第4話 ちゃんとしたママ
ゼミが終わるなり、篠宮澪は誰よりも早く教室を出ていった。
机の上に、篠宮の発表資料が1部、残っていた。発表のあいだ、ずっと握りしめていた1部だ。表紙の角が、指の形に折れていた。
僕はそれを掴んで、自分の資料と一緒に鞄に突っ込み、あとを追った。
階段を2段飛ばしで駆け下りる。赤レンガの校舎の出口で、ようやく背中に追いついた。夕方の光が、ツタの葉の影を地面に落としている。
「篠宮さん」
篠宮が足を止めた。振り返った顔に、警戒の色が浮かんでいた。同じゼミの男子が、走って追いかけてきたのだ。無理もない。
息を整える。何から話すか、階段を下りながら考えていたはずなのに、全部抜け落ちていた。
だから、いちばん確かなことから言った。
「土曜日の夜。『よだかの星』を読んでましたよね」
篠宮の顔から、色が消えた。
「……え」
「本棚の写真の配信です。同接が2だった。1人は、僕です」
篠宮の指が、鞄の持ち手をきつく握るのが見えた。
「なんで?」
かすれた声だった。
「なんで、わかったの?」
「声で。さっきのゼミの、最初の一文で」
篠宮は、半歩下がった。驚かせてしまったのだと、僕は思った。それなら、知っていることを先に全部言ったほうがいい。
「『いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう』。あそこで篠宮さんは、『僕は』のあとで息を吸った。読点の無い場所です。よだかが覚悟を決めたのは、そこだから。あの一拍で、僕は鳥肌が立ちました」
篠宮が、黙った。
「それから、日曜日。回送の話と、『ここでは、ちゃんと喋れるんです』って」
「……やめて」
篠宮は、片手を上げて僕の言葉を止めた。
「やめて。……覚えてるの? 全部?」
「覚えてます。2晩分、全部」
「……誰かに、言った?」
「言ってません。誰にも言いません」
「当たり前でしょ」
短く、尖った声だった。勝手に聴かれて、勝手に覚えられていたのだ。怒って当然だ、と僕は思った。
篠宮は、しばらく僕を見ていた。それから、ふっと息を吐いた。笑ったのではなかった。力が抜けた、という息だった。
「……何の用?」
僕は、背筋を伸ばした。
「僕の事務所に、入ってほしいんです」
「事務所?」
「VTuberの事務所です。篠宮さんの声で、デビューしてほしい」
「どこの事務所?」
「僕の事務所です」
「……なんて名前?」
「事務所も、会社も、今から作ります」
篠宮は、まばたきを2回した。
それから、乾いた音で、短く笑った。
「何それ」
ゼミで一度も聞いたことのない声だった。配信の、澄んだ朗読の声とも違う。もっと低くて、少しだけ棘のある、地声だった。
「会社もないのに、スカウト?」
「はい」
「お金は?」
「100万円あります」
「……100万で、VTuberの事務所が作れるの?」
「作れません。今のところ、370万円足りません」
篠宮は、今度ははっきり呆れた顔をした。
「正直なのね」
「数字で嘘をついても、あとで自分が困るだけなので」
ツタの影が、風で揺れた。校舎から出てきた学生たちが、僕たちの横を通り過ぎていく。篠宮はその人たちが遠ざかるまで、黙っていた。
人の気配が消えてから、篠宮はぽつりと言った。
「知ってるでしょ。さっきの、私」
「はい」
「あれが、私。オーディションでも、全部あれ」
篠宮は、鞄の持ち手を握ったまま、地面の影を見て話しはじめた。
「大手に3社、出した。3社とも、最後の面接まで残った。書類も、録音の審査も、通ったの」
淡々とした口調だった。
「最後は、審査員の人たちの前で喋る。1社目は、自己紹介の途中で声が出なくなった。2社目と3社目は、最初の一言も出なかった」
土曜日の夜の、あの一言を思い出した。
──声を聴いてもらう前に。
「講評、なんて書いてあったと思う? 『当日のパフォーマンスを評価できませんでした』」
篠宮は、少しだけ笑った。
「声優の養成所に、2年通った。週に3日、夜のクラス」
篠宮は、地面の影から目を上げなかった。
「発表会の舞台に立つと、毎回、喉が閉じる。お客さんの顔が見えた瞬間に、もうだめなの」
