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第6話 第五島

 第五島は、人の記述が入っていない世界だった。


 木々が好き勝手に伸び、地面は苔と落ち葉に覆われている。踏み出すたびに柔らかく沈む足元。空気は濃く、湿って、獣の気配が至るところに漂っている。倒木には菌類が層を成し、岩肌には蔦が厚く絡みついていた。どこかで水が流れている音がする。


 他の島では感じたことのない、生き物の密度。人の記述による秩序がない場所では、アーカーシャの波は自然のまま巡り、生態系は独自の均衡を保つ。だが今、その均衡が崩れかけている。


 第三班は六名。俺を含む下級の武官が四名と、ハーヴァ・ヴァンホーテン、伯爵家の従者が一名。班長はハーヴァだった。


「痕跡があります。二体分。時間は浅い」


 ハーヴァが地面の草を指で押さえた。手袋越しでも土の状態を読んでいる。指示は的確だった。地形を把握し、魔獣の足跡を読み、班員の配置を組み立てる。声に迷いがない。伯爵家で受けた教育の質が、一つ一つの判断に出ている。


 茂みの先に、動く影が見えた。中型の魔獣。牙の生えた獣種が二体、黒い毛皮に覆われた肩幅は人間の倍ほどある。こちらの気配に気づいて身構えている。低い唸り声が、腹の底に響いた。


「私が前に出ます。左右から挟んでください」


 ハーヴァが前に踏み出した。


 詠唱が始まった。短く、鋭い声。


 ハーヴァの手の中に光が凝縮し、一瞬で細身の剣の形を取った。概念的クロニクルの具現化。淡く輝く刀身が、木漏れ日を受けて白銀に光る。刃紋が波のように揺れていた。


サルヴァート(全てより)ラグ(速く)


 自身にかける記述。身体を包むように淡い光が走った瞬間——ハーヴァの姿がぶれた。


 速い。


 一歩目で魔獣との距離を詰め、二歩目で間合いに入り、三歩目で斬っていた。剣が弧を描く軌道は正確で無駄がない。落ち葉が刃圧で舞い上がるのが見えた。魔獣が反応する前に、首筋を浅く裂いている。


 致命傷ではない。だが、怯んだ隙に二撃目。今度は深く。黒い毛皮を裂いて、血が苔の上に散った。


 一体目が崩れ落ちる間に、もう身体は二体目に向いていた。速度強化がかかったまま踏み込み、突きを放つ。魔獣が爪を振るうが、ハーヴァの方が速い。爪が空を切る横を、剣が通過している。


 二体目も沈んだ。


 詠唱の開始から、十数秒。


「……周囲、安全です」


 ハーヴァが剣を下ろした。息は乱れていない。額に汗の一滴すらない。鍛錬で叩き込まれた動きが、そのまま実戦で機能している。


 正確で、美しい剣だった。第六位階を完璧に使いこなし、伯爵家のレリックにも手が届く——そんな噂を聞いたことがある。十六歳であの精度は、上級貴族にも引けを取らない。


 俺の戦い方とは、何もかもが違う。



 問題は、三度目の遭遇で起きた。


 茂みから飛び出してきた魔獣は四体。しかも、動きがおかしかった。


 通常の魔獣は縄張り意識が強く、群れていても統率された動きはしない。だがこの四体は、散開しながら俺たちを包囲する形で動いた。正面に二体、左右に一体ずつ。まるで人間の戦術のように。


「……おかしい」


 ハーヴァが呟く。赤銅色の瞳が鋭く細められた。だが判断は速かった。


「正面二体は私が抑えます。左右は各一体ずつ——」


 記述。詠唱。剣の具現化、速度強化。ハーヴァが正面に飛び出した。


 戦況は、予定通りに進んだ。ハーヴァが正面の二体を仕留める。速く、正確に。速度強化の記述が解け、その動きが一瞬だけ止まる——二体を仕留めた直後の、ほんの一息。


 五体目が、茂みから飛び出した。


 四体が動いている間、じっと息をひそめていた一体。ハーヴァが記述の集中を解いたその瞬間を——狙っていたかのように踏み込んできた。鍛錬にはない判断。統率された連携。通常の魔獣にはあり得ない。


 ハーヴァは動けなかった。二体を連続で仕留めた後の一瞬。速度強化が切れて身体が切り替わる直前。赤銅色の瞳が、今何が起きているかを理解している——だが身体が追いつかない。


 五体目の魔獣が、ハーヴァの背後で跳んだ。


 俺は動いていた。


 考える前に、身体が動いた。


 腰の短剣を抜いた。鉄の、物理的な短剣だ。クロニクルの具現化ではない。冷たい鋼の感触が掌に伝わる。貴族が持ち歩くものではない。だが実戦では、記述より速い瞬間がある。


 短剣に詠唱を重ねる。


ターパ(灼けろ)


