第2話「名前のない祭り」
鈴の音は、三回鳴って止んだ。
高く、透き通った音だった。風鈴よりも硬く、仏具の鈴よりも軽い。耳の奥ではなく、頭蓋の真ん中で鳴ったような、不思議な響き方をした。
アイコは自分の耳を押さえていた。押さえてから、音がもう止んでいることに気づいて、ゆっくりと手を下ろした。指先が冷たい。
「……今の、聞こえたよね」
「ああ」
ケンジの声はいつもどおり平坦だったが、手帳を持つ指がわずかに震えていた。彼はペンを走らせている。日付、時刻、そして「三人全員に聞こえた」と。四十七回の記録のうち、アイコとケンジにも聞こえたのは初めてだった。
キミは立ち上がっていた。
御簾のそばではなく、本殿の扉の正面に。月明かりが彼女の白い着物を青く染めている。髪飾りの金が、灯籠の火を受けて橙色に瞬いた。
「キミ?」
「開けないと」
「待って——」
アイコが駆け寄ろうとした瞬間、本殿の扉が軋んだ。
キミは触れていない。両手は体の横に下ろされたままだった。なのに、古い木の扉が、内側から押されるようにゆっくりと開いていく。蝶番が錆びた悲鳴を上げ、隙間から冷たい空気が流れ出した。
夏の夜に、その空気はあまりにも冷たかった。冬の、それも明け方のような、骨に触る冷気。アイコの腕に鳥肌が立った。
扉は人ひとりが通れるほどの幅で止まった。
中は暗い。灯籠の光も月の光も、その隙間の奥には届いていない。鳥居の向こう側と同じ闇。だが、こちらのほうが深い。深いというより、濃い。覗き込んだら、目そのものが闇に飲まれそうな気がした。
「入るの?」
アイコの声は、自分で思っていたよりもずっと小さかった。
「入らなきゃいけない人がいる」
キミは振り返った。その視線はアイコを通り過ぎ、ケンジに向いていた。
「——俺か」
ケンジが手帳を閉じた。
「なんで俺なんだ」
「あなたが記録してきたから」
「記録したのは、お前が聞いたことを書き留めただけだ」
「それが大事なの。聞こえるだけじゃ足りない。聞いたことを、形にして残す人が要る。中にあるものを持ち帰れるのは、そういう人だけ」
キミの声は穏やかだったが、有無を言わせない重さがあった。アイコは二人の間に漂う空気を読んで、口を挟めなかった。
ケンジは眼鏡を外した。レンズを制服の裾で拭き、かけ直す。考えるときの癖だった。それから、ポケットからスマートフォンを出し、ライトを点けて、扉の隙間を照らした。
光は三メートルほど先で消えた。
消えた、というのは正確ではない。光の筋が、ある地点から先に進むことを拒まれているように見えた。壁も天井も床も映っていない。ただ、光が届かなくなる境界線だけがある。
「三メートル。まあ、歩いてみれば分かるか」
「ケンジ、待って。一人で行かせない」
アイコがケンジの腕を掴んだ。今度は意識的に。
「お前は外にいろ」
「嫌だ」
「キミが言ったんだろ。持ち帰れるのは記録する人間だけだと」
「キミが言ったのはそうだけど、キミは私が行くなとは言ってない」
二人はキミを見た。キミは首を傾げ、少しだけ考えるような仕草をしてから、言った。
「……アイコが一緒に行くのは、悪くないと思う」
「根拠は?」
「ない。でも、ケンジが帰ってこられなくなったとき、引っ張り戻せるのはアイコだけだから」
「帰ってこられなくなる可能性があるのか」
「分からない。でも、お祭りだから」
お祭り。キミはさっきもそう言った。何が祭りなのか、アイコには見当もつかない。だがキミの言葉には、いつもそうであるように、後から辻褄が合う不気味な正確さがある。
「キミは?」
「私はここで待つ。扉を開けておかないといけないから」
「扉が閉まったら——」
「閉まらないようにしてる。だから、急いで」
ケンジはアイコを見た。アイコはケンジを見た。
「行こう」
アイコが先に言った。
二人は扉の隙間をくぐった。
