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第8話 伯爵家の娘

 湯を浴びても、まだ身体の奥に第五島の湿った空気が残っている気がした。


 自室の窓から見える夜空には月が浮かんでいる。ヴァンホーテン領の第一島は穏やかな夜だ。討伐の喧騒が嘘のように静かで、虫の声だけが遠くに聞こえる。湯上がりの髪から水滴が肩に落ちて、冷たい跡を残した。


 髪を下ろし、鎧代わりの記述を解いた身体は軽い。けれど、胸の底にある重さは取れなかった。


 あの五体目。


 四体を仕留めた——正確には、正面の二体を速攻で仕留め、残りは班員に任せた。速度強化が解けた直後、身体が切り替わるほんの一瞬。そこを狙って、茂みからもう一体が飛び出してきた。四体が動いている間、じっと息を潜めていた一体。


 気配には気づけなかった。速度強化の記述に集中していたから。記述が切れた直後の空白を——あの魔獣は、待っていた。


 鍛錬では想定しない状況だ。仕留めた直後を狙う敵など、教本には載っていない。だがそれは言い訳にしかならない。実戦はいつだって教本の外にある。


 あの士爵の青年がいなければ、私は——。


 拳を膝の上で握った。手の甲に力が入り、白くなるのが見えた。



 扉が叩かれた。


「ハーヴァ。入るぞ」


 父の声だった。返事をする間もなく、ヴァンホーテン伯爵は部屋に入ってきた。武官寄りの家系らしく、娘相手でもいちいち遠慮しない。革の胸当てを外した楽な格好で、片手に二つの杯を持っている。短く刈り込んだ褐色の髪が湯で湿っていた。父もまだ討伐の疲れを落としたばかりだ。


「今日の討伐、お前の班の報告は聞いた」


 父は窓辺の椅子に腰を下ろし、杯の一つを私に差し出した。温かい蜂蜜酒だ。琥珀色の液体から甘い蒸気が立ち昇っている。討伐の後にはいつもこれを飲む。ヴァンホーテン家の習慣。「生き残った夜は、甘いものを飲め」。初代の頃から受け継がれてきた言葉だと聞いている。


「正面の二体は見事だった。判断も速く、記述も正確だ。班長としての指揮も悪くない」


「……ありがとうございます」


「だが」


 父は蜂蜜酒を一口含んだ。杯を傾ける所作に焦りはない。この人はいつもそうだ。


「五体目について、お前はどう思っている」


 叱責ではなかった。問いかけだ。この人はいつもそうだ。答えを教えるのではなく、自分で考えさせる。子供の頃からそうだった。剣の持ち方も、記述の構成も、「やってみせる」のではなく「なぜそうするか考えろ」と言う人だった。


「……二体を仕留めた直後でした。速度強化が切れて、身体の切り替えが追いつかなかった。あの一瞬を——狙われていたとしか思えません」


「なぜだ」


「五体目は、四体が動いている間ずっと潜んでいました。私の記述が切れる瞬間を、待っていた。あれは……魔獣の動きではありません」


「そうだな」


 父は頷いた。批判でも慰めでもない、ただの確認。だが次の言葉には、伯爵——この領域を守る者としての重みがあった。


「鍛錬では、仕留めた直後を狙う敵は想定しない。あの五体目は待っていた。お前の記述が途切れる瞬間を。魔獣にあれだけの判断ができるのは——異常だ。ヴァンホーテン領を預かる者として、看過できん」


 父の声が低くなった。領主としての顔だ。


「だが」


 と、声の調子が変わった。


「お前を助けた士爵の青年は対応していた。あれは——お前とは違う場所で鍛えられた人間の動きだ」


 わかっている。


 あの青年——カイン・ハワーは、鍛錬場で磨いた記述の型ではなく、実戦の中で身に着けた我流で動いていた。鉄の短剣に記述を乗せて灼熱に変え、投げつける。具現化した剣で刺しながら内部に炎を送り込む。近接と遠距離の同時運用。貴族の武官がやることではない。


