第3話 一文で、わかった
眠れなかった。
夜勤明けに昼まで寝て、起きてからずっと、表とにらみ合っていた。370万円。どの数字をどう動かしても、その差は縮まらなかった。日付が変わっても、頭の中で数字が回り続けていた。
こういう夜、僕には決まってやることがある。
スマホでYouTubeを開いて、配信中の動画だけに絞る。何万人もが見ている大きな配信を、親指で弾いて飛ばしていく。もっと下へ。もっと奥へ。同接が1桁の、誰にも見つけられていない配信まで。
ひなたんごがいなくなってから、ずっと続けている癖だった。
誰かに見つけてもらえるのを待っている声が、この画面のどこかに、今夜もある。それを探すのは、僕にとって祈りみたいなものだった。
ギターを抱えたまま、弾かずに黙っている男の子。同接1。誰もいない部屋で、レースゲームのタイムを縮め続けている人。同接0。寝息だけを流している、睡眠用の配信。同接4。
たいていは、10分も聞かずに閉じる。悪い配信だからじゃない。僕の耳に、引っかからないだけだ。この4年で、引っかかった声は、片手で数えるほどしかなかった。
その夜、親指が止まった。
サムネイルは、古い本棚の写真だった。アバターもない。顔もない。タイトルは、1行だけ。
──朗読と、少しだけ雑談。
しばらくして、視聴中の数字が1から2に変わった。
僕と、もう1人。
「……よだかは、実にみにくい鳥です」
声が、耳に入ってきた。
息が止まった。
澄んでいた。よく通る声だった。高くも低くもない、落ち着いた真ん中の音なのに、言葉の一つ一つが、冷たい水みたいに体の奥まで届いてくる。
宮沢賢治の『よだかの星』だった。醜いと笑われ、名前を変えろと迫られ、居場所を失った鳥が、それでも空へ昇っていく話。
その声で読まれると、知っている話が、知らない話みたいに聞こえた。
よだかが泣く場面で、声は泣かなかった。泣かないのに、聞いている僕のほうが、喉の奥を掴まれた。
6畳の部屋が消えた。370万円が消えた。耳に届く声のほかに、何も残らなかった。
それでも、頭の片隅で、僕の中の冷たい部分が動いていた。何千本と配信を聞いてきた耳が、勝手に数えていた。
息継ぎの位置が、正確だ。文の切れ目ではなく、意味の切れ目で吸っている。間の取り方に、迷いがない。誰かに習っている。それも、何年も。
なのに、同接2。
こんな声が、こんな場所に埋もれている。
コメント欄が、一度だけ動いた。もう1人の視聴者だった。名前は「@さんぽ」。アイコンは、端の欠けた月の形をしていた。
──ちゃんと、届いてますよ。
朗読が止まった。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。読み上げるときの、澄んだ声とは違う。人に向かって喋るとき、この人の声は少しだけ細くなるのだと、僕は思った。
しばらく、無音が続いた。
それから、その人は言った。
「今日、オーディションに落ちました」
淡々とした声だった。
「声を聴いてもらう前に」
それだけ言って、続きを読みはじめた。
何があったのかは、言わなかった。悔しいとも、悲しいとも言わなかった。ただ、さっきよりもまっすぐな声で、よだかが夜空へ昇っていくところを、最後まで読み切った。
僕は、コメント欄に何か打とうとして、何も打てなかった。
中学2年の夜と、同じだった。
欠けた月のアイコンは、それきり何も書かなかった。同接の数字は、最後まで2のままだった。
配信が終わったのは、午前3時を過ぎたころだった。僕はチャンネルを開いて、残っている動画を見た。全部、朗読だった。どれも再生回数は2桁。登録者は、11人。
チャンネルの説明欄には、一文だけあった。
──声の練習をしています。
僕は、12人目の登録者になった。
◇
次の夜も、その配信は始まった。
同接は、また2だった。僕と、欠けた月。
その夜は、雑談のほうが少しだけ長かった。
「……同接、2。今夜も、満員です」
