことを」


 空が白んでいく。星が一つずつ消え、藍色が灰色に変わっていく。蝉はまだ鳴かない。鈴虫ももう黙っている。夜と朝の狭間の、どちらにも属さない沈黙の時間。


 ケンジが手帳の最後のページを開き、短く書き加えた。


「一日目、終了。鈴を一つ回収。残り二日」


 アイコは石段に腰を下ろし、空を見上げた。普通の空に戻っている。あの過剰な星空はもうない。だが、掌にはまだ鈴の冷たさの感触が残っていた。


「明日も来なきゃ、だよね」


「明日じゃない。今日の夜だ」


 ケンジが言った。時計を見ている。午前四時二十三分。


「学校がある」


「寝てから考えよう」


 三人は石段を下りた。鳥居の向こう側には、ちゃんと石段があった。苔むした二十三段。杉の木立。遠くに、町の灯りが見える。


 アイコは一段目を踏んで、振り返りたい衝動を堪えた。キミの横顔をちらりと見ると、彼女も前だけを向いて歩いていた。その手の中で、赤い鈴が月の残り光を受けて、かすかに光っていた。


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