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第12話 スタートライン

 王都の空気は、島の空気とは違った。


 アーカーシャの密度が高い。空気を吸うたびに、記述者たちの波が肺の奥で微かに共振する。何百年ものあいだ、この王都に集い、記述を重ねてきた者たちの残響。街そのものが巨大な記述空間のように感じられた。


 正門の石造りのアーチを見上げる。


 **王立セレネシア高等貴族院**。


 刻まれた文字の輪郭が、陽光を受けて淡く光っていた。記述魔法で保たれた石材は、何百年経っても建立当初の艶を保ち続けている。


 学院の敷地は広い。正門の奥に、中央広間へと続く回廊、講義棟、記述実習場、そしてその奥に寮棟が並んでいるのが見えた。


 他の新入生たちが次々に到着していた。


 王都中央の大型転移陣から光と共に人と荷物が到着し、門前の広場に運ばれてくる。家から送られた調度品を載せた荷車が続けざまに出現し、従者たちがそれを寮棟へと運んでいく。上位貴族の家では個人用の転移陣を所有しており、そこから少人数で降り立つ一団もあった。


 紋章入りの衣装。紋章入りのブローチ。紋章入りの荷物の紐。どこを見ても家の格を示す印がある。


 俺は背嚢一つだ。


 転移陣を経由する必要すらなかった。



 受付の大広間に入った。


 石造りの高い天井。受付係が数名並び、新入生たちを順に捌いている。列は長くなく、皆スムーズに登録を済ませていく。家名を告げれば、受付係は確認の仕草だけで登録石を差し出す。


 俺の番が来た。


「カイン・ハワー。士爵。従者枠、アルベルト・ヴィルブルーム推薦」


 受付係の指が止まった。


 記録簿を確認する。二度、照合する仕草。それから短く頷いて、登録石を差し出してきた。


 受け取る。前の生徒たちのものは家紋入りで、石の色も深い。俺のは無地の水晶に名前だけが刻まれている。


 初日から、刻まれている格差だ。



 受付を抜けた先の中庭で、アルベルトが待っていた。


 制服姿だった。藤の花の紋章のブローチが、胸元で静かに光を放っている。


「来たな」


 穏やかな声。俺が頭を下げようとすると、軽く手を上げて止めた。


「いい。そこまでしなくていい。ここでは学友だ」


「……」


 学友、という言葉を使うのが、この人にとっては自然なことらしい。従者枠で入学した士爵に対して、大公爵家の嫡男が口にする言葉としては普通ではない。わかっていて使っている。