 だが、あの動きが私の記述が途切れた一瞬を埋めた。あの粗い剣が、私の鍛錬の外にある脅威を断った。


「あの青年の短剣——鉄に記述を乗せて投擲する。あれは型としては邪道だ。だが合理的ではある。具現化には一呼吸かかる。鉄なら抜いた瞬間に投げられる」


 意外だった。父がそれを認める言い方をしたことが。


「武官としてのセオリーはある。だがセオリーだけで全ての局面は凌げん。あの青年は、凌ぎ方を身体で知っている」


 父はそこで一拍置き、私を見た。


「お前に足りないのは型ではない。型の外で戦う経験だ。それは——高等学院に行けば得られるかもしれん」


 父が立ち上がった。空になった杯を窓辺に置き、背を向ける。


「秋まで、まだ時間はある。考えておけ」


 そう言って部屋を出ていった。足音は重いが、迷いがない。ヴァンホーテン伯爵らしい。言葉は少ないが、必要なことだけを残す。



 一人になった部屋で、蜂蜜酒を口に運んだ。甘くて、少しだけ苦い。舌の上に広がる蜂蜜の温もりが、喉を過ぎると微かな苦みに変わる。今日の一日に、よく似ている。


 カイン・ハワー。


 あの青年のことを考えている自分に気づいた。


 士爵。最下位の爵位。胸元にブローチすらなかった。正装の襟は古びていたし、具現化した剣は光が少なく、形も荒かった。正規の教育を受けていないと、本人がそう言っていた。


 なのに——あの動きだ。


 私が六年間の鍛錬で積み上げてきたものとは全く違う場所から生まれた強さ。型がない。けれど、型がないからこそ、型の外にある脅威に即座に反応できた。教科書に載っていない答えを、身体が知っていた。


 同時運用のことも引っかかっている。剣の具現化と遠距離の記述を同時に行使するのは、記述のスタイルが根本的に違うため極めて難しい。学院でも上級の課題として出されるが、実戦で使いこなせる者は貴族の武官にもほとんどいない。


 それを、独学で覚えたという。何が普通で何が普通じゃないのか、わからないまま。


 悔しい、と思った。


 鍛錬の質も量も、私の方が上のはずだ。恵まれた環境で、優れた師について、伯爵家の血の記述を受けて育った。なのに実戦で背中を守られたのは私の方だった。


 同時に——認めざるを得ないとも思った。あの場面であの判断ができるのは、鍛錬の量ではなく実戦の質だ。あの青年は、私がまだ知らない場所で戦ってきた人間だ。


 ……もう一度、会うだろうか。


 アルベルト・ヴィルブルーム様が声をかけていたのは見えた。大公爵家の嫡男が士爵の武官に。あの穏やかな笑顔で、何かを話していた。何を話していたかは知らない。だが、あの方が興味を持つのはわかる。あの波は——見た者の記憶に残る。


 秋からの高等貴族学院。もしあの青年も王都に来るのなら——。


 杯を置いた。窓の外の月を見た。ヴァンホーテン領から見る月は、王都の方角に傾いている。


 次に会ったとき、守ってもらう側にはならない。


 それだけは、決めた。




---


◆用語・人物紹介◆


**【ハーヴァ・ヴァンホーテン】**

ヴァンホーテン伯爵家の一人娘。16歳。亜麻色の髪に赤銅色の瞳。武官寄りの家系で育ち、概念的クロニクルを剣として具現化し速度強化を併用する速剣型の戦い手。第六位階は完璧、第五位階レリックにも手が届く実力者。努力家で芯が強く、名門の看板ではなく自分の実力で立つことに執着している。


**【ヴァンホーテン伯爵】**

ヴァンホーテン領の領主(タブラ)。武官寄りの伯爵家を率いる壮年の男。言葉は少ないが、娘に対して答えを押し付けず考えさせる教育方針。自らも前線に立つ姿勢を持ち、ハーヴァが目標とする人物。


**【蜂蜜酒】**

ヴァンホーテン家で討伐の後に飲む習慣のある温かい酒。琥珀色で甘さの中にほのかな苦みがある。「生き残った夜は、甘いものを飲め」という初代の頃から受け継がれてきた言葉に由来する。


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