第6話 出直しな
8月15日(土)。夏コミ1日目。
事前に買っておいたリストバンドを、手首に巻く。午前入場の参加証。ノートの支出の欄には、もう「1,210」と書いてある。
11時。入場の列が動きだした。
東京ビッグサイトに入るのは、初めてだった。
人の量に、まず息を呑んだ。広いホールの床が見えないくらいに、人がいる。机の島がどこまでも並んで、どの机の前にも誰かが立ち止まっている。紙の匂い。インクの匂い。何万人分もの熱。
ここにいる全員が、誰かの描いたものを買いに来ている。
壁際に向かう。人の流れに逆らわないようにしつつ、配置図の番号を探す。
見つけた。
黒鉄鋼一のサークルの前には、もう列ができていた。壁に沿って折り返し、また折り返して、最後尾の札を持った人が通路の向こうに立っている。
入場して、まだ10分だ。
僕は最後尾に並んだ。
◇
前に並んでいたのは、30代の後半くらいの男の人だった。
肩から提げたトートバッグに、見覚えのある絵が描いてあった。『アッシュ・バラッド』の、1巻の表紙。もう何年も使い込んだのか、布の端がほつれている。
視線に気づいたのか、その人が振り返った。
「あ、これ? 連載の10周年のときの、通販限定のやつなんですよ」
聞いてもいないのに、その人は嬉しそうに言った。
それから、列が動くまでの40分間、その人はずっと『アッシュ・バラッド』の話をしていた。社会人になって最初の年、仕事で潰れかけていたとき、毎週の連載だけが生きる理由だったこと。単行本の17巻で、主人公が仲間の墓の前で言う台詞を、手帳に書き写して持ち歩いていること。
「黒鉄先生の絵って、人間が生きてるでしょう。描いてある人に、明日があるって感じがする」
わかります、と僕は言った。本心だった。
「お仕事は、何を?」と僕が聞くと、その人は少し照れたように笑った。
「動画の会社です。地味な仕事ですよ」
芹沢透、と名乗ったその人と、僕はXのアカウントを交換した。列の先頭が近づいていた。
僕は、頭の中で、言うことをもう一度なぞった。
1期生は2人。1人あたり、50万円。それが、僕の最低限コースの数字だった。足りない分は、デビューしてからの売上で、必ず上乗せする。熱意と、数字と、計画書。それで押し切る。
計画書の入ったクリアファイルを、リュックの外ポケットに移した。手のひらに汗をかいていた。
◇
長机の向こうに、その人がいた。
パイプ椅子に深く腰を沈めて、新刊を手渡している。無精ひげ。左手には缶コーヒー。売り子もいない。お金のやりとりも、全部自分でしている。
近くで見ると、目が鋭かった。客の顔を見ないで、手もとの釣り銭だけを見ている。それなのに、全部見えている目だった。
僕の番が来た。
「新刊を1冊ください」
千円札を出す。黒鉄は黙って本を差し出した。
本を受け取って、僕はそのまま言った。
「朝比奈と申します。VTuberの事務所を立ち上げています。うちのタレントのキャラクターデザインを、黒鉄先生にお願いしたいんです」
黒鉄の手が、釣り銭の箱の上で止まった。
顔は上げなかった。
「……ガキが、サークルごっこか?」
「いえ。VTuberです。配信をする、キャラクターの」
黒鉄は、ようやく顔を上げた。僕の顔ではなく、僕の首にかけた名札も何もない胸のあたりを、一度だけ見た。
「VTuberな」
缶コーヒーを一口あおる。
「そういう話は、全部断ってる」
「全部、ですか?」
「全部だ。知らねえ奴が、俺の絵の中で喋るのは気色悪い」
黒鉄の声は、低くて平らだった。怒っているのではなかった。何度も同じことを言ってきた人の声だった。
「ママだの何だの呼ばれて、知らねえ奴と一生付き合うのも御免だ」
後ろの列の人たちが、僕たちのやりとりを聞いている気配がした。
「どうしてもってんなら」
黒鉄は、缶コーヒーを机に置いた。
「1キャラ100万からだ。出直しな」
◇
100万。
体が、固まった。
頭の中で、通帳の最後の行が光った。
1,000,000。
34ヶ月。毎月25日。夜勤明けの朝。肩の皮。段ボールの角で切った指。学食の大盛り無料。34枚の明細票。
その全部が、この人の絵の、キャラ1人分だった。
言い返そうとした。でも、用意してきた言葉が、全部どこかへ飛んでいた。
1人50万円。
頭の中で何十回もなぞったその数字が、急に、子どもの小遣いの額みたいに思えた。この人に向かって、その半分で描いてくれと言う。そう考えただけで、喉が締まった。
「僕の全財産です」とも、「それなら2人分は払えません」とも、言えなかった。口が開いたまま、声が出なかった。
篠宮の気持ちが、少しだけわかった気がした。
「次の人」
黒鉄が言った。
後ろの人に押されるようにして、僕は列を離れた。手の中に、買ったばかりの新刊が残っていた。
自分の通帳に、キャラ1人分の値札をつけられた。
それが、言葉にできたのは、通路の端まで歩いてからだった。
◇
壁際から少し離れた柱の陰で、僕は立ち尽くしていた。
背中のリュックが、急に重く感じた。
どれくらいそうしていたのか、わからない。気づいたのは、黒鉄のブースのほうから、空気の変わる気配がしたからだった。
帽子を深くかぶって、マスクをした女の人が、列の横から長机の前に立っていた。並んでいる人たちが、ざわついている。
女の人は、腕を組んで黒鉄を見下ろした。
「いつまで同人で遊んでるんですか」
低く抑えた、挑むような声だった。
黒鉄の顔が、初めて動いた。
眉が、ほんのわずかに寄った。僕が何を言っても動かなかった顔が。
黒鉄は、その女の人を見もしなかった。新刊を次の客に手渡しながら、平らな声で言った。
「帰れ、くじら座」