「少しキャンパスを見ていこう。式まで時間がある」


 アルベルトが歩き出す。俺はその半歩後ろを歩いた。



 講義棟、記述実習場、図書館、中央広間への回廊——アルベルトは一通りの案内を済ませてくれた。


 回廊の壁面には、歴代卒業生の名前が金文字で刻まれていた。


 公爵。侯爵。伯爵。子爵。


 指で追いかけていく。上から下まで、どこまで視線を滑らせても——士爵の名は、一つもない。


 俺が壁を見ている間、アルベルトは何も言わなかった。急かしもしなかった。ただ、そこに立っていた。


 やがて、アルベルトが足を止めた。窓の外を見ながら言う。


「カイン。入学式の前に、少しだけ話しておきたい」


「ああ」


 風が窓から吹き込み、水色の髪がわずかに揺れた。


「君の才能は特大だと思っている。審査場での共振の溢れ方、第五島での動き——あれは単なる偶然でも、ただの力でもない。あれは——」


 言葉を選ぶように、一拍置く。


「あれは、本来あるべき場所にまだ収まっていない力だ」


 本来あるべき場所。


「今までの君は、自分の才能を隠しながら生きるしかなかった。士爵家という小さな杯に、海のような波を押し込めて、溢れる分を抑えながら」


 アルベルトが俺の方を向く。紫の瞳に、嘘が見えない。少なくとも、見えない。


「僕は君をスタートラインに立たせることはできた。それが従者枠での入学だ。だがここから先は——ここで開花させるかどうかは、今後は君次第だ」


「……」


「僕は君に恩を売ったつもりはない。ただ、才能が正しい場所にあるべきだと思っただけだ。だから礼はいらない。代わりに——」


 一度、言葉を切る。


「見せてくれ。君が何者なのか」


 短い言葉。だが重い。


 俺は、何と返すべきかをほんの一瞬考えた。感謝を口にすれば、アルベルトはそれを受け取らないだろう。謙遜をすれば、この人の期待を裏切ることになる。


 口を開いた。


「……わかった」


 それだけだった。それだけで十分だろうと、自分でも思った。


 アルベルトが笑う。穏やかな笑い方。


「それでいい」


 また歩き出す。先ほどより少しだけ、歩幅が柔らかくなっていた。


「ああ、それと。同じクラスになるかどうかは後で発表だ。ただ、従者枠は推薦者と同クラスになる原則がある。つまり——」


 こちらを振り返らずに言う。


「僕たちは同じ寮棟で暮らすことになる。逃げるなよ」


 冗談めかした口調。だが俺は、この大公爵家の嫡男が本気で自分を「学友」として扱おうとしていることを、改めて感じた。



 中央広間に入った。


 天井が高い。大聖堂のような空間で、石造りの壁面には古い記述文字が走っている。文字そのものが柔らかい光を帯びていて、広間全体を昼とも夜ともつかない明るさで満たしていた。


 新入生たちが集まり始めていた。総勢、約百五十名。一学年の全員だ。


 椅子はない。全員が立ったまま入学式を迎える慣例らしい。


 広間に入って最初に気づいたのは——**既にグループができている**ことだった。


 初等部からそのまま持ち上がってきた顔ぶれなのだろう。派閥のようなものが既に形成されている。家格の近い者同士、長年の付き合いの者同士が自然と塊を作って、立ち位置を決めている。


 俺はアルベルトの横で、視線だけを動かして広間を見渡した。



 **前方中央に、アルティリアがいた**。


 深い紺色の上衣に白い裳裾。襟元と裾の満月の紋章が、金糸で光っている。胸元のルビーのブローチ。遠目にも、その姿だけが広間の空気の中で際立っていた。


 すぐそばに、一人の令嬢が控えていた。琥珀色の髪を低く結い、瑠璃色の瞳で周囲を窺っている。王女に近すぎず、しかし必要な距離で控えている——付き人の所作だ。


 アルティリアの周囲には——他の上級貴族の学生たちが近くにいるものの、一定の距離を置いて囲んでいた。流石に王家に馴れ馴れしく近づくのは、上級貴族でも憚られるのだろう。王女の周りにだけ、透明な半径ができているように見えた。


 俺の視線に気づいたのか、アルベルトが小さく笑った。


「アルティリア様のことが気になるのか?」


 不意の声に、一瞬、目を戻す。


「いや……」


「隠さなくていいよ。目立つ方だからね、あの方は」


 アルベルトが声を落として続ける。


「ああ、近くにいるのはシャルロッテ嬢だね。ユリシーズ侯爵家の第四令嬢。いわゆるお姫様の付き人さ」


「……付き人?」


「王家に仕える侯爵家の娘は、幼い頃から王族の身の回りに控えるのが習わしでね。あの人は特に頭が回る。情報収集が得意で、アルティリア様の目と耳みたいなものだ。初等部の頃からずっと一緒にいる」


 もう一度、その二人に視線を戻した。


 確かに、シャルロッテ嬢の目は広間全体を観察していた。家紋、立ち位置、誰と誰が近くに立っているか——既に彼女の中で広間の地図が更新されているのだろう。視線の動きに無駄がない。


