第11話 月への階段
入学式の朝は、よく晴れていた。
荷物は少なかった。着替えが数着。鍛錬用の手甲。短剣二本——一本は柄の革が擦り切れかけている。それだけだ。上位貴族の子弟なら大荷物と従者を引き連れて入学するのだろうが、俺にはそんなものはない。背嚢一つ。中身の軽さが、自分の身軽さと身の薄さを同時に突きつけてくる。
居間で荷をまとめていると、奥の部屋から咳き込む音が聞こえた。
父の部屋に顔を出した。痩せ細った身体が布団の上に横たわっている。朝日が窓から差し込んで、父の頬の影を深くしていた。顔色はそれでも良くはなかった。だが目は開いている。
「……今日か」
「ああ」
「行ってこい」
それだけだった。いつもの父だ。余計な言葉は言わない。だが、その目だけは——没落しようが、息子が士爵から学院に行こうが、自分はこの家の当主だという意地が、まだ燃えている。
今日は少しだけ、その火に別の色が混じっているように見えた。誇り、だろうか。それとも不安か。どちらにしても、父はそれを言葉にはしない。
「留守の間、討伐の仕事は断っておく。薬代は——」
「アルベルト様が手配してくれている。気にするな」
従者枠の学費と生活費はヴィルブルーム家持ちだ。加えてアルベルトは、俺の不在中のハワー家の生活費についても手を回してくれていた。恩が深い。返し方は、まだ見えていない。
「父さん。身体を壊すような無理は——」
「わかっとる。行け」
俺は頭を下げて、部屋を出た。戸を閉める瞬間、父が小さく咳いたのが聞こえた。足が止まりかけた。だが、振り返らなかった。
玄関で、母が待っていた。
いつもの穏やかな笑み。紋章のブローチもない質素な衣服。だが立ち姿は美しい。この人が士爵家にいることの違和感は、何年経っても消えなかった。長い金髪が朝の光に透けて、白銀に見える。今日は少しだけ、その奥にあるものが表に出ているように見えた。
「準備はできましたか」
「ああ」
「忘れ物は?」
「ない」
短いやり取り。いつもの朝と同じだ。だが、いつもの朝ではない。今日、俺はこの家を出る。
「母さん」
「なんですか」
「行ってくる」
母は微笑んだ。そして——少しの沈黙の後に、言った。
「カイン」
名前を呼ばれた。母が俺の名前を呼ぶとき、いつも特別な響きがある。俺をこの名前に決めたのは母だと聞いた。
「あなたは、これからたくさんのものを手に入れるでしょう。力も、知識も、人も。けれど——」
母の声が、かすかに震えた。目の縁が赤い。泣いてはいない。だが、堪えている。
「あなたが、あなたのままでいられますように」
確信ではなかった。いつもの「あなたなら大丈夫ですよ」ではなかった。
祈りだ。
母は何かを知っている。俺の出自。俺の血。そしておそらく——俺がこれから足を踏み入れる世界で、何が起きるかを。力を手にした者が何を失うかを。
訊きたい。だが今は——。
「……行ってきます」
背を向けた。振り返ったら、何かを訊いてしまいそうだった。玄関の戸を閉めた。手が少しだけ震えていたが、それは寒さのせいだと自分に言い聞かせた。
島の中央広場。転移門。
朝の光の中で門柱が白く輝いている。今日は入学式のために特別な転移記述が施されており、門の周囲には数名の文官が控えていた。
文官が台座に手を触れ、王都の高等貴族学院への記述を始めた。
光が門柱の間に満ちていく。冷たく、白い光。
振り返らなかった。母がまだ家の前に立っているかもしれない。父が窓からこちらを見ているかもしれない。だが、振り返ったらこの足が止まる気がした。
光の中へ踏み出す。
一瞬の浮遊感。足元が消え、視界が白に染まり——。
次に目を開けたとき、目の前に聳えていたのは高等貴族学院の正門だった。
王都の空気は、島の空気とは違った。密度が高い。アーカーシャの波が幾層にも重なり、街そのものが巨大な記述空間のように感じられる。空気を吸うだけで、肺の奥でかすかに共振が起きる。この街に住む記述者たちの波が、大気に溶け込んでいるのだ。
門の向こうには学院の校舎が広がっている。石造りの壁面には歴代の卒業生たちの記録が刻まれ、金文字が陽光に光っている。セレネシアの歴史を動かしてきた者たちの名前。公爵家の当主、侯爵家の軍師、伯爵家の学者——その中に、士爵の名前は一つもない。
だが、いつか。
考えるのはやめた。まず、入る。
正門の石段に足をかけた。背嚢の重さが、肩に食い込んだ。荷物は少ないはずなのに、今この瞬間だけは重く感じた。
月に手を伸ばす。その最初の一段を、今日踏んだ。
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◆用語・人物紹介◆
**【ハワー家の現状】**
カインの不在中、討伐の仕事は断り、生活費はアルベルトの手配で確保されている。従者枠の学費と生活費はヴィルブルーム家持ち。カインにとってアルベルトへの恩は深い。
**【母の祈り】**
カインの母はこれまで常に「あなたなら大丈夫ですよ」と確信に満ちた声でカインを送り出してきた。だが入学の日、初めて確信ではなく「祈り」の言葉を口にした。「あなたが、あなたのままでいられますように」——母は何かを知っている。
**【高等貴族学院の正門】**
王都に位置する最上位校。歴代の卒業生の名が壁面に刻まれている。セレネシアの歴史を形作った貴族たちの名が並ぶが、士爵の出身者は一人もいない。