刃が赤熱した。闇の中で鉄が橙に染まり、周囲の空気が歪む。


 投げた。


 灼熱の短剣が魔獣の顔面に突き刺さった。ジュッ、と肉の焼ける音。獣臭い煙が上がる。魔獣が悲鳴を上げ、突進の軌道がぶれた。


 その隙に、剣を具現化する。俺の剣はハーヴァのものとは違う。光が少なく、形も荒い。刃紋はなく、素材そのものが粗い。だが切れる。


 怯んだ魔獣に踏み込んだ。剣を脇腹に突き立て——同時に、記述する。


 剣の刀身を通じて、魔獣の内部に炎が走った。


 外から燃やすのではない。内側から焼く。剣と魔法の同時運用。近接の具現化と遠距離の記述を同時に行使する——普通の貴族にはできない使い方だ。正規の教育を受けた者なら、そもそもこんな発想に至らない。


 魔獣が内側から崩れた。煙を上げながら倒れ、苔の上に沈んだ。


 残りの二体も、他の班員が片づけていた。


 俺は短剣を魔獣の骸から引き抜き、腰に戻した。刃はまだ熱を帯びていて、布で拭うと蒸気が上がった。呼吸が荒い。同時運用は負荷が大きい。肩が重く、こめかみの奥が鈍く痛む。


「……全員、無事ですか」


 ハーヴァの声。班員を確認する目は冷静だったが、俺のほうを見たとき——唇を噛んでいた。


「助けていただいたことには感謝します」


 丁寧な声。だが、その奥に別のものがある。視線が揺れない。まっすぐこちらを見ている。


「——でも、次は自分で対処します」


 悔しさだ。助けられたことではなく、背後の一体に気づいていながら対処できなかった自分への怒り。亜麻色の髪が風に揺れ、赤銅色の瞳が強い光を帯びている。この人は——自分に対して一番厳しいタイプの人間だ。


「お見事でした」


 俺は素直にそう言った。


「正面二体への対応は完璧だった。あの速度と精度は、俺には真似できません」


 ハーヴァの表情が一瞬だけ揺れた。悔しさとは別の何か——自分を正当に評価されたことへの、戸惑いに近いもの。赤銅色の瞳がこちらを見据えた。


「……あなた」


 声のトーンが変わった。敵意でも警戒でもない。純粋な関心だ。


「今、剣で突きながら魔法を——同時に使っていましたよね」


「ええ」


「剣の具現化と遠距離の記述を同時に? どうやって——」


「独学です。正規の教育を受けていないので、何が普通で何が普通じゃないのか、よくわかっていないまま覚えました」


 ハーヴァが黙った。何かを考えている目だった。額に付いた泥を拭うこともなく、ただ考えている。


 それから、少しだけ声の硬さが抜けた。


「……それと。鉄の短剣を持ち歩いているんですね」


「実戦では便利なんです」


「貴族の武官で、物理の短剣を使う人は初めて見ました」


「よく言われます」


 ハーヴァの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。笑ったわけではない。ただ、張り詰めていたものが一瞬だけ弛んだように見えた。


「引き続き、よろしくお願いします。——カイン・ハワー」


 家名付きで呼ばれた。


 上位の貴族が俺の家名を口にしたのは、いつ以来だろう。大抵は「カイン」とだけ呼ばれるか、名前すら呼ばれない。ハワーという家名は、誰にとっても覚える価値のないものだったはずだ。


 それをこの伯爵家の令嬢は、当たり前のように呼んだ。


「こちらこそ」


 それだけ言って、俺たちは再び第五島の森に踏み込んだ。木々の隙間から差し込む西日が長い影を落としている。まだ日が高い。討伐は続く。


 背後で、ハーヴァの足音が俺の歩調に合わせるように変わったことに、俺は気づいていなかった。




---


◆用語・人物紹介◆


**【概念的クロニクルの具現化】**

貴族は記述により、自分の中に概念として構築したクロニクルを武器や防具として具現化できる。形状は使い手の能力とスタイルに依存する。具現化した武器を通じて魔法を行使するのが貴族の基本的な戦い方であり、記述時は声に出して詠唱する。


**【近接と遠距離の同時運用】**

剣の具現化(近接の記述)と遠距離魔法は記述のスタイルが根本的に異なるため、同時に行使するのは極めて難しい。遠距離魔法同士の同時発動は比較的できる者が多いが、近接+遠距離は別次元の難度。カインがこれをできるのは、正規教育を受けず実戦の中で我流で覚えたからこそ。


**【ハーヴァの速剣】**

クロニクルを剣として具現化し、同時に自身に速度強化の記述をかけてスピードと手数で圧倒するスタイル。鍛錬で磨かれた型は精密で美しい。16歳にして第六位階は完璧、伯爵家の第五位階レリックにも手が届く実力者。ただし遠距離魔法と剣の具現化を同時には使えない(切り替え式)。


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