第9話 閉会の拍手
15時50分。
壁際の黒鉄のブースは、もう半分片づいていた。長机の上には、売り切れた新刊の見本が1冊と、空になった缶コーヒーが2本。黒鉄は「完売」の札を剥がしている。
僕は、長机の前に立った。
今日、2度目だった。
「また来たのか、ガキ」
黒鉄は顔を上げなかった。剥がした札を丸めて、足もとのゴミ袋に放り込む。
「言ったはずだ。1キャラ100万からだ」
両隣のサークルの人たちが、ちらりとこちらを見た。
背中のリュックには、ノートと通帳が1冊ずつ入っている。
僕は肩紐を握り直した。
息を吸う。
口の端が、勝手に上がった。
「100万、妥当な金額です」
黒鉄の手が、止まった。
「いえ──あなたの価値なら、安すぎる」
黒鉄は、まだ顔を上げない。
「だから──」
ここからだ。
ベンチで、何度も計算した数字だった。2人分の初期費用は、100万円の中から払える額でなければならない。1人30万なら、2人で60万。40万が手元に残る。払い続ける率は、会社が潰れずに、ずっと払い続けられる線。ノートの上で何度動かしても、同じ数字に落ち着いた。
「初期費用は、30万で手を打ってください」
隣のサークルの人が、段ボールを閉じる手を止めた。
「その代わり、娘が稼いだ額の5%を、あなたが死ぬまで払い続けます」
◇
黒鉄が、新しい缶コーヒーを机に置いた。
カシャ、と缶を開ける音がした。
顔は、まだ上げない。釣り銭の箱の留め金を指先でいじりながら、黒鉄は言った。
「……続けろ」
心臓が、うるさかった。
ノートの3行を、頭の中でなぞる。
「先生は、午前中に言いました。知らねえ奴が、俺の絵の中で喋るのは気色悪いと」
黒鉄は黙っている。
「なら、知らない奴じゃなくします。先に、中の人を見せます。声を聴いてから、描くかどうかを決めてください」
黒鉄の指が、留め金から離れた。
「……どんな奴だ?」
「言葉で説明したら、先生は信じないと思います。だから、聴いてください」
「2つ目。ママだの何だの呼ばれて、知らねえ奴と一生付き合うのは御免だと」
「……言ったな」
「関係は、契約で決めます。窓口は、全部僕がやります。配信を見る義務もありません。名前を出すかどうかも、ママと呼ばせるかどうかも、どこまで関わるかも、先生が決めてください。関わりたいときだけ、関わってくれればいい」
「それで、お前に何の得がある?」
初めて、黒鉄のほうから聞いてきた。
「先生の絵なら、うちの子が見つけてもらえます。それが、うちの得です」
黒鉄は、それには答えなかった。
「3つ目」
ここで、一度だけ息を吸った。
「描いたものを、途中で取り上げません」
黒鉄の肩が、わずかに動いた。
「先生の描いた子が稼いだら、稼いだ分だけ、先生に返り続けます。来月も、来年も、10年後も。作って終わりにはしません。途中で打ち切りません」
黒鉄の目が、机の上の新刊の見本に落ちた。表紙に、黒鉄の描いた女の子が立っている。売り切れて、もう誰の手にも渡らない1冊の、表紙の中で。
黒鉄は、しばらく黙っていた。
それから、ぼそりと言った。
「売れた分だけ、作った奴に返る」
独り言みたいな声だった。
「……漫画の印税と、同じじゃねえか」
黒鉄の指が、机の上の新刊の見本を、とん、と叩いた。
「誰に教わった?」
僕は、答えた。
「父の工場です」
黒鉄の指が、止まった。
「父は、自分で設計した部品を作っていました。設計の代金は無くて、入ってくるのは部品の代金だけでした」
喉の奥が、少しだけ詰まった。
「最後は、図面ごと、もっと安い工場に持っていかれました。設計した分は、一度も返らなかったので」
黒鉄は、何も言わなかった。
さっきまでの沈黙とは、重さが違った。値札を突きつけて客を帰らせるときの沈黙ではなかった。何かを、確かめている沈黙だった。
◇
ホールのスピーカーから、1日目の閉会を告げる声が流れた。
拍手が、聞こえはじめた。
最初は、ホールの遠くの方からだった。誰かが手を叩き、隣の誰かがそれに続き、波みたいに広がって、壁際まで届いてくる。サークルの人たちが、撤収の手を止めて、次々に手を叩きはじめる。
夏コミの、閉会の拍手だった。
何万人分の拍手が、天井の高いホールの中で、大きな雨みたいに鳴っていた。
両隣のサークルの人たちも、手を叩いていた。
僕は、ひなたんごの最後の夜を思い出していた。3人だった。たった3人に向かって、最後まで明るい声で喋り続けた人がいた。
あの人にも、この音を聞かせたかった。
黒鉄だけが、叩かなかった。
その音の中で、黒鉄は、ゆっくりと顔を上げた。
初めて、僕の顔を見た。
値踏みをする目だった。皮一枚の内側まで、何が入っているのかを確かめる目だった。
僕は、目を逸らさなかった。
膝は、まだ震えていた。それでも、逸らさなかった。
34ヶ月、毎月25日に、同じ額を入れ続けた。誰にも褒められなかった。その34ヶ月が、今、この目に見られている。そう思った。
拍手が、少しずつ収まっていく。
黒鉄の口の端が、ほんの少しだけ、動いた気がした。
「面白え」
低い声だった。
「名前は?」
「朝比奈創です」
黒鉄は、それには何も返さなかった。ただ、一度だけ、小さくうなずいた。
黒鉄は、空になった缶コーヒーを、ゴミ袋に放り込んだ。
「中の人に会わせろ」
立ち上がる。パイプ椅子が、床を擦って鳴った。
「明日の夜だ」