 知っている目だ。審査場でカインを「品定め」していた上位貴族と同じ種類の目。ただし、この令嬢の場合は敵意ではなく、職務としての観察に見える。



 視線を動かすと、広間の別の一角で——赤銅色の瞳が目に留まった。


 亜麻色の髪を高く結い上げている。数人の学生に囲まれて、何か話していた。談笑とまではいかないが、彼女が何か言うと周囲が頷いている。発言を求められている側の顔だ。


 ハーヴァだった。


 伯爵家の令嬢ということもあるのだろう。だがそれ以上に、彼女の周囲には人が集まっている。爵位だけでは説明のつかない引力がある。


 ふと、ハーヴァがこちらを振り向いた。


 一瞬、目が合った。


 驚きが、赤銅色の瞳に走る。「第五島の」と口が動いた気がしたが、距離があって声は聞こえない。


 軽く頷くだけの会釈。


 俺も頷きで返した。


 周囲の学生たちが「今の誰?」という視線をハーヴァに向けるのが見えるが、彼女は答えずに話を戻していた。



 残りの生徒たちも、それぞれ爵位や派閥ごとに固まっている。既に顔見知り同士で、入学初日特有の緊張と再会の空気が混ざり合っていた。


 俺のように一人で、どのグループにも属していない生徒は——ほぼいなかった。


 いるとすれば、俺の隣に立っているアルベルトだけが例外だ。だが彼は「一人」ではない。本来なら前方中央の、王族と公爵家の並ぶ一角に立つべき立場の人間だ。それを、わざわざここに立っている。


 口を開いた。


「……あんた」


「うん?」


「あんた、俺の隣にいていいのか」


 声を落として言う。


「大公爵家の嫡男が、士爵の隣に立ってていい場所じゃないだろう、ここは」


 周囲の視線が、遠回しにだが俺たちに向けられているのはずっと感じていた。広間に入った瞬間から、**アルベルトが誰の隣に立つか**は注目されていたはずだ。


 アルベルトが笑う。気負いのない笑い方。


「初等部からの友人は、僕がこういう性格だって知ってるからね。気にしていないよ」


「……そういうものか」


「それに——」


 アルベルトが悪戯っぽく片眉を上げた。


「ここで僕が前方に行って一人で立っていたら、君はこの後方に一人で立つことになる。それは学友としてどうなんだ?」


「……」


「逆に聞きたいんだけど、それのほうがいいのかい?」


「いや」


 即答していた。自分でも少し意外なほど速く。


 アルベルトが声を出して笑う。小さいが、確かな笑い声だった。


「なら決まりだ」


 軽い口調。だが筋は通っている。この人は、本気で自分の立場を「学友」という位置に置いている。身分ではなく、意思で。


 俺は小さく息を吐いた。


 この人と一緒にいるのは——思ったよりも、楽だ。



 時刻が近づいてきた。


 広間のざわめきが、少しずつ静まっていく。新入生たちが一斉に壇上へ視線を向ける。


 壇上には、学院長の座席と、その脇に来賓席が用意されていた。


 だが来賓席は空のままだった。


 ——空のままだが。


 最も格の高い椅子が、中央に据えられている。脚の彫刻も、背もたれの装飾も、普通の来賓用のそれとは明らかに違う。玉座とまでは言わないが、それに似た造作の席。普通の式典では用意されない種類の椅子だった。


 これは——。


 俺はアルベルトに目で問うた。


 アルベルトが、小さく頷く。


「陛下がお越しになる」




---


◆用語・人物紹介◆


**【王立セレネシア高等貴族院】**

王都に設置されるセレネシアの最高教育機関。在籍期間は2年間(下部生16〜17歳、上部生17〜18歳)。1学年は約150名で3クラスに分かれ、学院全体で約300名が在籍する。いずれもセレネシアの中枢として将来活躍することが期待される貴族の子弟。通称「貴族院」。


**【転移陣】**

浮島間・都市間の移動に用いられる記述魔法の装置。王都中央には大型の公共転移陣があり、人と物資が往来する。上位貴族の家は個人用の転移陣を所有していることも多い。


**【登録石】**

入学時に新入生へ渡される身分証。家格に応じて石の質や装飾が異なり、上位貴族のものは家紋入り。カインのような従者枠の石は無地の水晶に名前が刻まれただけで、初日から身分差が可視化される。


**【シャルロッテ・ユリシーズ】**

ユリシーズ侯爵家の第四令嬢。琥珀色の髪に瑠璃色の瞳。王家に仕える侯爵家の慣例で、幼少期からアルティリアの身の回りに控える付き人を務めている。情報収集と状況分析に長けており、アルティリアの目と耳として機能する。

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