第1話 1キャラ100万
閉会まで、あと10分。
夏コミ1日目、東京ビッグサイト。長い列を作れるサークルだけが並ぶ壁際で、僕は今日2度目、同じ男の前に立った。
「また来たのか、ガキ」
男は顔を上げなかった。「完売」の札を剥がして丸め、足もとのゴミ袋に放り込む。左手には缶コーヒー。顎には、白いものの混じった無精ひげ。
「言ったはずだ。1キャラ100万からだ」
黒鉄鋼一。『アッシュ・バラッド』全42巻、累計5,000万部、アニメ3期に劇場版2本。僕が子どものころ、日本中が読んでいた漫画の作者だ。父の本棚から1冊ずつ抜き取って、僕も布団の中で読んだ。午前中に一度だけ見た目つきは、紙の上の主人公よりずっと悪かった。
両隣のサークルの人たちが、ちらりとこちらを見た。撤収の手は止めずに、耳だけこちらに向けているのがわかる。
1度目は、何も言い返せないまま、列に押し流された。
背中のリュックには、ノートと通帳が1冊ずつ入っている。
僕は肩紐を握り直した。
息を吸う。
口の端が、勝手に上がった。
「100万、妥当な金額です」
黒鉄の手が、止まった。
「いえ──あなたの価値なら、安すぎる」
黒鉄は、まだ顔を上げない。けれど、缶コーヒーは口もとへ戻らなかった。
「だから──」
◇
6年前の2月。僕は中学2年生だった。
その夜、家の前でシャッターの下りる音を聞いた。
うちは町工場だった。朝比奈精機。精密部品を削る小さな工場で、従業員は父を入れて9人。切削油の匂いと、旋盤の回る音が、僕の子守唄だった。
父の手は、いつも黒かった。爪の間に入り込んだ油は、どれだけ洗っても落ちなかった。その手で作った部品は、0.01ミリも狂わないと、元請けの人がよく褒めていた。
褒めながら、毎年、単価を下げていった。
「いい物を作った奴が、いちばん損をする」
父が晩酌のたびに漏らしたその言葉の意味を、僕はその夜、初めて知った。
機械が1台ずつ、トラックで運び出されていった。最後に、父が自分の手でシャッターを下ろした。
ガラガラと鳴る音が、いつまでも耳から離れなかった。
その夜、父は工場の鍵を台所のテーブルに置いたまま、二度と手に取らなかった。
眠れなかった。布団をかぶって、スマホの画面だけを光らせていた。YouTubeを開いて、何かを探すでもなく、親指で画面を流し続けた。
そのとき、見つけた。
ひなたんご。
お団子に結った髪に、お日さまの髪飾りをつけた、小さな女の子のアバター。個人で活動しているVTuberだった。深夜の雑談配信。動画の下に、小さく「3人が視聴中」と出ていた。今この配信を見ている人の数、同時接続数だ。
僕を入れて、3人だった。
配信の中身は、他愛もなかった。コンビニの新作のアイス。窓の外にいた猫。好きな漫画の話。それを、たった3人に向かって、楽しそうに喋っていた。
「あ、いらっしゃい。こんな時間に、眠れないの?」
コメントを打ってもいないのに、その子は言った。数字が1つ増えたのに、気づいたんだと思う。
僕は何も打てなかった。ただ、その声を聞いていた。
その夜から、僕は毎晩、ひなたんごの配信を開いた。父は昼のあいだ職を探して歩き、母は夜中に台所で泣いていた。家の中のどこにも、僕の居場所はなかった。深夜の配信だけが、毎晩同じ声で「いらっしゃい」と迎えてくれた。
初めてコメントを打てたのは、見はじめて3ヶ月目の夜だった。
〈おやすみなさい〉
たった7文字。ひなたんごはそれを声に出して読んで、うれしそうに笑った。
「うん。おやすみ、ひだまりさん」
ひだまりさん。ひなたんごは、見ている人をそう呼んでいた。ファンネームというやつだ。
その「おやすみ」が、どれだけ僕を朝まで連れていってくれたか、たぶん彼女は知らない。
同接は、いつも3人前後だった。2年間、ほとんど増えなかった。
◇
その2年後の2月。高校1年の冬。
ひなたんごの、最後の配信の夜。
同接は、やっぱり3だった。
「今日で、ひなたんごはおしまいです」
いつもと同じ、明るい声だった。
「2年間、毎晩来てくれた人がいるの、知ってます。3人です。名前も、ちゃんと覚えてます」
その3人の中に、僕もいた。
「……誰かに見つけてもらえる人に、なりたかったな」
その一言だけ、声が少し揺れた。
「でもね、最近思うの。見つけてもらえなくても、見つけることはできるんだって」
「ひなたは、夜になったら消えちゃうけど。夜には夜の、明かりがあるからね」
「おやすみ、ひだまりさん」
配信が終わった。最後に映った黄色い画面が、そのまま動かなくなった。
僕は、その黄色を、窓の外が白くなるまで見ていた。
見つけてもらえなかった。
あんなに温かい声だったのに。毎晩、たった3人のために、2年も喋り続けた人だったのに。
才能は、見つからなければ、無いのと同じになる。
その朝、僕はそれを知った。
そして、決めた。
見つける側に、なる。
◇
高校3年の10月25日。僕は駅前のATMに、初めて3万円を入れた。
翌月の25日にも、3万円。その次の月も、3万円。
引越しのバイトで、肩の皮が剥けた月も。倉庫の夜勤で、段ボールの角で指を切った月も。塾の講師のバイトで、教えていた中学生に泣かれた月も。
クラスの打ち上げは、3回に2回断った。割れたスマホの画面は、テープを貼って使い続けた。大学の学食では、いちばん安い定食の、ご飯の大盛り無料にだけ頼った。
毎月25日。必ず、同じ額を。
ATMから出てくる明細票は、捨てずに菓子の空き缶に入れてきた。缶の蓋を閉めるたびに、ひなたんごの最後の声が、耳の奥で鳴った。
VTuberの事務所を作る。そのための、最初の100万円だった。
通帳の行が、1行ずつ増えていった。
33回目までで、99万円。
34回目だけ、1万円。
そうして、この夏の7月25日、通帳の最後の行の数字が、きれいに揃った。
1,000,000。
34ヶ月。誰に頼まれたわけでもない。誰に褒められたわけでもない。
◇
閉会まで、あと10分。
黒鉄は、まだ顔を上げない。
会社はない。タレントとの契約書もない。この人の前に立つ資格なんて、何ひとつない。膝は、さっきから震えている。
それでも、口の端は上がったままだった。
これは僕が、最強のVTuber事務所をつくるまでの物語だ。




