第5話 討伐令
審査から十日ほどが経った。何も変わらない日々だ。
あの審査場での波は、まだ身体の奥で燻っている。朝の鍛錬で共振に触れるたびに、あの日の記憶が呼び起こされる。溢れた波。見開かれた目。背中に刺さった視線。それらを押し殺して、いつも通りの第八位階に収める。日々はそうやって過ぎていく。
その朝、父の手元に通信魔法が届いた。
ヴァンホーテン領からの討伐支援要請。近隣の武官に向けた一斉通達だ。
通信用のクロニクルが光を帯び、父の掌の上で文字が浮き上がる。淡い青白い光。見慣れた光景だが、最近この光を見る頻度が増えている気がする。
「第五島で魔獣が異常に湧いているらしい。領内の武官だけでは手が足りんと」
父が通達の文面を読み上げた。ヴァンホーテン領は五つの浮島で構成されており、そのうち第五島は人がほとんど住んでいない、自然の豊かな島だ。魔物の生息地であり、素材の採取地でもある。
異常発生。最近、そういう話をよく聞く。ヴァンホーテン領だけではない。セレネシアの各地で魔獣の出没頻度が増えている。原因はわかっていない。あるいは、わかっていても下の者には知らされていないだけかもしれない。
「俺が行く」
「……すまんな」
父は短くそれだけ言った。寝台から半身を起こした姿勢のまま、目を伏せている。本来は家長である父が応じるべき通達だ。だが身体を壊した父にその力はなく、俺が代わりに出るのがここ二年の常だった。
報酬は通常の討伐と同等で、伯爵家からの直接依頼扱いの上乗せがある。父の薬代を考えれば、悪い話ではない。
討伐用の装備を整えた。革の胴着、籠手、短剣を二本。クロニクルを具現化した武器ではなく、実物の金属だ。記述魔法と併用するための短剣——俺が独学で編み出した、邪道の戦い方に必要な道具。
島の中央広場に設けられた転移門へ向かった。
石造りの門柱が二本、向かい合うように立っている。台座には転移クロニクルの記述が深く刻まれ、文字が常にかすかな光を放っていた。門の周囲は平民も含めた人々が行き交っている。転移門は貴族が管理するインフラだが、許可された者なら平民でも利用できる。
文官が台座に手を触れ、記述を行うと門柱の間に光が満ちた。冷たい白い光。光の中へ踏み出した瞬間、足元が消える。内臓が浮き上がるような感覚——次に視界が開けたとき、俺はヴァンホーテン領の第一島に立っていた。
空気が違った。自分の島より潮気を含んでいる。ここは海に近い浮島だ。空を見上げると、遠くにいくつかの島影が見えた。ヴァンホーテン領を構成する五つの浮島のうちのいくつかだろう。
集合場所は伯爵家の本邸だった。
石畳の通りを進むと、やがて高い壁に囲まれた屋敷が姿を現した。邸の前庭に天幕が張られ、近隣から集まった武官たちが二十名ほど顔を揃えていた。革鎧に身を包んだ者、記述魔法の武装を纏う者、各家の紋章がそれぞれに異なる。
門をくぐると、壁の石材が一つ残らず新品のような艶を保っていた。うちの家の、ひび割れた壁が頭をよぎる。同じ貴族の家とは思えなかった。庭木は手入れが行き届き、門扉の金具には伯爵家の紋章が精密に象られている。
邸の正面に人影が現れた。鍛えられた体躯に、貴族としての威厳が自然に備わった壮年の男。短く刈り込んだ褐色の髪に、鋭くもどこか温かみのある目。胸元の紋章ブローチは伯爵家のもの。
タブラ・ヴァンホーテン。この領域を維持する記述責任者であり、今回の討伐隊の隊長だ。
傍らに、一人の少女が立っていた。
亜麻色の髪を高く結い上げ、赤銅色の瞳がまっすぐ前を向いている。父より頭二つ分ほど小柄だが、背筋が一本の剣のように伸びていた。鍛えた者特有の隙のなさが、立ち姿の端々に出ている。手は自然に腰の位置にあり、クロニクルをいつでも具現化できる構えだ。胸元には父と同じ紋章のブローチ。伯爵家の令嬢——だが、温室育ちの花の匂いはしない。
「本日の討伐は、第五島で確認された魔獣の異常発生の調査を兼ねている」
伯爵の声が前庭に響いた。低く、明瞭で、無駄がない。軍人の声だ。
「最近、各地で魔獣の異常発生が相次いでいることは諸君も承知の通りだ。第五島の生態系に何が起きているのか、討伐と並行して調査を行う」
やはり、ここでもか。ただの偶然で済ませていい話ではないと、この伯爵も感じているのだろう。
と、前庭にざわめきが走った。
