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第13話 血と選択

 壇上に、学院長が登壇した。


 白い髪を高く結った壮年の女性。纏う衣装は簡素だが、細部の刺繍には長い歴史を感じさせるものがあった。背筋が真っ直ぐに伸びていて、歩く所作だけで、この人が長年この壇上に立ってきたのだということがわかる。


 隣でアルベルトが声を落として言った。


「レルージュ・オーレンガスト学院長。オーレンガスト公爵家の分家の出だよ」


「公爵家……」


「歴代の学院長は必ず公爵家以上から出る慣例でね。ただ学者肌の方だから、家の政治には関わっていない」


 俺は壇上の女性を見た。


 ただの教職者ではない。纏う気配の厚みが違う。共振の密度が、この広間の他の誰よりも深く、落ち着いている。波の振幅ではなく、波の深さで人を圧する種類の記述者だ。


 学院長が広間を見渡した。


 言葉を発する前に、視線だけで空気が整う。長年、この場に立ってきた者にしかできない所作。


「諸君」


 声は大きくない。だが、広間の隅々まで届いた。


「王立セレネシア高等貴族院へようこそ」



 訓示は、格式張ったものではなかった。


 学院の歴史と使命について、淡々と語っていく。ここに集まった者たちは、セレネシアの未来を記述する者たちであること。血の記述で授かった器と、個人の才能と、そしてこの二年間の教育——その三つが揃って初めて、真の記述者となれるのだと。


「この場所に来た諸君は、既に選ばれし者だ」


 レルージュ学院長が、壇上からゆっくりと視線を巡らせる。


「——だが、それは終着点ではない。むしろ、本当の選別はこれから始まる」


 選別。


 俺の身体が、小さく強張った。


 この言葉の重さを、俺は他の誰よりも知っている。士爵家の血の記述で、第八位階しか扱えないと定められた自分の器。それも、選別の結果だ。そしてそれは、終着点であったはずだった——ここに来るまでは。