最初の一歩は、木の床だった。本殿の床板の、乾いた木の感触。二歩目も同じ。三歩目で、足裏の感触が変わった。木ではない。石でもない。土——だが、乾いた土ではなく、湿りを含んだ、柔らかく押し返してくる感触。落ち葉を踏んでいるような、苔の上を歩いているような。
スマートフォンの光が消えた。
電源が落ちたのではない。画面は点いている。だが、ライトから放たれるはずの光が、手元から一寸も先に進まない。自分の指は見える。だがケンジの顔は見えない。隣にいるはずの彼の輪郭が、闇に溶けている。
「ケンジ」
「いる」
声は近い。すぐ隣。だが距離の感覚がおかしい。三十センチ先にいるのか、三メートル先にいるのか、耳では判断できなかった。
アイコはケンジの手を探した。闇の中で指が触れた。冷たい。ケンジの手はいつも体温が低いが、今日はそれ以上に冷えている。
「掴んでて」
「ああ」
ケンジの指がアイコの手を握り返した。強く。彼が自分から人に触れることは滅多にない。それだけで、彼がどれだけ緊張しているかが分かった。
二人は手を繋いだまま、前に進んだ。
五歩。十歩。足元の感触は変わらない。湿った柔らかい地面。草の匂いがする。夏の草ではなく、春先の、芽吹いたばかりの草の青い匂い。季節が違う。
十五歩目で、音が聞こえ始めた。
笛の音だった。
横笛の、細く高い旋律。祭囃子——と呼ぶには、あまりにも寂しい響きだった。一本だけの笛が、誰もいない広場で吹かれているような。伴奏もなく、拍手もなく、ただ旋律だけが暗闇の中を漂っている。
「これ……」
「黙って聞け」
ケンジがアイコの手を引いた。立ち止まれ、という意味だった。
笛の音が近づいてくる。いや、自分たちが近づいているのか。足は動いていないのに、音の距離が縮まっている。旋律の輪郭が鮮明になり、息継ぎの音まで聞こえるようになった。吹いているのは一人。上手い。だが、どこか不安定な、途切れかけてはまた繋がる、壊れそうな演奏だった。
アイコの目が、闇に慣れ始めた。
いや、慣れたのではない。闇そのものが薄まっている。足元に、光がある。橙色の、弱い光。灯籠——ではなく、地面に並べられた小さな灯明だった。素焼きの皿に油を注ぎ、灯心を浸しただけの、原始的な明かり。それが、道のように二列に並んでいる。
「参道だ」
ケンジが呟いた。
灯明の列は、緩い曲線を描きながら前方に伸びていた。その先に、ぼんやりと光る何かがある。建物の輪郭。屋根の線。柱。
——鳥居。
だが、外にあった鳥居とは違う。もっと古い。朱塗りが剥げて、木地が剥き出しになっている。注連縄も紙垂もない。ただ、二本の柱と一本の笠木だけが、闇の中に立っている。
その鳥居の下に、人影があった。
笛を吹いていた。
人影は小さかった。子供くらいの背丈。だが、顔が見えない。灯明の光は足元までしか届いておらず、そこから上は影に沈んでいる。白い足袋と、裾の長い着物の裾だけが見える。
笛の音が止まった。
沈黙が降りた。灯明の火が揺れている。風はないのに。
人影が、笛を下ろした。
そして、声が聞こえた。子供の声。男の子か女の子か、判別がつかない。高く、透明で、感情のない声。
「——おまつり、来てくれたの」
アイコの手が、ケンジの手の中で震えた。
「二人だけ? もう一人は?」
「もう一人」とケンジが低い声で返した。「外で待っている」
「そう。……あの子は、知ってるもんね。ここのこと」
人影が一歩近づいた。灯明の光が、顔の輪郭を照らし始める。丸い頬。黒い目。前髪の下に、幼いが、どこか老成した表情を浮かべた顔があった。
「おまつりは三日間。お客さんは、帰れるよ。ちゃんと帰れる。——でも、お土産を持っていってもらわないと」
「お土産?」
「うん。見てもらいたいものがあるの。この神社が忘れられる前の、最後のおまつりだから」
その子供は笛を懐にしまい、灯明の列に沿って歩き始めた。ついてこい、と言わんばかりに。
アイコはケンジの手を握ったまま、一歩を踏み出した。
振り返るな、とキミは言った。
だから前だけを見て、歩いた。