柔和な雰囲気に端正な顔立ち。薄い水色の髪が風に揺れ、深い紫の瞳が穏やかに細められている。纏う衣装の質が周囲と格段に違う青年が、邸の門をくぐってきた。胸元の紋章ブローチが、深い輝きを放っている。ブローチの意匠は藤の花——
ヴィルブルーム。大公爵家の紋章だ。
「アルベルト様。ようこそおいでくださいました」
伯爵が歩み寄り、軽く頭を下げた。周囲の武官たちにも緊張が走る。大公爵家の名は、この場の全員が知っている。
「タブラ・ヴァンホーテン。管轄の異常は自分の目で確かめたくてね」
島主の家の嫡男が、管轄領域の異常を視察に来た。カルムとは浮島単位の記述責任者を指す敬称であり、ヴィルブルーム大公爵家はこの地域一帯のカルムを務めている。その跡取りが動くということは、事態をそれだけ重く見ているということだ。
アルベルトの目が一瞬、前庭の武官たちを見渡した。品定めというより、純粋な興味の目だった。俺の上を通り過ぎたとき——視線が止まったような気がしたが、気のせいかもしれない。
アルベルトは本隊に組み込まれた。
「では、班を分ける。第五島は地形が複雑なため、少人数で機動的に動く」
班分けが始まった。伯爵自ら指揮を執る本隊。その周囲に展開する偵察班がいくつか。
俺は第三班に割り振られた。そして——あの令嬢も同じ班だった。
「ハーヴァ・ヴァンホーテンです。本日はよろしくお願いします」
よく通る、はっきりした声だった。丁寧だが、取り繕った感じがない。言葉の一つ一つに迷いがなく、班員全体を見渡す目に気負いもない。指揮する側の目だ。年齢は俺と同じくらいだろうか。だが声の出し方、立ち方、目線の配り方——全てが、きちんとした教育を受けた者の所作だった。
同じ班として名乗りを交わす流れだ。
「カイン・ハワーです」
自分の家名を口にする。この場で「ハワー」に反応する者はいないだろう。士爵の末端の家名など、誰も気にしない。
令嬢の目が一瞬、俺の胸元——ブローチのない胸元に留まった。それだけだった。何を思ったのかは、赤銅色の瞳からは読み取れなかった。
「では、第五島へ向かう。転移門へ」
伯爵の号令で全員が動き出した。邸の裏手に設けられた転移門。第一島から第五島への直通だ。
門柱の前で文官が記述を始め、光が満ちる。班ごとに転移門をくぐっていく。
俺たちの番が来た。光の中へ踏み出す。一瞬の浮遊感——。
目を開けると、空気が一変していた。
湿った緑の匂いが鼻腔を満たす。足元には厚い苔が敷き詰められ、踏むと水が滲み出た。頭上には枝葉が空を覆い、木漏れ日が地面にまだらな模様を落としている。幹には蔦が絡みつき、所々に名前を知らない花が咲いていた。鳥の声に混じって、低い唸り声が聞こえる。
第五島。人の手がほとんど入っていない島。魔獣の領域だ。
空気に混じるアーカーシャの波が、島の中心の方から微かに揺らいでいるのが感じ取れた。普段の島とは違う、不安定な振動。何かが、この島の均衡を乱している。
俺は短剣の柄に手をかけた。
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◆用語・人物紹介◆
**【通信魔法】**
記述魔法による通信手段。記述者がクロニクルに文面を記述し、宛先の記述者に向けて送ることで相手の手元に届く。貴族同士の連絡手段として広く使われている。
**【転移クロニクル】**
浮島間の移動に用いられる専用のクロニクル。特定の地点同士を結ぶ記述が施されており、記述を行うと転移が発動する。島内の移動には馬車や徒歩など通常の手段が用いられる。
**【カルムとタブラ】**
浮島の世界のクロニクル運営責任者への敬称。カルムは浮島単位、タブラは浮島内の領域単位の責任者。爵位とは別の軸。ヴィルブルーム大公爵家がこの地域のカルム、ヴァンホーテン伯爵家がタブラを務めている。
**【ヴァンホーテン領の構成】**
大小5つの浮島で構成。第一島が伯爵家の本拠、第二〜第四島が平民の生活基盤、第五島が自然豊かな魔物の生息地。
**【アルベルト・ヴィルブルーム】**
ヴィルブルーム大公爵家の嫡男。薄い水色の髪に紫の瞳。穏やかで柔和な雰囲気だが、管轄領域の異常を自ら確かめに来る行動力を持つ。
**【ハーヴァ・ヴァンホーテン】**
ヴァンホーテン伯爵家の令嬢。亜麻色の髪、赤銅色の瞳。武家の出身らしい隙のない立ち居振る舞い。16歳にして第三班の指揮を任されるほどの実力者。