「諸君の中には、家を背負う者もいれば、家を作る者もいる」


 学院長が続ける。


「爵位の高低も、家名の重みも、この門の内側では——学びの前には等しく小さい。諸君が何を学び、何を為すか。それが諸君の未来を決める」


 建前だ、と頭の片隅で思う。


 「等しく小さい」。学院の内側で、本当に爵位が無効になるはずがない。俺の登録石が無地である時点で、この広間に入る前から既に差はついている。


 だが——建前であっても、そういう建前が通用する空気が確かにこの学院にはある。それは、外の貴族社会とは少しだけ違う。


 学院長が、一度言葉を切った。


 壇上からゆっくりと視線を広間の奥——入り口の方に向ける。


「——では、本日は特別な訓示を賜る」


 静かな声。だが空気が一段階締まった。


「陛下、御前にて諸君にお言葉を」



 扉が開かれる音。


 近衛騎士が二人、先に広間へ入場してきた。銀の甲冑、王家の紋章——満月の意匠。歩くだけで、鎖帷子の擦れる音が広間の石壁に反響する。


 新入生たちが一斉に頭を下げた。深く、静かに。誰も私語をしない。


 俺も頭を下げる。視線は床に。


 だが気配だけで、王の歩みを追えた。ゆっくりとした足音。壇上に向かう歩み。


 玉座にも似た中央の席の前に立つ気配。


 しかし——座らない。


「——面を上げてよい」


 声。低く、しかし明瞭な声。


 俺は顔を上げた。そして——国王を初めて間近で見た。


 壮年の男性だった。


 深い紺色の髪に、白いものが混じり始めている。アルティリアと同じ、夜の色の髪。彼女のそれが濡れたような艶を保つ紺だとすれば、陛下のそれは霜を被り始めた紺だった。


 衣装は荘重だが、過度な装飾はない。胸元にだけ、大きな満月の紋章のブローチがある。そこにだけ、王家の象徴が集約されていた。


 穏やかな表情。だが——目の奥に、深い疲労が沈んでいる。


 直感的に、そう見て取った。


 この人は、何か大きなものを背負っている。



「新入生諸君。まずは入学を祝福する」


 王は、玉座に似た椅子には座らずに、立ったまま言葉を発した。


 祝辞は短い。だが、言葉の一つ一つに重みがあった。


「この国は——今、傾いている」


 広間が、一瞬息を呑んだ。


 ざわめきが起きかけて、すぐに静まる。国王が自ら「国の傾き」を口にした。入学式という祝事の場でありながら。


 誰もがそれを口にすることを避けてきた言葉を、当事者である王自らが、広間の中央で、建前抜きに発した。


 隣でアルベルトが、微かに息を詰めるのがわかった。大公爵家の嫡男として、この言葉の意味を最も深く理解している者の反応だった。


「諸君がそれに気づいているかどうかは問わない」


 王が続ける。穏やかな声。しかし目の光は穏やかではない。


「だが、ここに集う者たちの中に、やがてその傾きを正す者が、あるいは別の形に変える者がいることを、私は願っている」


 短い言葉の中に、祈りのような響きがあった。


 王家の人間が、広間の新入生たちに祈りを向ける。その倒錯が、この場の空気を重くしている。


「才能は血によって授かる」


 王の視線が、広間全体をゆっくりと撫でていく。


「だが、才能を活かすのは血ではなく——諸君自身の選択だ」


 俺の手が、無意識に握られていた。


 血によって授かる。


 その言葉は、ずっと俺の上に乗っていた重しだった。俺の共振能力は、血によって授かった士爵の器には到底収まらない。血から授かったものが足りない。足りないまま生きてきた。


