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第7話 差し伸べられた手

 討伐は夕刻まで続いた。


 異常発生の規模は想定以上で、第五島の広範囲にわたって魔獣の密度が跳ね上がっていた。本隊と各班が合流しての掃討戦を経て、ようやく制圧が完了した。森のあちこちに魔獣の骸が散乱し、苔と土が血で黒く変色している。


 伯爵は厳しい顔をしていた。


「数が多すぎる。しかも行動に統率がある。通常の魔獣ではあり得ん」


 調査の結果はまだ出ない。だが単なる自然現象でないことは、全員が感じていた。俺がいた第三班だけでも三度の遭遇があり、最後の五体連携は明らかに異質だった。あれが他の班でも起きていたとすれば——この島で何かが変わり始めている。


 転移門をくぐり、第一島に戻った。夕暮れの光が石畳を赤く染め、伯爵邸の壁が茜色に輝いている。前庭には武官たちが三々五々集まり、報酬の受け取りと負傷の手当を済ませていた。


 腰の短剣に染みついた魔獣の脂を布で拭きながら、帰路のことを考えていた。刃の根元に黒い血がこびりついている。後で砥石で研ぎ直さないといけない。


 父に報告して、薬代を払って、明日からはまた日常だ。


「カイン」


 名前を呼ばれた。


 振り返ると、アルベルト・ヴィルブルームが前庭の隅に立っていた。討伐で汗を掻いていたはずだが、もう身なりは整っている。薄い水色の髪に泥の跡はなく、紫の瞳が夕日に照らされて深い色を帯びていた。さすがに大公爵家だ。従者が替えの衣装を用意していたのだろう。


「少し時間をもらえるかな」


 断れるはずがない。大公爵家の嫡男からの声かけだ。だがアルベルトの声に命令の響きはなかった。「もらえるかな」という問いかけが、形式的でなく本心から出ていることが、声の柔らかさでわかった。


「はい」


 前庭の外れを歩いた。武官たちの声が遠ざかり、庭の端を囲む低い石垣の向こうに雲海が見えた。夕暮れの光がヴァンホーテン領の空を赤く染めている。遠くに第三島と第四島の影が浮かび、その間を渡り鳥の群れが横切っていった。


「第三班、面白い報告が上がっていたよ。——剣と魔法の同時運用。それに物理の短剣」


 アルベルトが真っ直ぐこちらを見ていた。紫の瞳に嘘がない。少なくとも、嘘が見えない。


「教わったものじゃないだろう?」


「……独学です」


「だろうね。学院であの動きは教えない。教えるどころか、禁じている学院もある。近接と遠距離の同時運用は身体への負荷が大きすぎる——という理屈でね」


 知らなかった。禁じられている技術だったのか。


「でも、君はそれを実戦で使いこなしている。制御も安定していた。あの動きは——独学で辿り着ける場所じゃない」


 褒めているのか、探っているのか。アルベルトの顔からは判断がつかなかった。


「審査場でも見ていたよ。第八位階の審査で、あの溢れ方をした士爵家の青年」


 やはり知っていたか。審査場の上段にいた観覧者の中に、この人がいたのだろう。


「僕はアルベルト・ヴィルブルーム。改めて、名前を聞いてもいいかな」


「カイン・ハワーです」


「カイン」


 名前だけを、噛みしめるように繰り返した。ハワーではなく、カイン。それが親しみなのか、それとも家名を省略するほどハワーに価値がないと見ているのか——考えても仕方がない。


「率直に言う。僕はこの秋から王都の高等貴族学院に通う。従者枠という制度を知っているかな」


 知っている。上位貴族が自家の関係者を一人連れていける制度だ。本来は「将来うちの家で働く人材に教育を受けさせる」ためのもの。実際には上位貴族が目をかけた下位貴族の若者を引き上げるための仕組みとして機能している。だが対象になるのはせいぜい子爵家、男爵家でもまずありえない。

士爵家の人間がこの枠に入った前例は——


「その枠に、君を指名したい」


 風が吹いた。雲海の向こうから、冷たく湿った風。夕暮れの赤い光の中で、アルベルトの表情は穏やかだった。


 心臓が跳ねた。だが顔には出さない。


「……恐れ入りますが、士爵家から高等学院への入学は前例がないかと」


「ないよ。だから特例を通す」


 あっさりと言った。迷いの欠片もない。月を指差して「あれを取ってくる」と言う子供のような、純粋な確信。だがこの人の場合、それは夢想ではなく実行力に裏打ちされている。大公爵家の嫡男が本気で推薦すれば、前例がなくとも道は開ける。


「入学審査で共振能力は見せてもらうことになる。だが今日の動きを見る限り、問題はないと思っている」


 この人に裏があるのかどうか、わからなかった。上位貴族が下位に手を伸ばすのは、大抵は利用のためだ。才能のある駒を自分の盤面に加える。そういう流儀を、俺は審査場で嫌というほど見てきた。


 だがアルベルトの目に計算の影は見えない。少なくとも、俺が見る限りでは。


 ——どちらでもいい。この機会を逃す手はない。


 たとえこれが利用であっても、高等貴族学院の教育を受けられるなら、俺にとっては得しかない。この小さな杯の外に出る、初めての扉だ。


「……考えさせてください」


「もちろん。急がないよ」


 アルベルトが微笑んだ。穏やかで、しかし確信に満ちた笑み。


「ああ、それと。今日君が背後を守ったハーヴァ嬢。彼女も同い年で、秋から高等学院に通う。顔見知りがいると心強いだろう?」


 あの令嬢。速剣の使い手。悔しそうに唇を噛んでいた顔を思い出す。「次は自分で対処します」。あの真っ直ぐな声。


「世の中、意外と狭いものだね」


 アルベルトは軽く肩を叩いてきた。大公爵家の嫡男が士爵の肩を叩く。だがこの人にとっては自然な動作のようだった。力加減が——なんというか、友人に対するそれだった。



 転移門で自分の島に戻った。


 帰り道、空気が変わっていることに気づく。いつも通りの、貧乏貴族区の風だ。湿っぽく、やや埃っぽい。足元の石畳は所々欠けている。だが今日は、その一つ一つが妙にくっきりと目に映った。


 家が見えた。ひびの入った壁。傾いた軒先。窓から漏れる灯りは弱々しいが、灯っている。誰かがいる証だ。


 玄関に手をかける前に、空を見上げた。


 夕暮れの空に月が昇り始めていた。


 手の届かない場所だと思っていた。それが、今日——。


 拳を握った。今度は苛立ちではなかった。


 月に手を伸ばす日が来たのかもしれない。




---


◆用語・人物紹介◆


**【アルベルト・ヴィルブルーム】**

ヴィルブルーム大公爵家の嫡男。16歳。薄い水色の髪に紫の瞳。カインの住む島の島主の家の跡取り。身分で人を判断せず「才能が正しい場所にあるべき」という信念を持つ。審査場でのカインの共振の溢れ、そして今回の討伐でのカインの戦い方を見て、高等貴族学院の従者枠を提案する。


**【高等貴族学院】**

一部の貴族のみが通える上位教育機関(16〜18歳)。王都の最上位校が最も格が高い。ここでの教育と人脈がその後の貴族人生を大きく左右する。全ての貴族が通えるわけではなく、中級貴族以上に限られる。


**【従者枠】**

高等貴族学院の制度。上位貴族が自家の関係者を一人連れていける枠。本来は「将来うちの家で働く人材に教育を受けさせる」ためのもの。入学審査で一定以上の共振能力が求められる。士爵家からの入学は前例がない。


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