第7話 永遠の2位
気づいたら、僕はその女の人を追っていた。
理由は、自分でもうまく言えなかった。ただ、僕が何を言っても動かなかった黒鉄の顔を、あの人は一言で動かした。黒鉄を口説きたいなら、黒鉄を知っている人の話を聞くべきだ。体が先に、そう判断していた。
女の人は、人の流れを縫うように歩いていく。帽子とマスクのまま、迷いのない足取りだった。同じホールの、反対側の壁へ。
そこにも、長い列があった。
壁に貼られたポスターに、夜の海を泳ぐ鯨の絵が描いてあった。星の光を浴びて、群青の水の中を、白い鯨がゆっくりと昇っていく。
『スターリー・ホエール』。
アニメにもなった、あの漫画だ。
女の人は列の横を抜けて、長机の内側に入った。帽子を取り、マスクを外す。肩までの髪を手ぐしで整えて、パイプ椅子に座る。左の耳で、銀のくじらのピアスが光った。
黒鉄が呼んだ「くじら座」が、この漫画の作者のペンネームだと結びついたのは、ブースに貼られた手書きの札を見たときだった。
◇
「はいはーい! 最後尾こちらでーす!」
ブースの前で、明るい声が弾けた。売り子の女の子だった。僕より少し年下に見える。くるくると動き回りながら、新刊を渡して、お釣りを数えて、列の整理までしている。
「お兄さん、並びます? 新刊、あと40冊くらいなら大丈夫ですよ!」
僕は首を横に振った。
「すみません。並ぶんじゃなくて、くじら座先生に、少しだけお話を」
女の子の目が、ぱちりと開いた。それから、長机の内側を振り返る。
「先生ー、なんか男の子が用だって」
くじら座が、顔を上げた。僕を見て、すぐに思い出したような顔をした。
「……あなた、さっき黒鉄さんのとこで固まってた子でしょ」
見られていた。
「口、開けたままだったわよ。かわいかった」
くじら座は、頬杖をついて、目だけで笑った。ひと回りは年上に見える女の人に、かわいいと言われたのは、生まれて初めてだった。さっきとは別の理由で、顔が熱くなった。
「朝比奈といいます。黒鉄先生のことを、教えていただけませんか?」
くじら座は、眉をひそめた。
「ここね、ちょっとだけ回してて」
「はーい!」
ここね、と呼ばれた女の子が、元気よく返事をした。くじら座は僕を、ブースの後ろの、段ボールの積まれた狭い隙間に手招きした。
◇
「で、何を聞きたいの?」
「黒鉄先生が、VTuberの依頼を全部断っている理由です」
くじら座は、ふっと鼻で笑った。
「あの人に仕事を頼んだの? 無謀ね」
「1キャラ100万からだと言われました」
「まあ、最低ラインね」
くじら座は、段ボールに背中を預けた。
「私とあの人は、同じ雑誌で描いてたの。蒼鷺社の『週刊ヤングバレット』。私がデビューしたとき、あの人はもう『アッシュ・バラッド』で、ずっと看板だった」
「……はい」
「連載が重なってた3年間、読者アンケートで、私はずっと2位だった。1位は、いつも『アシュバラ』。編集部で、私のあだ名が何だったか知ってる?」
くじら座は、自分で答えた。
「永遠の2位」
軽い口調だった。でも、その5文字だけ、少し硬かった。
「アシュバラが完結して、あの人が2作目で打ち切られて、雑誌からいなくなって、勝負はそこで終わり。同じ日にここにいるのも、7年ぶり。勝ったんだか負けたんだか、わからないまま」
くじら座は、手の中のペンを指先で回した。
「打ち切りの理由、知ってる?」
「人気が出なかった、とだけ」
「表向きはね。本当は、喧嘩よ。編集部が、主人公の性格を、もっと売れる方向に変えろって言ったの。あの人は、断った。編集長と大喧嘩して、それっきり」
くじら座は、ペンを止めた。
「自分のキャラの中身を、他人に決められるのが、何より嫌いなのよ。あの人」
──知らねえ奴が、俺の絵の中で喋るのは気色悪い。
黒鉄の言葉が、頭の中でつながった。
VTuberのキャラクターには、中の人がいる。絵は黒鉄が描いても、そのキャラが何を喋るかは、黒鉄には決められない。あの人にとって、それは打ち切られた2作目と、同じ形をしているのかもしれない。
「それとね」
くじら座は、少しだけ声を落とした。
「あの人、私のことを、順位で呼んだこと、一度も無いのよ。いつも名前。気にもしてない」
くじら座は笑った。目は、笑っていなかった。
「それが、いちばん腹が立つ」
◇
「僕には、考えていることがあります」
気づいたら、口が動いていた。
「絵を描いてもらった人に、最初に全額を払って終わりにするんじゃなくて、キャラクターが稼いだ額の何%かを、ずっと払い続ける。描いた人に、返り続ける仕組みです」
まだ、誰にも話したことのない案だった。
くじら座のペンが、止まった。
「……キャラクターの、印税ね」
一言で、言い当てられた。
くじら座は、ブースの向こうで新刊を渡しているここねの背中を、ちらりと見た。
「漫画は単行本が売れ続ける限り、印税が不労所得として入ってくる。でもほとんどのイラストの仕事は、描いて、納めて、それで終わり」
僕は、うなずくことしかできなかった。
「そのキャラがどれだけ稼いでも、宣伝にはなってくれても、直接お金が入ってくるわけじゃない」
業界の、それも一線で描いてきた人が、僕の案を、一言で理解した。それだけで、胸の奥が熱くなった。
「VTuberの事務所、やるの?」
ブースの方から、ここねが顔を出した。話が聞こえていたらしい。
「はい。立ち上げたばかりです」
「へえー、すごい! じゃあ、お兄さんがVTuberになるの?」
「なりません。作るほうです」
「あ、そっか。VTuberかあ」
ここねは、明るく笑った。
その笑顔が、一瞬だけ、止まった。
本当に一瞬だった。まばたきより短い間、笑った形の口のまま、目だけがどこか遠くを見ていた。それから、何事もなかったように、ここねは列の整理に戻っていった。
くじら座は、腕時計を見た。
「12時。閉会は16時。あと4時間」
それから、僕のほうを見た。
「あの人は描かないわよ」
僕は、何も言わなかった。
くじら座は、帽子をかぶり直した。ブースに戻る直前、背中を向けたまま、付け足した。
「でも……もし描いたら、教えて」