 だが——王が次に言う言葉は、その前提を少しだけ揺らした。


「才能を活かすのは、諸君自身の選択だ」


 選択。


 血ではなく。器ではなく。


 選択だと、王が言っている。


「この二年間で、諸君が何を選ぶか——それを楽しみにしている」


 王が一礼する。


 近衛と共に壇上を降り、広間を退出していく。玉座に似た椅子は、結局一度も座られることなく、壇上に残された。


 新入生たちが再び深く頭を下げる。王が広間を退出するまで、誰も顔を上げない。


 俺は床を見ながら、王の言葉を反芻していた。


「才能を活かすのは諸君自身の選択だ」


 学院長の「等しく小さい」と、王の「選択」。


 建前と、祈り。


 奇妙に、通じていた。



 王が退出すると、学院長が壇上に戻った。


 小声で、隣のアルベルトに聞いた。


「……今のは、本気だったのか」


 アルベルトが、壇上を見たまま答える。


「……ああ、本気だ」


 声に翳りが差した。


「父も、何も言わないが——この場で陛下が自らそれを口にするのは、尋常じゃない。国の状況は、僕らが思っているより進んでいる」


「あんたも知らなかったのか」


「詳しくは、ね。大公爵家の跡取りとはいえ、国家機密の全てに触れるわけじゃない。ただ、雰囲気だけは家中で感じていた」


 アルベルトの横顔に、普段の穏やかさとは違う影が差していた。ヴィルブルーム家の次代として、国の傾きを引き受ける側の人間の顔だった。


「……君にも、無関係じゃない話になるかもしれないね」


 小さな声で言う。


「国が傾くということは、誰かが支えないといけないということだ。その支え手に、血の色は関係ない。——陛下はそう言いたかったのだと、僕は思う」


 何かを答えようとして、答えずにいた。


 代わりに、床の石の継ぎ目を見ていた。



 学院長が、再び口を開いた。


「続いて、新入生代表の挨拶を賜ります」


 一拍の間。学院長の声には、他への移行とは違う重みがあった。


「——アルティリア・アルカゲネス殿下」


 広間が一瞬、静まった。


 王族の末姫が代表挨拶。格からすれば当然の選出だ。だがそれは同時に、他の新入生から挨拶役を奪う形でもある。この場面に反対できる者はいない。


 広間の前方中央から、アルティリアが歩き出した。


 シャルロッテ嬢が軽く頭を下げて彼女を送り出す。周囲の学生たちが自然と道を開けていく。


 壇上に上がるアルティリア。


 足音が静かだ。衣擦れの音も最小限。歩く所作に、一切の揺れがない。


 壇上の中央で、彼女は軽く頭を下げた。



「新入生を代表して、ご挨拶申し上げます」


 穏やかで、しかし広間の隅々まで届く声。


 演説ではない。対話のような語り口。若干の緊張が、王族らしい静謐さの中に微かに混じっているのがわかった。この人も、人なのだと、奇妙なところで実感した。


「私たちがこの学院で過ごす二年間は、ただ知識を得る時間ではないのだと、先ほどの陛下のお言葉で改めて感じました」


 王の言葉を引き取りながら、自分の言葉として紡ぎ直していく。


「才能は血から。選択は自分から。——その言葉を、私は自分自身への戒めとして受け取りたいと思います」


 自分自身への、と彼女は言った。


 王族の末姫が、新入生代表の挨拶の場で、自分を戒める対象として語っている。珍しい語り口だった。王族が新入生の挨拶でこれを言うことは、普通は想定されない。


「血に授けられたものに驕らず」


 アルティリアが、少しだけ言葉を切った。


 次に発した言葉が、俺の身体を強張らせた。


「——また、血を持たぬことを理由に諦めず」


 心臓が、跳ねた。


 「血を持たぬことを理由に諦めず」。


 一般論として語られた言葉のはずだった。王族の末姫が広間全体に向けて発した言葉。大半の新入生にとっては、耳を素通りする修辞の一つだろう。


 だが、俺にだけは——。


 あの審査場で、俺の波に唯一共鳴したあの人が、「血を持たぬことを理由に諦めず」と言った。


 偶然か。一般論か。それとも。


「この場所で、私たちはそれぞれの選択を重ねていくのだと思います」


 アルティリアが続ける。声はさっきまでと変わらない。


「どうか、この二年間が、私たち一人一人にとって意味ある時間になりますように」


 もう一度、深く礼をした。


 壇上を降りる。


 拍手が起きた。形式的な拍手ではなかった。王族の言葉としてではなく、一人の新入生の言葉として受け取られた拍手だった。


 広間の前方中央に戻るアルティリア。


 シャルロッテ嬢の隣に戻る——その途中で。


 アルティリアの視線が、ほんの一瞬、広間の後方に向けられた。


 俺がいる方向。


 目が合ったかどうかは、距離があってはっきりとはわからなかった。だが身体の奥で、あの日審査場で感じた共鳴の残響が、再び微かに揺れた。


 気のせいではない気がした。



 学院長が再び登壇した。


「以上をもって、本年度の入学式を終わります」


 深く頭を下げる学院長。新入生たちも一斉に礼を返した。


「引き続き、広間に残るように。この後、建立石の儀を行います」


 新入生たちが顔を上げる。


 ざわめきが戻ってくる。


「陛下のお言葉、重かったな」

「国の傾き、って……」

「あの場で言うか、普通」

「アルティリア様の挨拶も、ただの挨拶じゃなかっただろう」


 囁き声が広間を満たしていく。だが、静かな囁きだった。この入学式が、例年よりも重い空気を帯びていたことを、誰もが感じ取っていた。



「……行けるか?」


 アルベルトが小声で尋ねてきた。


「建立石の儀、だろう」


「ああ。例年は、ただの形式的な儀式だよ。入学時の共振を記録に残すだけの伝統。だがね」


 アルベルトが苦笑する。


「君の場合は、形式では済まないかもしれない」


「知っている」


 俺は短く答えた。


「審査場でも、溢れた」


「うん」


「今度も、溢れるかもしれない」


「……気をつけて」


 珍しく、アルベルトの声に緊張が混じっていた。


「建立石は古代のレリック級クロニクルだ。相性が悪ければ——石の方が壊れる可能性だってある」


 石が壊れる。


 俺は壇上の方を見た。アルティリアが広間の前方に戻っている。後ろ姿だけが見える。紺色の髪と、金糸の刺繍。


「血を持たぬことを理由に諦めず」


 その言葉が、胸の中で小さく共鳴していた。


 アルベルトの「君次第だ」という言葉と、重なる。


 俺は、ここに、何をしに来た。


 ——月に手を伸ばすため、だ。


 小さく息を吸った。


 次の儀式で、また自分の波が試される。


 覚悟を決めろ。




---


◆用語・人物紹介◆


**【レルージュ・オーレンガスト学院長】**

王立セレネシア高等貴族院の現学院長。オーレンガスト公爵家分家の出身。歴代の学院長は公爵家以上から出る慣例があり、彼女は学者肌として家の政治には関わっていないが、学院そのものへの影響力は大きい。長年この壇上に立ってきた者特有の、視線だけで空気を整える所作を持つ。


**【現アルカゲネス王】**

セレネシアの現国王。深い紺色の髪(白いものが混じり始めている。アルティリアと同じ夜の色の髪)。胸元に大きな満月の紋章のブローチ。目の奥に深い疲労を沈ませている。入学式で「この国は今、傾いている」と自ら口にし、新入生たちに「才能を活かすのは血ではなく選択」と説いた。


**【建立石スターナクラ】**

王立セレネシア高等貴族院に安置される古代のレリック級クロニクル。入学式の一環として全新入生が触れ、共振の質と深さを記録する伝統儀式。通常は穏やかに光る程度だが、特異な共振の持ち主には強く反応することがある。相性が悪ければ石の方が壊れる可能性もある、繊細な古代遺物。

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