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僕の考えた最強のVTuber事務所ができるまで  作者: 黒い★彡彗星
第1章 原石と2人の漫画家
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3/5

第3話 一文で、わかった

 眠れなかった。


 夜勤明けに昼まで寝て、起きてからずっと、表とにらみ合っていた。370万円。どの数字をどう動かしても、その差は縮まらなかった。日付が変わっても、頭の中で数字が回り続けていた。


 こういう夜、僕には決まってやることがある。


 スマホでYouTubeを開いて、配信中の動画だけに絞る。何万人もが見ている大きな配信を、親指で弾いて飛ばしていく。もっと下へ。もっと奥へ。同接が1桁の、誰にも見つけられていない配信まで。


 ひなたんごがいなくなってから、ずっと続けている癖だった。


 誰かに見つけてもらえるのを待っている声が、この画面のどこかに、今夜もある。それを探すのは、僕にとって祈りみたいなものだった。


 ギターを抱えたまま、弾かずに黙っている男の子。同接1。誰もいない部屋で、レースゲームのタイムを縮め続けている人。同接0。寝息だけを流している、睡眠用の配信。同接4。


 たいていは、10分も聞かずに閉じる。悪い配信だからじゃない。僕の耳に、引っかからないだけだ。この4年で、引っかかった声は、片手で数えるほどしかなかった。


 その夜、親指が止まった。


 サムネイルは、古い本棚の写真だった。アバターもない。顔もない。タイトルは、1行だけ。


 ──朗読と、少しだけ雑談。


 しばらくして、視聴中の数字が1から2に変わった。


 僕と、もう1人。


「……よだかは、実にみにくい鳥です」


 声が、耳に入ってきた。


 息が止まった。


 澄んでいた。よく通る声だった。高くも低くもない、落ち着いた真ん中の音なのに、言葉の一つ一つが、冷たい水みたいに体の奥まで届いてくる。


 宮沢賢治の『よだかの星』だった。醜いと笑われ、名前を変えろと迫られ、居場所を失った鳥が、それでも空へ昇っていく話。


 その声で読まれると、知っている話が、知らない話みたいに聞こえた。


 よだかが泣く場面で、声は泣かなかった。泣かないのに、聞いている僕のほうが、喉の奥を掴まれた。


 6畳の部屋が消えた。370万円が消えた。耳に届く声のほかに、何も残らなかった。


 それでも、頭の片隅で、僕の中の冷たい部分が動いていた。何千本と配信を聞いてきた耳が、勝手に数えていた。


 息継ぎの位置が、正確だ。文の切れ目ではなく、意味の切れ目で吸っている。間の取り方に、迷いがない。誰かに習っている。それも、何年も。


 なのに、同接2。


 こんな声が、こんな場所に埋もれている。


 コメント欄が、一度だけ動いた。もう1人の視聴者だった。名前は「@さんぽ」。アイコンは、端の欠けた月の形をしていた。


 ──ちゃんと、届いてますよ。


 朗読が止まった。


「……ありがとうございます」


 小さな声だった。読み上げるときの、澄んだ声とは違う。人に向かって喋るとき、この人の声は少しだけ細くなるのだと、僕は思った。


 しばらく、無音が続いた。


 それから、その人は言った。


「今日、オーディションに落ちました」


 淡々とした声だった。


「声を聴いてもらう前に」


 それだけ言って、続きを読みはじめた。


 何があったのかは、言わなかった。悔しいとも、悲しいとも言わなかった。ただ、さっきよりもまっすぐな声で、よだかが夜空へ昇っていくところを、最後まで読み切った。


 僕は、コメント欄に何か打とうとして、何も打てなかった。


 中学2年の夜と、同じだった。


 欠けた月のアイコンは、それきり何も書かなかった。同接の数字は、最後まで2のままだった。


 配信が終わったのは、午前3時を過ぎたころだった。僕はチャンネルを開いて、残っている動画を見た。全部、朗読だった。どれも再生回数は2桁。登録者は、11人。


 チャンネルの説明欄には、一文だけあった。


 ──声の練習をしています。


 僕は、12人目の登録者になった。


          ◇


 次の夜も、その配信は始まった。


 同接は、また2だった。僕と、欠けた月。


 その夜は、雑談のほうが少しだけ長かった。