それから、読む前に、どうでもいい話を1つだけ、と言った。
夏の夜は、窓を開けて読むと、遠くの線路の音が入ってしまう。だから、最終電車の時刻を調べて、それが過ぎてから読みはじめることにした。そういう話だった。
「……このあいだは、最終のあとに、回送が来ました。回送は、誰も乗せないくせに、音だけは置いていきます」
短い間があった。誰かが笑うのを待つ長さだった。笑う人のいない部屋で、その人は、きっちりその長さだけ待ってから、次の話に移った。
喋りの間は、誰かに習ったものではない気がした。
好きな本の話。誰も聞いていない海に向かって、毎晩本を読む灯台守の短編があるのだという。タイトルは、言わなかった。誰に向けたわけでもない、ひとりごとみたいな話し方だった。
オーディションの話は、一度も出なかった。
一度だけ、ぽつりと言った。
「ここでは、ちゃんと喋れるんです」
誰に言ったのかわからない言葉だった。コメント欄の欠けた月も、僕も、何も打たなかった。
読み終えると、その人は小さく「おやすみなさい」と言って、配信を切った。
僕は、布団の中で、その声を何度も頭の中で再生した。
どこかで、聞いたことがある気がした。
でも、思い出せなかった。
◇
7月27日(月)。
立聖大学、経営学部。前期最後のゼミ。
赤レンガの校舎の3階、窓の外でツタの葉が揺れている教室に、12人のゼミ生が集まっていた。テーマは「地域経済と小さな事業」。今日は1人10分ずつ、前期のまとめを発表する。
寝不足の頭で、僕は自分の番を終えた。発表の中身は、ほとんど覚えていない。教授に「朝比奈くん、数字は面白いけど、もう少し人の顔が見える話にしようか」と言われたことだけは覚えている。
隣の席の同期は、夏休みのインターンの話をしていた。3年の夏。周りはもう、就職活動の準備を始めている。僕の頭の中にあるのは、370万円の穴だけだった。
窓際の席に、篠宮澪がいた。
同じゼミになって4ヶ月。僕は、彼女の声をちゃんと聞いたことがなかった。
グループワークでは、いつもうなずくだけ。質問されると、短く答えて目を伏せる。背中まで届く黒い髪を、右側だけ耳にかけている。資料の端をそろえる指だけが、いつも几帳面だった。ゼミの誰も、彼女のことをよく知らなかった。
一度だけ、同じ班になったことがある。僕が作った表の数字の間違いを、篠宮は黙って鉛筆で丸く囲んで、こちらに押し返してきた。正しい数字が、小さな字で横に書いてあった。その下に、1文字だけ、「雑」とあった。僕が礼を言うと、篠宮は首を横に振っただけだった。
声は、聞かなかった。
「次、篠宮さん」
教授が名前を呼んだ。
篠宮が、立ち上がった。
資料を胸の前で握って、前に出る。スクリーンに、1枚目のスライドが映る。商店街の空き店舗の写真。
篠宮は、息を吸った。
「本日は、商店街の空き店舗を、若い事業者に貸し出す仕組みについて、発表します」
僕の背中が、椅子から浮いた。
次の言葉は、出てこなかった。
篠宮の唇が、かすかに開いたまま止まっている。資料を握る指が、白くなっていく。教室の空気が、少しずつ重くなる。誰かが、椅子をきしませた。
5秒。10秒。
篠宮の喉が、動かない。
教授が、柔らかい声で言った。
「篠宮さん、資料はあとで提出してくれればいいよ。じゃあ、次の人」
篠宮は小さく頭を下げて、席に戻った。顔は真っ白だった。座ったあとも、握った資料を離さなかった。
次の発表が始まった。誰も、何も言わなかった。いつものことだ、という空気だった。後ろの席で誰かが「また?」と小さく笑い、隣の誰かがそれをたしなめた。
篠宮は、窓の外のツタを見ていた。こちらからは、横顔の輪郭しか見えなかった。
僕は、次の発表を一文字も聞いていなかった。
耳の奥で、さっきの一文が鳴り続けていた。澄んでいて、よく通る、落ち着いた真ん中の音。本棚の写真の向こうで、毎晩、誰かに届くのを待っていた声。
一文で、わかった。
昨夜の声だ。




