第2話 全然足りない
7月25日(土)。夜勤明けの朝。
駅前の銀行のATMコーナーの前で、僕はシャッターが上がるのを待っていた。
隣では、背の高い夜勤の同僚が、麦茶のペットボトルを片手に欠伸をしている。毎月25日、そいつは何も聞かずに、ここまでついてくる。
シャッターが、ガラガラと上がっていく。
6年前、父の工場で聞いたのと同じ音だった。今度は、上がっていく音だった。
カードで1万円を入れる。出てきた明細票を、財布の奥にしまう。34枚目。家に帰ったら、菓子の空き缶に入れる。
続けて、通帳を入れる。印字の音が止まって、通帳が戻ってくる。いちばん下の行。
1,000,000。
34回目の入金だった。
隣で、ペットボトルのキャップが閉まる音がした。
駅前で同僚と別れて、アパートまでの10分を、僕はいつもよりゆっくり歩いた。
最後の1回は、1万円でいい。だから7月は、夜勤を2晩減らして、前期試験の勉強に回した。
高校3年の10月、制服のままATMの前に立った日、100万円という数字は遠すぎて、ほとんど冗談みたいに思えた。月3万円。1年で36万円。3年近くかかる。その間に心が折れる理由なら、いくらでも思いつけた。
折れなかったのは、意地だったと思う。あの夜の黄色い画面に、背中を押され続けた意地だ。
朝比奈創、20歳。立聖大学経営学部経営学科、3年。
身長170センチ、体重56キロ。髪は、1,000円カットで、2ヶ月に1回。
所持金、100万円と、財布の中の2,000円。
今日から、僕は事務所を作る。
◇
アパートは、池袋から私鉄で15分の、築40年の6畳だ。
敷きっぱなしの布団を足で畳んで、低いテーブルにノートパソコンを置く。中古で買った型落ちで、起動するたびにファンが悲鳴を上げる。
デスクトップに、ファイルが1つだけある。
「事務所計画書_第47版」。
開くと、いちばん上のセルに、一文が貼りつけてある。
〈高校生の夢としては面白い〉
高校3年の秋、僕はこの計画書の第1版を、日本政策金融公庫が開いている高校生ビジネスプラン・グランプリに出した。テーマは、VTuber事務所の立ち上げ。結果は1次審査で落選。返ってきた講評の、いちばん最後に書かれていたのが、その一文だった。
悔しくて、悔しくて、消せなかった。
だから、いちばん目につくところに貼った。この一文を書いた人が、いつかこの計画書を見て黙るように。
その計画書を、今日、本物にする。
僕は、表の「理想コース」のシートを開いた。
1期生は2人、同時にデビューさせる。互いの配信に呼び合えるし、話題も倍になる。
この3年、見られる限りのデビュー配信を表にしてきた。最初の1週間で話題が爆発しなかった子は、ほとんど続かなかった。
1行目から、声に出して読む。
「キャラデザ、立ち絵イラスト、三面図、キービジュアル。70万円かける2人で、140万円」
VTuberの顔になる絵だ。有名事務所ならともかく、誰も知らない新興事務所がここをケチったら、誰も足を止めない。人気の絵師の値段は、表に出てこない。拾えた話では、大手の事務所の仕事で50万から80万円。その上のほうを入れてある。
「Live2Dのモデリング。30万円かける2人で、60万円」
絵を動かす技術。瞬きも、口の動きも、首の傾きも、全部ここで決まる。
「配信の素材と、ショート動画。一部を外注して、10万円」
「YouTube広告。70万円かける2人で、140万円。登録者1万人、ちゃんとしたPVで広告を回せれば、ほぼ確約」
ほぼ確約、と打ったのは、たしか大学1年の冬だ。広告を出せば、出した分だけ登録者が増える。そこは、計算で詰めてある。
「PCと防音の機材。社長と、タレント2人の3人分。120万円」
「固定費。青バッジ、サーバー代。これは毎月の払いだから、別のシート」
最後の行。
「合計、470万円」
僕は、テーブルの横に置いた通帳を見た。
1,000,000。
表を見る。
4,700,000。
通帳を見る。
1,000,000。
……。
……全然、足りないじゃないか。
僕は、そのまま畳の上に仰向けに倒れた。
天井のシミが、人の顔に見えた。笑っている気がした。
スマホが震えた。母からのメッセージだった。
〈夏休み、帰ってくる? お父さんも待ってるよ〉
待っているとは、たぶん言っていない。母はいつも、父の分まで言葉を足す。
僕は「忙しいから、たぶん無理」とだけ返して、スマホを伏せた。
足りないことは、知っていた。計算は何十回もした。
それでも、100万円はスタートラインのつもりだった。足りない分は、自分で取りに行く。ただ、手ぶらで行く気はなかった。人の金を動かす前に、机に置ける数字を、まず自分の手で作る。そのための34ヶ月だった。
そのスタートラインに、今朝、やっと立った。立ってみたら、ゴールは見えなかった。
◇
起き上がって、もう1枚のシートを開く。
「最低限コース」。
キャラデザは50万円ずつで、100万円。Live2Dは同じく60万円。素材は自分で作って0円。広告は最低限の20万円。機材は中古と型落ちで、60万円。
合計、240万円。
それでも、140万円足りない。
しかも、だ。
僕はブラウザを開いて、自分の表を更新した。載せた分だけで、今週デビューした新人が41人。先月、活動の終了を告知した事務所が3社。この夏、この業界は、もう黎明期ではない。
泥臭いコースで出ていけば、埋もれる。
見つけてもらえないまま、消える。
あの夜の、黄色い画面と同じ場所へ。
それだけは、嫌だった。
◇
数字の読み方は、父の工場の帳簿で覚えた。
小学生のころ、僕は工場の事務机の下が好きだった。父は帳簿をつけながら、ときどき僕を膝に乗せて、何も言わずに、赤い数字の行を指でなぞった。帳簿を汚さないように、その指は、紙から少しだけ浮いていた。
僕の名前は、その父が付けた。創と書いて、つくる。
「物を創る人間になれ」
小さいころ、何度もそう聞かされた。
工場が潰れてから、父はその話を一度もしなくなった。今は警備員の仕事をしている。実家に帰っても、テレビの前で黙っていることが多い。
もし今、父がこの表を見たら、何も言わずに、足りない数字の行を指でなぞるだろう。
僕は表に戻った。
足りない分を埋める方法を、空いたセルに打ち込んでいく。
借りる。銀行は学生には貸さない。日本政策金融公庫なら、創業の融資がある。ただ、実績のない学生にいくら貸すのかは、わからない。
出資を受ける。投資家に、会社の株を買ってもらう。でも、そもそも会社がない。
費用を削る。広告と並んでいちばん大きいのは、キャラデザの140万円だ。ここを安くすれば、計画は一気に現実に近づく。けれど、安い絵では誰も足を止めない。そこを削ったら、勝てる計画ではなくなる。
3つのセルの横に、僕は同じ記号を打った。
?
どれも、答えはまだない。
理想コース、470万円。手元、100万円。
差額のセルに、数式を入れる。
Enterキーを叩く。
足りないのは、370万円だ。
その夜、僕はある配信を見つける。




