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おともりのやしろ  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater


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第1話「鳥居の向こう側」


 夏が終わる匂いがした。


 八月の最後の夜だった。蝉はもう鳴いていない。代わりに、どこか遠くで鈴虫が細い声を上げている。アイコは石段を二段飛ばしで駆け上がりながら、背中に貼りついた制服のブラウスを引っ張った。暑い。日が落ちてもう二時間は経つのに、空気がまだ湿って重い。


「——遅い」


 石段を登り切った先、拝殿の縁側に腰かけた影がそう言った。月明かりに照らされた黒い詰襟。銀縁の眼鏡が光を拾って、一瞬だけ白く光る。ケンジだった。


「遅くない。ケンジが早すぎるの」


 アイコは息を切らしたまま縁側に手をついた。木の板がまだ昼の熱を含んでいて、掌にじんわりと温かい。


「で、キミは?」


「来てる。奥にいる」


 ケンジが顎で示した方向——本殿と社務所のあいだの渡り廊下の奥に、御簾が揺れていた。竹の細い隙間から、白い布地がちらりと覗く。


「キミ、出てきなよ。始められないでしょ」


 アイコが声をかけると、御簾の向こうの影がわずかに動いた。だが出てこない。代わりに、低く澄んだ声だけが竹の隙間を抜けてきた。


「……もう少しだけ」


「もう少しって、何を——」


「聞いているの。今夜は、よく聞こえるから」


 アイコはケンジを見た。ケンジは眼鏡の位置を直しただけで、何も言わなかった。慣れている、という顔だった。


 この神社には名前がない。


 正確には、あったはずの名前が読めなくなっている。鳥居の扁額は風雨に削られて、かろうじて一文字目の偏だけが残っている。地図にも載っていない。バス停から二十分ほど山道を歩いた先の、杉の木に囲まれた小さな社。氏子もいない。宮司もいない。夏になると草が石段を覆い、秋になると落ち葉が拝殿の床を埋める。


 三人がここを見つけたのは、中学二年の春だった。


 ケンジが言い出したのだ。「この山の上に、地図にない神社がある」と。アイコは面白がってついてきた。キミは——キミだけは、最初から知っていたような顔をしていた。石段を登り終えたとき、彼女は驚きもせずに本殿の扉に手を触れて、「ここだった」と呟いた。それが何を意味するのか、アイコにもケンジにも分からなかった。今も分からない。


 あれから二年。三人は高校二年になり、この神社は彼らだけの場所になった。


「——聞こえた」


 御簾が音もなく割れ、キミが姿を現した。白地に淡い花柄の着物、赤い帯。髪には金の飾り。月明かりの下では、同い年の少女というよりも、古い絵巻から抜け出してきた誰かのように見える。アイコはいつもそう思う。そして、いつもその考えを振り払う。キミはキミだ。授業中に居眠りするし、購買のメロンパンを毎週買い占めるし、体育のマラソンではアイコより遅い。


「何が聞こえたの」


 アイコが訊くと、キミは縁側に腰を下ろし、足をぶらぶらさせながら答えた。


「鈴の音。ずっと奥のほうから」


「鈴なんてないでしょ、ここ」


「ないから聞いているの」


 ケンジが黙ったまま、ポケットから手帳を出した。黒い革の表紙。そこに何かを書き留める。ケンジはいつもそうする。キミが「聞こえた」と言うたびに、日付と時刻と、彼女が口にした言葉をそのまま記録する。もう二年分の記録がその手帳に詰まっている。


「今日で何回目?」アイコが訊いた。


「四十七回目」ケンジが答えた。「鈴の音は、八回目」


「多いの? 少ないの?」


「去年の同じ時期は三回だった。増えてる」


 ケンジはペンを止めて、本殿のほうを見た。闇の中に、古びた木の扉がある。あの奥に何があるのか、三人はまだ確かめていない。キミが「まだ開けないで」と言ったからだ。中学二年の春からずっと。


「今年、開けることになるかもしれない」


 キミが言った。


 アイコの背筋を、冷たいものが走った。八月の終わりの、まだ蒸し暑い夜なのに。


「なんで?」


「鈴が、近づいてきているから」


 風が吹いた。灯籠の火が揺れ、三人の影が石畳の上で伸びたり縮んだりした。鳥居の向こうには杉の森があり、その向こうには町の灯りがあるはずだった。だが今夜は、鳥居の外が妙に暗い。まるで、この社だけが世界から切り取られたように。


 アイコは立ち上がった。


「私、見てくる」


「何を」


「鳥居の外。なんか今日、暗くない?」


 ケンジが眼鏡の奥の目を細めた。気づいている。アイコより先に気づいていて、それでも自分からは言わなかった。


「一人で行くな」


「じゃあ一緒に来て」


 ケンジは手帳を閉じ、立ち上がった。キミは動かなかった。縁側に座ったまま、本殿の扉を見つめている。


「キミ、大丈夫?」


「大丈夫。行ってきて。……でも、鳥居をくぐるとき、振り返らないで」


「なんで?」


「分からない。でも、そうしたほうがいいと思う」


 アイコはケンジと目を合わせた。ケンジはわずかに頷いた。「従おう」という意味だ。キミの言うことは、理由が分からなくても、今まで一度も間違っていたことがない。


 二人は並んで石畳を歩き、鳥居に向かった。灯籠の明かりが足元を橙色に照らし、二つの影が前方に長く伸びる。


 鳥居の手前で、アイコは立ち止まった。


 匂いが変わっている。


 さっきまで感じていた夏の終わりの匂い——湿った土と草と、遠くの排気ガスが混ざったもの——が消えている。代わりに、線香ともお香とも違う、甘くて鋭い、嗅いだことのない匂いがした。


「ケンジ」


「ああ。分かってる」


 鳥居の向こうに、石段があるはずだった。二十三段。アイコは数えたことがある。だが今、鳥居の向こう側は一面の闇だった。石段が見えない。杉の木も見えない。町の灯りも見えない。ただ、真っ黒な空間が、鳥居の枠の中に嵌め込まれたように広がっている。


「……これ、帰れなくない?」


 アイコの声が震えた。自分でも気づかないうちに、ケンジの袖を掴んでいた。


 ケンジは鳥居の縁に手を伸ばし、指先で触れた。木の感触。普通の、古びた木だった。だがその向こう側の闇は、手を差し入れる気にならない質感をしている。温度がない。風もない。音も、匂いも——いや、あの甘く鋭い匂いだけがある。


「戻ろう」


 ケンジが言った。アイコは頷き、二人は振り返らずに拝殿へ歩いた。キミの言いつけどおりに。


 キミは縁側に座ったままだった。だがその顔には、さっきまでなかった表情が浮かんでいた。


 微笑み。


 それは嬉しいのとは少し違う、どこか諦めたような、あるいは覚悟を決めたような、静かな笑みだった。


「——始まったみたい」


 キミは言った。


「何が」とアイコが訊いた。


「お祭り」


 その瞬間、本殿の奥から、鈴の音が聞こえた。


 今度は、三人全員に。



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