第5話 締め切り
8月12日の朝、スマホが鳴った。
〈お前の計画、締め切りできたかも〉
真田からだった。メッセージの下に、ニュースのリンクが1つ貼ってある。
開く。
YouTubeパートナープログラム、新規参加の条件を引き上げ。来年2月1日から。
僕は布団から跳ね起きた。
記事を頭から読む。今は、登録者1,000人と、過去1年の総再生時間4,000時間で、収益化を申し込める。それが来年の2月1日から、登録者1,000人と8,000時間になる。ショート動画のほうも、1,000万回から2,000万回に。
ちょうど2倍だ。
電話をかけた。3回目の呼び出し音で、真田が出た。
「見たか?」
「見た」
「お前の表、全部ずれるぞ」
真田圭。立聖大学の理学部数学科、3年。大学1年の春、倉庫の夜勤で隣のレーンに入った男だ。口数が少なくて、段ボールを積む速さだけは僕より上だった。
毎月25日、夜勤明けの朝に僕がATMに寄るのを、こいつは何も聞かずに隣で待っていた。最初は勝手についてきただけだった。それが、気づけば28回になっていた。7月25日の34回目の朝も、麦茶を片手に隣にいた。
34回のうち、28回。僕がATMの前に立つのを、いちばん多く見てきた人間だ。
「逆算しろ」と、真田は言った。「デビューして、条件を満たすまでに何ヶ月かかる?」
「見込みで、2ヶ月」
「なら、遅くとも12月の頭にはデビューだ。その前に、絵、モデル、機材、告知。全部で4ヶ月もない」
「……わかってる」
「わかってる顔じゃない声だな」
図星だった。
8月12日。デビューは遅くとも12月上旬。あと4ヶ月足らず。なのに僕の手元にあるのは、100万円と、まだ首を縦に振ってくれていない1人の声だけだ。
「で、絵は?」と、真田が言った。「篠宮って子の条件、ちゃんとしたママなんだろ」
僕は、配信のことだけは伏せて、あの夕方の条件を真田に話していた。
「探してる」
「当ては?」
「……1人だけ」
電話の向こうで、真田が小さく息を吐いた。たぶん、笑ったんだと思う。
「お前がそういう言い方するときは、無茶な相手だ」
否定できなかった。
「会えるのか、その相手に?」
「夏コミに、出ていれば」
「なら、リストバンド買っとけ。今の夏コミは、午前に入るなら事前に参加証を買わなきゃいけない。当日だと昼過ぎからしか入れないぞ」
真田は、そういうことだけは妙に詳しい。
「1,210円な。お前の帳簿に、ちゃんとつけとけよ」
電話が切れた。僕は、ノートの支出の欄に、まだ買ってもいない参加証の値段を書き込んだ。
◇
ちゃんとしたママ。
篠宮にそう言われた夜から、僕は人気の絵師を片っ端から調べていた。フォロワーの数、過去の仕事、描いたVTuberのその後。表にすると、何十人にもなった。
どの絵も、上手かった。
でも、篠宮の声を当てはめようとすると、どれもしっくりこなかった。
あの声は、澄んでいるのに、甘くない。可愛いだけの絵には、似合わない。
表を閉じて、目を閉じたとき、頭に浮かんだのは、子どものころの父の本棚だった。
『アッシュ・バラッド』。
焼け野原の街で、ヒロインが主人公に背を向けて言う台詞がある。アニメの予告にも使われた、アシュバラでいちばん有名な台詞だ。小学生のころの僕は、意味もわからないまま、そのページを何十回も読み返した。
その台詞を、篠宮の声で想像してしまった。
鳥肌が立った。
黒鉄鋼一。
理屈も、あとから追いついてきた。黒鉄は、今年で52歳。読者は、連載当時に学生や社会人だった人たちで、今は30代から40代。自分の財布で、好きなものにお金を出せる世代だ。若い層に広く届く絵師は他にもいる。でも、この世代に深く届く名前は、多くない。
問題は、黒鉄がどんな人間か、僕が何も知らないことだった。
◇
黒鉄のXのアカウントを開く。
フォロワーは、約15万人。
作品の名前は誰でも知っているのに、描いた本人のアカウントは、思ったより小さかった。アカウントができたのはアシュバラが終わった年で、自分の本の宣伝は、一度もしていない。
投稿は、ほとんどが絵だった。鉛筆の下描きのまま上げたものもあれば、仕上げたカラーもある。どれも、1枚で画面の空気が変わるような絵だった。
そして、絵と絵の間に、喧嘩があった。
誰かが黒鉄の昔の作品をけなすと、黒鉄はそのポストを引用して、容赦なく噛みつく。言葉は荒い。そのたびに炎上して、フォロワーが何千人か減る。しばらくして新しい絵を上げると、また増える。その繰り返しだった。
いちばん大きく燃えたのは、何年も前の投稿だった。
黒鉄が2作目の連載を打ち切られ、商業誌から姿を消したころ。「どうせ黒鉄が悪い。あんな主人公じゃ、打ち切られて当然だ」とポストした人に、黒鉄は引用で、何十行も噛みついていた。まとめ記事がいくつも作られ、ネットの話題を何日も占領していた。
僕はノートを開いて、1行だけ書いた。
〈この人は燃える〉
それから、黒鉄が過去に噛みついた投稿を、遡れるところまで全部読んだ。夜が明けるまでかかった。
読み終えて、気づいたことがあった。
黒鉄が噛みついた相手は、全員、黒鉄の作品か、作品の登場人物か、顔も知らないはずの漫画家や作家をけなした人だった。黒鉄自身をけなした人には、ほとんど返していない。
いちばん大きく燃えたあの投稿も、黒鉄が噛みついていたのは「黒鉄が悪い」ではなく、「あんな主人公」のほうだった。
この人は、自分のために怒っているんじゃない。
自分が描いた人間のために、怒っている。
燃える理由が分かっている人は、燃え方も読める。
ノートの「この人は燃える」の下に、僕はもう1行足した。
〈それでも、この人がいい〉
ただ、黒鉄がVTuberのことをどう思っているのかは、どれだけ投稿を遡っても、1行も見つからなかった。
◇
黒鉄の連絡先はどこにも公開されていない。
黒鉄に会える場所は、1つしかなかった。
商業誌から去った今、黒鉄は同人誌を描いている。コミックマーケットに出るのは、数年に1度。前に出たのは、4年前の夏だった。
次の夏コミは、8月15日と16日。
僕は、公式のサークル一覧を開いた。
1日目。壁。
「黒鉄鋼一」。