「いつから、ですか?」
「中学の、国語の音読。教科書を持って立ったら、クラスの全員がこっちを見てた。それで、一文字も出なかった。……それから、ずっと」
ずっと。その一言の中にどれだけのものが詰まっているのか、僕には想像しかできなかった。
「声は、褒められたことがあるの。養成所の先生にも。でも、聴いてもらえたことは、一度もない。いつも、聴いてもらう前に終わる」
「VTuberなら、顔は見えません」
僕が言うと、篠宮は首を横に振った。
「だから、受けたの」
まっすぐな目だった。
「同接が何百でも、コメントがどれだけ流れても、数字と文字の前でなら、喋れる。土曜日の夜みたいに。……でも、そこまで行けない。どこの事務所も、最後は、顔を合わせて決めるから」
僕は、すぐには答えられなかった。
アバターがあれば喋れる。それは、篠宮のほうが先に知っていた。僕が考えていなかったのは、その手前の、顔のある部屋だった。
「……審査員の前で一言も出なかった私に、何ができるの?」
その問いに、今の僕は答えを持っていなかった。
だから、持っているものだけを言った。
「篠宮さんの声は、僕に届きました」
篠宮の目が、わずかに揺れた。
「僕は4年間、眠れない夜のたびに、誰にも見つけられていない配信を探して聴いてきました。何千本も。その中で、本気で鳥肌が立った声は、片手で数えるほどしかない。篠宮さんの声は、その1つです」
「……」
「土曜日の夜、篠宮さんの声だけで、僕の6畳は夜空になりました」
自分でも、何を言っているのかわからなくなりかけていた。それでも、止まらなかった。
「何ができるかは、僕にもまだわかりません。顔のある部屋を、どうすればいいのかも。でも、あの声を、2人しか聴いていない場所に置いておくのは、もったいないと思う」
篠宮は、しばらく黙っていた。
夕方の鐘が、校舎の上で鳴った。
口を開いたのは、鐘が鳴りやんでからだった。
「VTuberには、絵がいるのよね」
「はい。キャラクターのデザインを描く絵師さんを、業界では『ママ』って呼びます」
「そのくらい知ってる」
篠宮は、少しだけ顎を上げた。
「オーディションの前に、いっぱい見たから。絵がいい子は、最初の一言を聞いてもらえる。聞いてもらえるまでの何秒かを、絵が稼ぐの」
篠宮は、そこで一度口をつぐんだ。自分の何秒かを、思い出しているみたいだった。それから、続けた。
「私、固まる自分が嫌いなの。でも、声だけは、嫌いになれなかった。だから、もし、もしもよ。その声で、誰かになるんだとしたら」
言葉を選ぶように、一度区切る。
「その誰かは、ちゃんとした人が描いた子じゃないと、嫌」
僕は、うなずいた。
「わかりました」
「簡単に言わないで。ちゃんとした、って、意味わかってる? 安い絵で、適当な子を作って、私の声を入れるだけなら、断る」
「わかってます」
わかっている。そのちゃんとした絵に、いくらかかるかも。僕の表の1行目、140万円のセルが、頭の中で赤く光った。
「それと、探すのは、あんたね」
篠宮は、天気の話でもするみたいに付け足した。
「私は、絵ができるまで何もしない。会社も、お金も、そっちの話でしょ」
370万円足りないと、ついさっき白状したばかりの相手に、だ。
僕は鞄から、さっき拾った篠宮の資料を取り出して、差し出した。
「これ、教室に忘れてました」
篠宮は、受け取った資料と僕の顔を、交互に見た。指の形に折れた表紙をめくると、1枚目の、商店街の空き店舗の写真。その余白に、今日、声にならなかった発表の原稿が、小さな字でびっしり書き込まれていた。
「……ありがと」
小さな声だった。資料を胸に抱えて、篠宮が僕を見上げた。さっきまでの棘が、どこにも無かった。ゼミでは一度も見たことのない顔だった。
一瞬、息をするのを忘れた。
僕は、半歩下がった。スカウトしている相手に、見とれている場合じゃない。
篠宮は、黙って目を逸らした。それから、鞄を肩にかけ直した。
背を向ける直前に、こちらを振り返った。
「ちゃんとしたママを連れてきたら、考えてあげる」




