第8話 断る理由は3つ
会場の外に出ると、空気が白く焼けていた。
8月の東京湾の照り返しが、アスファルトから立ちのぼってくる。屋根のある通路の端に、空いているベンチを見つけた。自販機で水を1本買う。130円。ノートの支出の欄に書く。
ベンチに座って、ノートを開いた。
白いページの上に、まず、黒鉄が自分の口で言ったことを書き出す。
──知らねえ奴が、俺の絵の中で喋るのは気色悪い。
──ママだの何だの呼ばれて、知らねえ奴と一生付き合うのも御免だ。
──1キャラ100万からだ。出直しな。
その下に、くじら座から聞いたことを書く。
──編集部が、主人公の性格を変えろと言った。断って、打ち切り。
──自分のキャラの中身を、他人に決められるのが、何より嫌い。
ペンを置いて、5つの行を眺めた。
スマホが震えた。真田からだった。
〈どうだった?〉
〈断られた〉
〈で?〉
で? と、それだけだった。真田は、慰めの言葉を打たない。僕がどうするつもりなのかだけを、聞いてくる。
〈もう1回行く。閉会前に〉
〈勝算は?〉
〈今から作る〉
既読がついて、返事はなかった。それが真田なりの「行ってこい」だということを、僕は知っている。
◇
分解する。
人が何かを断るとき、理由は1つに見えて、たいてい何本かの糸が絡まっている。父の工場の帳簿でも、そうだった。赤字の行は1行に見えて、ほどくと、原料費と、単価と、納期と、何本もの理由が絡まっていた。
黒鉄の「断る」も、ほどける。
1本目。知らない人格が、自分の絵に入ること。
VTuberのキャラクターは、絵を描いた人のものじゃない。中の人が喋って、笑って、怒って、毎晩その子の人格を作っていく。黒鉄から見れば、自分の描いた人間に、知らない誰かが勝手に魂を入れることになる。
2本目。「ママ」と呼ばれて、関係が続くこと。
配信で名前を出される。誕生日を祝われる。ファンから声をかけられる。望んでもいないのに、知らない人との付き合いが、一生続いていく。
3本目。描いたものを、途中で奪われること。
これだけは、黒鉄は自分では言っていない。でも、くじら座の話を聞いた今なら、わかる。黒鉄は一度、自分の描いた主人公を、他人の都合で変えられそうになって、作品ごと失った。描いたものが、自分の手の届かないところで終わる。その傷が、残りの2本の根っこにある。
僕はノートに、3本の糸を1行ずつ書いた。
それを確かめたくて、一度だけ会場に戻った。黒鉄のブースが見える柱の陰から、列の客と黒鉄のやりとりを、20分だけ見ていた。
黒鉄は、ほとんどの客の顔を見なかった。釣り銭だけを見て、本を渡していた。
顔を上げるのは、客が「17巻のあの台詞が」とか「あのヒロインが」とか、作品の中の人間の名前を口にしたときだけだった。そのときだけ、黒鉄は相手の目を見て、短く何かを言った。
この人は、客ではなく、自分が描いた人間の話をする相手としか、目を合わせない。
ベンチに戻って、1本ずつ、答えを探した。
◇
1本目。知らない人格が入る。
なら、知らない人じゃなくせばいい。
先に、中の人を見せる。声を聴いてもらう。どんな人間なのかを、黒鉄に知ってもらう。そのうえで、描くかどうかを決めてもらう。
篠宮の声を、思い出した。よだかを夜空へ送り出した、あの声。
あの声なら、聴かせる価値がある。
ただ、それは、篠宮をこの人の前に立たせるということだった。審査員の前で一言も出なかった篠宮を、いちばん怖い大人の前に。
ペン先が、紙の上で止まった。
それでも、ほかの答えは見つからなかった。篠宮の声を、篠宮自身に届けてもらうしかない。
2本目。「ママ」と呼ばれる関係が続く。
関係は、契約で決めればいい。窓口は、全部僕がやる。配信を見る義務も、名前を出されるかどうかも、黒鉄が決める。関わりたいときだけ、関わってもらえばいい。
3本目。描いたものを、途中で奪われる。
これが、いちばん深い。
でも、僕には答えがあった。くじら座が一言で言い当てた、あの案だ。
作って終わりにしない。キャラクターが稼いだ分だけ、描いた人に、ずっと返り続ける仕組み。描いた絵が、描いた人の手から離れても、描いた人とつながったまま働き続ける。
何度も書き直して、言葉を削った。最後に残ったのは、短い3行だった。
◇
日が傾きはじめていた。
ノートの3行を眺めているうちに、もう1つ、引っかかることがあった。
1キャラ100万。
あの数字を聞いた瞬間、僕は固まった。僕の34ヶ月と、同じ数字だったからだ。
でも、と思う。
黒鉄は、全部断っている、と言った。全部断っている人が、なぜ値段を口にするのか。
払える人間なら、いくらでもいる。黒鉄が相手なら、200万積む会社もあったはずだ。それでも、断ってきた。
大学生がサークルの延長で来たなら、100万と聞いた瞬間に引き下がる。会社だって、名前も知らない新人の事務所なら、まず払わない。払えない額を言えば、相手は勝手に帰っていく。
あれは、値段じゃない。
断り文句だ。
なら、値切ってはいけない。
50万でどうですか、と言った瞬間に、僕は「100万を払えなかった客」になる。断り文句に負けた、その他大勢の1人になる。
逆だ。
あの100万を、正面から認める。この人の絵には、それだけの値打ちがあると、僕の口で言う。僕の34ヶ月の全部と同じ重さが、それ以上の重さが、この人の描くキャラにはあると。
そのうえで、払い方を変える。
ノートを閉じた。
スマホの時計を見る。
15時30分。
閉会まで、30分。
ノートに、3行。