「……同接、2。今夜も、満員です」


 それから、読む前に、どうでもいい話を1つだけ、と言った。


 夏の夜は、窓を開けて読むと、遠くの線路の音が入ってしまう。だから、最終電車の時刻を調べて、それが過ぎてから読みはじめることにした。そういう話だった。


「……このあいだは、最終のあとに、回送が来ました。回送は、誰も乗せないくせに、音だけは置いていきます」


 短い間(ま)があった。誰かが笑うのを待つ長さだった。笑う人のいない部屋で、その人は、きっちりその長さだけ待ってから、次の話に移った。


 喋りの間は、誰かに習ったものではない気がした。


 好きな本の話。誰も聞いていない海に向かって、毎晩本を読む灯台守(とうだいもり)の短編があるのだという。タイトルは、言わなかった。誰に向けたわけでもない、ひとりごとみたいな話し方だった。


 オーディションの話は、一度も出なかった。


 一度だけ、ぽつりと言った。


「ここでは、ちゃんと喋れるんです」


 誰に言ったのかわからない言葉だった。コメント欄の欠けた月も、僕も、何も打たなかった。


 読み終えると、その人は小さく「おやすみなさい」と言って、配信を切った。


 僕は、布団の中で、その声を何度も頭の中で再生した。


 どこかで、聞いたことがある気がした。


 でも、思い出せなかった。


          ◇


 7月27日(月)。


 立聖(りっせい)大学、経営学部。前期最後のゼミ。


 赤レンガの校舎の3階、窓の外でツタの葉が揺れている教室に、12人のゼミ生が集まっていた。テーマは「地域経済と小さな事業」。今日は1人10分ずつ、前期のまとめを発表する。


 寝不足の頭で、僕は自分の番を終えた。発表の中身は、ほとんど覚えていない。教授に「朝比奈(あさひな)くん、数字は面白いけど、もう少し人の顔が見える話にしようか」と言われたことだけは覚えている。


 隣の席の同期は、夏休みのインターンの話をしていた。3年の夏。周りはもう、就職活動の準備を始めている。僕の頭の中にあるのは、370万円の穴だけだった。


 窓際の席に、篠宮(しのみや)澪(みお)がいた。


 同じゼミになって4ヶ月。僕は、彼女の声をちゃんと聞いたことがなかった。


 グループワークでは、いつもうなずくだけ。質問されると、短く答えて目を伏せる。背中まで届く黒い髪を、右側だけ耳にかけている。資料の端をそろえる指だけが、いつも几帳面だった。ゼミの誰も、彼女のことをよく知らなかった。


 一度だけ、同じ班になったことがある。僕が作った表の数字の間違いを、篠宮は黙って鉛筆で丸く囲んで、こちらに押し返してきた。正しい数字が、小さな字で横に書いてあった。その下に、1文字だけ、「雑」とあった。僕が礼を言うと、篠宮は首を横に振っただけだった。


 声は、聞かなかった。


「次、篠宮さん」


 教授が名前を呼んだ。


 篠宮が、立ち上がった。


 資料を胸の前で握って、前に出る。スクリーンに、1枚目のスライドが映る。商店街の空き店舗の写真。


 篠宮は、息を吸った。


「本日は、商店街の空き店舗を、若い事業者に貸し出す仕組みについて、発表します」


 僕の背中が、椅子から浮いた。


 次の言葉は、出てこなかった。


 篠宮の唇が、かすかに開いたまま止まっている。資料を握る指が、白くなっていく。教室の空気が、少しずつ重くなる。誰かが、椅子をきしませた。


 5秒。10秒。


 篠宮の喉が、動かない。


 教授が、柔らかい声で言った。


「篠宮さん、資料はあとで提出してくれればいいよ。じゃあ、次の人」


 篠宮は小さく頭を下げて、席に戻った。顔は真っ白だった。座ったあとも、握った資料を離さなかった。


 次の発表が始まった。誰も、何も言わなかった。いつものことだ、という空気だった。後ろの席で誰かが「また?」と小さく笑い、隣の誰かがそれをたしなめた。


 篠宮は、窓の外のツタを見ていた。こちらからは、横顔の輪郭しか見えなかった。


 僕は、次の発表を一文字も聞いていなかった。


 耳の奥で、さっきの一文が鳴り続けていた。澄んでいて、よく通る、落ち着いた真ん中の音。本棚の写真の向こうで、毎晩、誰かに届くのを待っていた声。


 一文で、わかった。


 昨夜の声だ。


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